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亀裂

 天文八年(1539年)十二月。伊丹城の一室は、火鉢の炭がはぜる音だけがやけに大きく響いていた。相沢玄蕃は、文机に広げられた帳簿から目を上げない。墨を含ませすぎた筆が、帳面の上で鈍い染みを作った。


「……この、能無しどもが」


 吐き捨てた声は、誰に聞かせるでもなく、底冷えのする空気に溶けて消えた。

 水江村のやり方を、文吾から聞き取った通りに他の村々で試させて、半年。結果は惨憺たるものだった。田の普請は進まぬどころか、慣れぬやり方に手間取った百姓どもの不満が溜まり、かえって村の活気を削いだ有様である。


 帳簿の数字が、玄蕃を嘲笑っている。


 筆を置いた。


 鼻の下が、ひりりと痛む。こすりすぎたか。


(あの小童……)


 脳裏に、朔の顔が浮かぶ。


(あの知恵は、俺のものだ)


 水江村というひとつの村に留めおくには、あまりに惜しい。

 いや、危険ですらある。あの村だけが豊かになれば、それは伊丹家中における玄蕃の力の源泉であると同時に、他の者どもの嫉妬と疑心を招く火種となる。知恵は、広く薄く、己の手柄としてばら撒かねばならぬ。


「文吾」


 帳簿を睨んだまま、低い声で呼んだ。障子の向こうで、気配が動く。


「はっ」


「水江村へ行くぞ。例の小童を召し連れてくる」


「はあ、朔めにございますか。何用で…」


「技術指導だ」


 玄蕃は、初めて顔を上げた。

 その目は、獲物を見つけたというよりも、使い勝手の良い道具を見つけた職人のように、冷たく据わっていた。


「あの知恵を、他の村にも分け与えてやる。無論、この相沢玄蕃の名において、な」


 その言葉に、卑屈な笑みが浮かぶ。


 文机の脇に置かれた湯呑みに手を伸ばす。

 とうに冷え切った白湯は、まるで灰でも飲んでいるかのような味がした。


 ◇◇◇◇


 相沢玄蕃あいざわげんば水江村みずえむらに現れたのは、昼餉ひるげの支度が始まる前のことだった。供の足軽を数人連れている。その目に、焦りと苛立ちの色が浮かんでいた。


さくとやら。息災であるか」


 わざとらしく、丁寧な口調だ。朔は、黙って頭を下げた。十一の童にできることは、それくらいだ。


「さて、単刀直入にいう。貴様の知恵を、他の村にも授けてもらいたい」


「……それは」


「これは、伊丹いたみ様のご意向だ。当方は、そのお取次ぎに参ったにすぎぬ」


 嘘だ。朔はすぐに見抜いた。文吾ぶんご通じて聞き出したやり方を試したが、うまくいかなかったのだろう。だが、公儀の名を出されては、百姓の子に否やはない。


「……お奉行様の、仰せのままに」


「ほう、物分かりが良くて助かる」


 玄蕃は満足げに頷いた。


 それから、意を決したように顔を上げる。


「ですが、そのためには準備と物入りでございます」


「ほう」


「飢えに苦しむ村の者たちは、心がささくれ立っております。腹の減った者に、難しい話は届きませぬ」


 玄蕃は、鼻の下をこすった。


「何が必要だ」


「まずは、食い物でございます。飢えた者たちに粥を振る舞うためのあわひえ。それから、働いた者への褒美として、里芋を」


「……」


「塩も要ります。衰えた体には、塩が何よりの薬となりますゆえ」


 それから、と朔は続けた。


「お供の者もお許しいただきたい。荷運びの人足と補助に数人」


 理路整然としていた。すべてが、「お奉行様の事業を成功させるため」という大義名分で固められている。玄蕃は、この小童の抜け目のなさと小賢しさに舌を巻いた。


 しかし、持ち出しが全て水江村であるなら、己の懐は傷まぬ。


「……よかろう。すべて認めよう」


 玄蕃は、満足げに頷いた。


「だが、結果は出してもらうぞ。当方の顔に泥を塗るようなことがあれば、どうなるか……分かっているな?」


 ◇◇◇


 水江村の村壁は、冬の陽光を浴びて、その黒々とした威容を誇っていた。だが、その内側の安寧とは裏腹に、村を取り巻く世は、飢えと寒さで凍てついている。


 相沢玄蕃の供をするのは、いつものように文吾、そして朔と朽木玄斎、彦太、そして水江村の農夫五人であった。玄蕃の「技術指導」という名目は、事実上の強制連行に他ならない。


「……」


 朔は、黙って玄蕃の後ろを歩いていた。継ぎ当てだらけの小袖から覗く手足は細いが、その歩みには奇妙な確かさがある。時折、道端の霜柱や、枯れ枝の形に、静かな光を宿す目を向ける。


 その小さな頭の中で、この理不尽な状況が、いかなる勘定に繋がるのか、計算が続けられている。


 その朔の半歩後ろを、朽木玄斎がひょろりとした長身を揺らしながらついていく。

 色褪せた小袖姿はそこらの流民と変わらぬが、その眼光だけは、冬の荒野を渡る狼のように鋭く、片時も玄蕃と、そして周囲の景色から外されることはない。


 朔の身に危険が及べば、この老人は瞬時に牙を剥くだろう。その殺気を、玄蕃も肌で感じているのか、ことさらに尊大な態度を崩そうとはしなかった。


 道は固く凍り、一歩ごとに足の裏から芯の冷えるような衝撃が伝わってくる。道端には、時折、力尽きたように倒れ伏す流民の姿があった。彼らはもはや、物乞いをする気力さえ失くしている。ただ、虚ろな目で通り過ぎる一行を眺めているだけだ。


「ふん、怠け者どもが」


 玄蕃が、唾を吐き捨てるように言った。

 その言葉を、朔は聞いているのかいないのか、ただ前を見据えている。


 玄斎は、顎の無精髭を撫でながら、凍てついた空を見上げた。そこには、カラスが数羽、輪を描いている。


 ◇◇◇◇


 一行が最初に訪れたのは、三宅みやけの村だった。

 そこは、静かな死に沈んでいた。名主が集めた村人たちは、痩せこけ、土気色の顔で虚空を見つめている。話しかけても、弱々しい視線が返るだけだ。


 初の村は、三宅みやけ村といった。死の沈黙に包まれていた。


 相沢の足軽が名主を恫喝し、痩せ衰えた村人たちが広場に集められる。みな、虚ろな目で地面を見つめている。話しかけても、何の反応もない。病と腐敗の臭いが、鼻を突いた。


「これでは話にならん」

 朔は呟くと、ただちに命じた。


「すぐに火を起こせ。大鍋で粥を炊く」

 相沢配下の足軽の一人が、せせら笑う。


「小童、気前がいいじゃねえか。どうせなら、芋でも食わせてやれ」


「馬鹿をいえ」

 朔は鋭く言い返した。


「飢え切った者に固いものを食わせれば、臓腑が驚いて死ぬわ。まずは、この薄い粟粥で腹を慣らさねばならん」

 その言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。足軽は、気圧されて黙り込む。


 やがて、粥が炊きあがった。村人たちは、恐る恐る差し出された椀を受け取る。温かい粥が、乾いた体に染み渡る。虚ろだった目に、かすかな光が戻った。


 粥を配り終え、村人たちが少し落ち着いたのを見計らい、朔は仕事を始めた。男衆を、村で最も出来の悪かった麦畑に連れてゆく。

「皆の衆、去年の冬麦はなぜ育たなかったとおもうか」


 男たちは顔を見合わせ、ぽつりぽつりと答え始めた。


「日照りか」


「いや、雨が多すぎた」


「根が腐っちまったんだ」


 朔は頷きながら、地面に図を描く。


「そうだ、水が多すぎた。土が息をできずに、麦の根が腐った。ならば、土の中から水を抜いてやればよい」


「掘ってみろ。根はどうなっている?」


 男たちが、おずおずと鍬を入れる。黒く、ぬめった根が現れた。


「黒い……腐っておる」


「なぜだ?」


「水が……抜けんからか」


 朔は答えを教えぬ。彼ら自身に、原因を突き止めさせる。根腐れという結論に彼らが達した時、初めて朔は口を開いた。


「この畑に、溝を掘る」


 水江村の農夫たちが、手本を見せた。竹と柴を使い、水が抜ける道を作るのだ。


「今日、この溝を掘った者には、里芋を三つずつ渡す」

 その言葉に、男たちの目が変わった。


 一方、女衆には彦太が教えていた。


「このわらびの根はな、こうやって何度も水に晒して灰汁あくを抜けば、団子にして食えるんだ。朔殿に教わった」

 彦太は、朴訥ぼくとつだが、懸命に言葉を紡ぐ。それは、生きるための知恵であった。


 一方、女衆や子供には、彦太が教えていた。


「これはただの団栗どんぐりだが、やり方次第で餅になる。これはわらびの根っこだが、腹の足しになる」

 彦太が、大きな桶に蕨を並べている。その上から、かまどの灰をぱらぱらと振りかけた。


 女衆の一人が、訝しげに訊く。


「彦太さん、そりゃあ、何してるんだね?」


「よう見てな。こうして灰をかけたら、煮え立った湯をかけるんだ。一晩もすれば、毒が抜けて、ご馳走になる」


 彦太は、大鍋で沸く湯を指した。その朴訥な言葉には、生きるための確かな重みがあった。

 その夜。相沢が酒で悦に入っている隙に、朔は村の名主を人気のない場所へ呼び出した。


「一つ、奇妙な頼みがある」


 朔は声を潜めた。


「お宅の民家の床下にある、古い土を買い取りたい。来春、水江村まで運んでくれれば、来年用の種籾たねもみと、さらに多くの里芋を渡そう」


 名主は訝しんだが、否とは言えなかった。家畜の糞尿が染み込み、長年かけて硝酸塩が蓄積された床下の土。それは、火薬の原料となる硝石の材料となる。宝の山だった。


 一行が三宅村を去る時、村人たちは道端に並び、深々と頭を下げた。それは、支配者への恐怖ではない。命の恩人への、感謝の念がこもっていた。


 ◇◇◇◇


 次に訪れた富松とまつの村は、頑固だった。椋橋とは対照的に、村人たちにはまだ体力と、そして強固な自負が残っている。


 いつものように薄粥を振る舞い、男衆を集めて問答を始めた時、一人の古老が朔の言葉を遮った。


「童よ。そのやり方は、先祖への侮辱だ。我らは代々、この土地の神仏と語らい、種を蒔いてきた。昔はこのやり方で、見事な麦が実ったものだ」


 彼の言葉に、数人の男たちが力強く頷く。

「しかし、今は飢えている。昔と同じやり方では、今年も同じ結果になるのでは?」


 朔の論理は、感情の壁に弾き返された。

「知恵比べをしに来たのか!祟りがあったらどうするのだ!」


 議論は平行線を辿る。対話と合意形成という手法は、絶対的な権威か、圧倒的な暴力の前では無力だ。朔は静かに立ち上がり、離れた場所で腕を組み、苛立たしげに事の推移を見守っていた相沢玄蕃の元へ向かった。


「相沢様。どうやら、この者らは伊丹様の権威を軽んじていると見えます」

 この一言は、相沢の虚栄心に火をつけた。


 相沢はゆっくりと古老たちの輪に歩み寄ると、鞘に収まったままの刀の柄に手をかけた。その仕草だけで、場の空気が凍りつく。


「当方の言葉が聞こえなかったと見える」


 相沢の声は低く、侮蔑に満ちていた。


「この童の言葉は、今や伊丹様の御下命そのものだ。古くからのやり方とやらが、腹を満たしてくれるのか?否か?それとも、伊丹様への返答を、この場で刀に刻んでやろうか」


 暴力の匂いを前に、古老の頑迷さは脆くも崩れ去った。朔は、その光景を諦観の目で見つめていた。


(仏の顔だけでは、人は動かぬ。鬼のかおを見せてこそ、人は従う……)


 それが、この世のことわりであった。


 彼は、恐怖に震える名主の元へ静かに歩み寄り、三宅村と同じように、床下の土を買い取る密約を、有無を言わさぬ口調で結んだ。


 ◇◇◇◇


 三つ目の鳥飼とりかい村での指導は、順調に進んだ。朔の関心は、この村の名主の人柄を見極めることにあった。名主は、飢えにやつれながらも、その目に鋭い計算の光を宿している。この男なら、と朔は判断した。


 滞在二日目の夜。朔は、備蓄食糧の確認を口実に、名主を二人きりになれる蔵へと誘った。相沢の耳が届かぬことを確かめると、静かに切り出す。


「名主殿。五十年来、人の住まう家の床下の土には、妙な力が宿るという」

 名主は、訝しげな顔で朔を見た。


「それは、強い薬にもなれば……大きな音を立てるものの種にもなる。あるお方々が、それを高く買われるのだ」


 朔は、取引の内容を囁いた。雨に濡れぬ、古い家の床下の乾いた土。それを袋に詰め、水江村の近くに定めた場所まで密かに運んでくれば、その十袋につき、来年用の種籾一袋と、里芋を五籠与える、と。

「……来年の、種籾だと?」


 名主の目が、ギラリと光った。今日の飢えを凌ぐだけの救荒作物とは、比べものにならぬ。未来への、約束であった。


「承知した。この話、誰にも漏らさぬ」


 名主は、深く頷いた。


 ◇◇◇◇


 年が明けた天文九年(1540年)。一行は、伊丹家譜代ふだいの家臣・野間長久のまながひさの所領へ入った。


 水江村周辺の荒れ果てた田畑とは違い、ここの土地は、痩せてはいるものの、人の手がきちんと入っていることが見て取れた。畦は崩れておらず、冬麦の青い芽が、寒風に健気に揺れている。


「…ほう」


 玄斎が、かすかに呟いた。それは、感心とも、あるいは別の何かを見定めたような、低い声だった。

 これまでの村々とは、空気が違う。家々は整然と並び、人々の顔つきにも卑屈さがない。


 ここでの指導は、はじめは順調に進んだ。名主を始め村人たちは初めは戸惑っていたものの、お上の差配ということで、よく話を聞いた。


 問題は、相沢玄蕃の増長しきった態度にあった。数々の村を力で従わせたことで、相沢は自分が名君にでもなったかのように錯覚していた。

「野間殿のやり方は古すぎる。これからは、全て当方のやり方に改めていただく。これも、伊丹の御家のためだ」


 相沢の言葉は、助言ではなく命令だった。成り上がりの役人が、代々伊丹家に仕えてきた譜代の家臣の誇りを、土足で踏みにじったのだ。


「勝手にしおって!」

 野間に忠実な名主が、耐えかねて叫んだ。


「ここは野間様の御領地だ!貴様の指図など受けるものか!」

 そう言うと、名主は野間本人を呼びに走った。


 ほどなくして、数人の供を連れた野間長久が、厳しい表情で現れた。

「相沢殿、我が領内で何の騒ぎだ」


「……野間殿。当方は、伊丹家の御為を思って、こうして足を運んでおる。その忠心を、侮辱なさるか」

「忠心、とな。銭の勘定ばかりにうつつを抜かし、武士の誇りを忘れ果てた男の、どの口がそれを言うか」


 次の瞬間、野間が立ち上がっていた。その手が、玄蕃の胸ぐらを鷲掴みにする。

「成り上がりの徴税吏ふぜいが、この私を誰と心得る!」


「離せ、下郎!」


 一触即発。玄蕃の顔は恐怖と屈辱に歪み、文吾は腰を抜かして震えている。朔は、ただじっと、二人の男を見つめていた。その目は、恐怖も驚きもなく、まるで盤上の駒の動きを確かめるかのように、冷徹に事態を観察していた。


 野間は朔の目線に気づき、童の瞳に映る激情している己の姿を見て落ち着きを取り戻した。


「……お帰り願おう。伊丹家も、地に落ちたものよ」


 野間の吐き捨てるような一言で、場は決した。


 ◇◇◇◇


 相沢は憤怒の表情で伊丹城に帰っていった。


 水江村への帰り道は、来た時よりも一層、寒さが身に染みた。陽は西に傾き、枯れ木立の影が、道の上に長く伸びている。


 やがて、水江村の村壁が見えてきた。家々の煙突からは、夕餉の支度をする煙が細く立ち上っている。その光景に、朔はふと、足を止めた。


「玄斎」


 小さな声だった。


「なぜ、あの時、二人を止めなかった?」


 今日の昼間、野間の屋敷でのことである。玄斎が割って入らなければ、あるいはどちらかが血を見ていたやもしれぬ。だが、玄斎の介入は、あくまで二人が一線を越えぬようにするための、最低限のものでしかなかった。本気で止めようと思えば、できたはずだ。


 玄斎は、足を止めずに、ゆっくりと歩きながら答えた。その目は、茜色に染まる西の空に向けられている。


「腐った柱は、いずれ折れる」


 酒に焼けた声が、冷たい空気の中を静かに渡った。


「下手に手を出せば、こちらが潰されるだけだ」


 その言葉は、相沢玄蕃という個人の脅威の背後にある、もっと大きな、抗いようのない時代のうねりを朔に予感させた。伊丹家という家そのものが、内側から腐り、崩れ落ちようとしている。今日見た亀裂は、その崩壊の、ほんの始まりに過ぎないのかもしれない。


 朔は、もう何も言わなかった。ただ、玄斎の少し前を歩くその背中を見つめ、再び歩き始めた。村から漏れてくる、味噌汁の匂いが、鼻先をかすめた。

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