噴霧器
天文八年(1539年)の十月。
乾いた風が、野を吹き抜けてゆく。
刈田では、弥平たちが鍬を振るっていた。
緑豆の収穫を終えたあとの土に、残滓を鋤き込む。土を高く、高く盛り上げていく。
幅三尺、高さ一尺ほどの「高畝」であった。
女子供が、その高畝の中央に溝を掘る。
集めてきた落ち葉、米ぬか、下肥を混ぜたものを、その溝に埋めていく。
土中の熱を保ち、冬麦の根を寒さから守る。
朔の知恵であった。
「よいしょ、こらしょ」
子供らの声が、乾いた空気に弾ける。
おふみをはじめとする童たちが、小さな背負い篭に枯葉を詰め、堆肥場へと運んでゆく。
土の匂い。
草の匂い。
そして、子供たちの笑い声。
それが、今の水江村の匂いであった。
◇◇◇◇
沢西村を囲む、真新しい木の壁はすでに完成している。
水江村でも、槌の音が響いていた。
カーン、カーン、と高く、乾いた音が村に響き渡る。
村の男たちに混じり、見慣れぬ顔の男たちが黙々と杭を打ち、分厚い板を打ち付けていく。
飢えを逃れてきた流民の中から、朽木玄斎が見極めた者たちだ。
その作業を、朽木玄斎と元足軽の甚兵衛が、厳しい目で見張っている。
壁は、もう間もなく村のすべてを囲い終えるだろう。
ただ、壁が囲いきれぬ家が、数軒ある。
村のはずれ、川に近い作兵衛の家だ。
朔と権爺が、縁側に座る作兵衛と向き合っていた。
「作兵衛さ。頼む、聞いてくれ。壁の内側に移ってくれんか」
権爺が、杖を握る手に力を込めていう。
「この頃は、物騒でのう。いつ、はぐれ者の野武士や、食い詰めた連中が押し込んでくるか、分からん」
作兵衛は、頑として首を横に振った。
「嫌じゃ」
きっぱりと言い放つ。
「わしは、ここで生まれ育った。じい様も、そのまたじい様も、この家で死んだ。裏には墓もある。ここを動くくらいなら、死んだ方がましじゃ」
その目は、先祖から受け継いだ土地に向けられている。
「死んでしもうたら、元も子もない」
朔が、静かに言った。
「いざという時は、家も畑も捨てて、壁の内側へ逃げてくれ。約束だ」
作兵衛は、下を向いたまま動かない。
説得は、この日も実らなかった。
◇◇◇◇
その日の夕餉は、朔の家でとられた。
母のタエが、膳を運んでくる。
「朔や。冷えるだろう」
椀には、湯気の立つ白い飯。そして、小さな皿に、黄金色の炒り卵が乗っていた。
「……おっかあ」
「弥平のとこの鶏が、よう卵を産むでな」
タエは、そう言ってはにかんだ。
朔は黙って膳を受け取ると、まず卵を一口、飯とともにかき込んだ。
腹の中に、温かいものがじんわりと広がる。
「皆、よう働くな」
タエが、目を細めて外を見る。
「ああ。来年の春には、また腹一杯、麦の飯が食える」
「お前さんのおかげだよ」
「俺ひとりの力じゃない。皆が、汗を流したからだ」
朔の言葉に、タエは黙って頷いた。
そして、おずおずと自分の膳の卵に箸をつけた。
「……わしらみてえなもんが、こないなもん食うて、バチは当たらんかのう」
「バチは当たらん。生きるために食うんだ」
朔の言葉に、タエはもう何も言わず、ただ静かに飯を食んだ。
「そうだ、おっかあ。見せたいものがある」
朔は膳を下げると、タエを家の土間へと誘った。
隅に、浅い木箱が置かれている。
蓋を開けると、むっとした土の匂いと、青臭い匂いがした。
「こりゃあ、なんだい?」
「もやしだ。おふみが育ててくれた」
箱の中には、湿らせた藁が敷き詰められている。そこから、白い芽が無数に伸びていた。
緑豆からもやしを育てる。これもまた、朔が持ち込んだ知恵であった。
「冬になれば、青いものが食えなくなる。こいつがあれば、汁の実には困らん。銭もかからず、腹の足しになる。うまくいったから、他の家の土間でもやってもらう」
「まあ……」
タエは、暗闇の中で力強く伸びる白い芽に、そっと指を触れた。
か細いが、確かにそこにある命の息吹。
それは、来るべき冬に備えるための、ささやかな、しかし確かな光であった。
◇◇◇◇
山の奥深く。
昼なお暗い木立を抜け、岩肌を回り込むように進んだ先に、「隠し村」はある。
谷間のわずかな平地に、炭焼き小屋や職人たちの作業場、そして醸造所までが、ひっそりと息づいていた。
ここに暮らすのは、朽木玄斎が流れ者の中から見極め、選び抜いた九家族、五十名。
水江と沢西の両村が隠し倉に蓄えた米で、彼らの暮らしは支えられている。
二つの村の本当の力を育むための、心臓であった。
醸造所の中は、蒸した米の甘い香りと、麹の匂いで満ちている。
杜氏の甚助の厳しい目が光る中、蔵人たちが黙々と働いていた。
蔵の外れでは、二人の男が交互に足踏み式の唐臼を踏んでいる。
規則正しい音が、谷間に響いていた。
雑味を嫌う杜氏の命で、麹米にも掛米にも、丹念に磨いた白米を使うのだ。
この贅沢こそが、澄んだ酒を生む「諸白」造りの肝であった。
仕込みの甕の中では、乳酸菌で酸っぱくなった「そやし水」で仕込まれた酒母が、ぷつぷつと静かな息をついている。
この酸っぱい水が、雑菌を退け、強い酵母だけを育てるのだ。
そこに、三日に分けて米と麹を加えていく三段仕込みの妙。
甚助の長年の勘だけが、その加減を知っている。
やがて、発酵を終えた醪は、麻の酒袋に入れられる。
巨大な木製の槽で、ゆっくりと圧をかけられた。
滴り落ちる雫は、水のように澄みきっていた。
その夜。
甚助が、興奮を隠しきれぬ様子で朔と朽木玄斎を迎えた。
「朔の旦那、玄斎様。……できやした」
甚助が指し示す甕の一つに、柄杓が差し入れられる。
すくい上げられた液体は、水のように澄んでいた。
「諸白だ……」
玄斎が、低い声で呟く。
隠し田で収穫した米を惜しげもなく使い、この老練な杜氏は、己の技の粋をここに注ぎ込んだのだ。
「それだけじゃござんせん」
甚助はもう一つの小さな甕から、猪口に液体を注ぐ。
ぷん、と鼻を突く、芳醇な香り。
「諸白の酒粕から造った、火の酒でさあ」
いわゆる、焼酎である。
だが、朔が最初に造ったものとは比べ物にならぬほど、洗練された香りと味わいを持っていた。
玄斎は黙って猪口を受け取ると、くい、と一口で呷った。
喉が、焼ける。
しかし、その熱さの後に、熟れた柿か、あるいは干した無花果のような甘く複雑な香りが、ふわりと鼻に抜けた。
普段、感情を見せぬこの男の目が、爛々と輝いている。
「……見事だ。よくやった」
「甚助、見事だ」
朔が言う。
「へえ。これほどの米を使わせてもらえるんで。腕が鳴らねえはずがござんせん」
甚助は、皺だらけの顔を誇らしげに綻ばせた。
朔は、澄んだ酒を見つめながら思う。
飢饉は、これからが本番だ。
畿内のどこかで、今日も誰かが飢え、死んでいく。
その中で、これほどの米を酒に変える。
この罪悪感を、忘れてはならぬ。
だが、この酒が産む莫大な富こそが、来年、村を飢えと暴力から守るのだ。
朔は、ぐっと唇を噛んだ。
◇◇◇◇
数日後、利吉は屈強な男たちを数人引き連れて、隠し村に姿を現した。
その身なりは、以前よりもずっと良い。
自信が、その全身から溢れていた。
「朔の旦那!いやあ、お待ちどうさまでした!」
荷を解かせると、出てくるのは塩や味噌、干物といった保存食。
そして、黒光りする十数本の槍の穂先と、使い古されてはいるが、まだ十分に役立つ胴丸が数領であった。
「へへっ、堺で旦那の新しい酒をさばきましてね。面白いように銭になりやした」
利吉は、算盤を弾くように指を動かしながら言う。
「これで、当座はしのげますかねえ」
「ああ、助かる」
朔は、槍の穂先を一つ手に取った。ずしりと重い。人を殺すための鉄の塊だ。この重みが、村を守る。
「それから、旦那に頼まれていたお人も、きっちりお連れしやした」
利吉が顎でしゃくる。
「いやあ、旦那に頼まれてから三月。堺中を探し回って、ようやっと見つけやしたぜ、この腕利きを!」
彼の後ろに控えていた男が、静かに一歩前に出た。
年の頃は四十ほど。
痩身で、日に焼けてはいるが、その物腰は日雇いの人足とは違う。
職人のそれであった。
「塗師の、宗治と申します。よしなにお見知りおきを」
男は、深々と頭を下げた。
その声には何の感情も乗っていない。
ただ、じっと相手の顔をうかがう目が、妙に印象に残った。
◇◇◇◇
その夜は、宗治を迎えてのささやかな酒宴が催された。
振る舞われたのは、もちろん、出来たばかりの諸白と、新しい火の酒だ。
利吉はすっかり上機嫌で、盃を重ねている。
「いやあ、美味え!この酒があれば、あっしの商売も安泰ですわい!」
ひとしきり笑った後、ふと思い出したように言った。
「そういやあ、ここ摂津の国では、大分きな臭いことが起きているようでしてねえ」
利吉によれば、細川晴元と三好長慶がまたも揉めたが、近江の六角の仲介で和議となり、長慶は摂津半国の守護代として越水城に入ったという。
「戦支度のせいで、飢饉だというのに侍たちが糧食を買い集めやしてね。おかげで堺の米の値は、また跳ね上がっちまいました。なんでも、晴元様と長慶様が早々に和解したのは、細川氏綱様がまだ雌伏しているのを、互いに警戒しているからだとか……」
その名が出た時、玄斎の盃を持つ手が、一瞬、ぴくりと動いたのを、朔は見逃さなかった。
◇◇◇◇
十一月に入り、冬の気配が濃くなった頃。
職人小屋には、大工の善兵衛と細工師の五郎太が、腕を組んで唸っていた。
彼らの前には、奇妙な形の木製の道具が置かれている。
朔が「噴霧器」と呼ぶ、新しい農具の試作品だ。
「駄目だ。どうしても漏れる」
善兵衛が、吐き捨てるように言った。
彼の腕をもってしても、箱鞴の継ぎ目から空気が漏れた。
五郎太が樫の木を二つに割って彫り上げた特殊な噴射口も、膠で貼り合わせただけでは水圧に耐えられず、すぐに継ぎ目が開いてしまう。
節を抜いた竹を麻布で繋いだ「百足管」も、関節から水が滲み、使い物にならぬ。
そこへ、朔が宗治を連れて入ってきた。
「善兵衛、五郎太。この男が、堺から来た塗師の宗治だ」
宗治は、黙礼する。そして、黙って噴霧器の部品を一つ一つ手に取っていく。
その目に、鋭い光が宿った。
「……なるほど」
ぽつり、と呟く。
◇◇◇◇
翌日から、宗治の仕事が始まった。
彼は言葉少なに、ただ黙々と刷毛を動かす。
黒く、粘り気のある漆を、薄く、均一に、木筒の内側や継ぎ目に塗り重ねていく。
百足管の関節には、麻布の上から漆を塗り固め、乾かしてはまた塗る作業を繰り返す。
その手つきには、一切の無駄がない。
気性の荒い善兵衛も、この男の仕事ぶりには何も言わなかった。
ただ、腕を組み、食い入るようにその手元を見つめている。
木の理を知る善兵衛には、宗治の技の確かさが分かったのだ。
この男は、本物だ、と。
数日後。
漆が乾き、部品が再び組み上げられた。
噴霧器の木肌は、濡れたような漆黒の光を放っている。
弥平が、おそるおる鞴の取っ手を握り、力を込めて押し引きする。
すると。
しゅう、という音とともに、筒の先から細かい霧が、勢いよく噴き出した。
霧は三間(約5.5メートル)ほど先まで届き、あたりはたちまち白い靄に包まれた。
水は、どこからも漏れていない。
完璧だった。
「おお……!」
善兵衛と五郎太から、同時に声が上がった。
「やったぞ、朔の旦那!こいつは……こいつは、化け物だ!」
四月もの間、ああでもないこうでもないと苦心してきたのだ。その喜びは、ひとしおであった。
朔も、息をのむ。
これで、来たるべき雲霞や蝗の大群と戦える。
村の技術だけでは越えられなかった壁が、今、打ち破られたのだ。
皆が、完成した噴霧器を囲んで歓声を上げる。
その中で、宗治だけが輪から外れ、静かに己の道具を手入れしていた。
その傍らで、朔が声をかける。
「宗治殿。見事な腕だ。感謝する」
「……いえ。仕事でございますので」
宗治は顔を上げ、静かに微笑んだ。
人好きのする、実直な職人の笑みだ。
だが、その目の奥は、笑ってはいなかった。
彼の目は、この山奥で生まれた新しい「力」の価値を、冷徹に査定していた。
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