検見
秋の空は、どこまでも高く澄んでいた。天文八年、九月下旬。水江村は、黄金色の豊穣に沸き立っている。
村は、祝いの熱気に満ちていた。
井戸の脇に据えられた大釜から、もうもうと湯気が立ちのぼる。里芋と茸を炊き込んだ汁の、土の香りをはらんだ匂いが、乾いた風に運ばれていく。広場に焚かれた篝火が、ぱちぱちと音を立ててはぜた。
「さあさあ、ようけお食べなされ」
朔の母、タエがしゃもじを手に、女衆を采配している。その声は、心なしか弾んでいた。
継ぎ当てだらけの小袖の袖をまくり上げ、額に汗して働く姿は、この村の誰もがそうであるように、満ち足りた喜びに輝いて見える。
村を囲う堅固な木壁の内側で、いくつも焚火が盛大に燃え上がっている。
広場の中央では、村の男たちが即興の笛や太鼓に合わせ、滑稽な身振りで田楽もどきの踊りを披露していた。
それを見て、女たちが甲高い声で笑い、手を叩く。
朔の足元で、数羽の鶏が土をついばんでいる。少し離れた場所では、村で初めて飼うことになった牛が、子供たちに背を撫でられて、のんびりと草を食んでいた。
誰もが、安堵に頬を緩ませている。
今年の米は、よく稔った。それだけではない。芋や豆が、腹を満たしてくれる。
その事実が、何より村人たちの心を温めていた。
◇◇◇◇
ふと、人の気配が動いた。朔は、誰に気づかれることもなく、すっと人の輪から離れる。
村はずれの竹藪へ入ると、闇に溶け込むようにして、一人の男が立っていた。山窩の若者、モロであった。
「……済んだか」
朔が問う。
「ああ」
モロは短く応じた。その声には、以前のような刺々しさはない。
「山の隠れ家、第一の普請は終わった。いつでも運び込める」
「そうか」
朔は筵の上に置いた、約束の米2俵と干し魚の包みを差し出した。
「これは、先払いだ。仕事が終われば、倍のものを渡す」
モロは黙ってそれを受け取った。
「……お前は、約束を違えぬな」
「利がある。それだけだ」
朔はそう言ったが、モロの目にはかすかな信頼の色が浮かんでいた。
やがて、こくりと頷くと、音もなく闇の中へ消えていった。
朔は、しばらくその場に立ち尽くしていた。竹の葉が、さわさわと風に鳴っている。
◇◇◇◇
朽木玄斎は、酒を飲まなかった。村の喧騒を背に、ひとり、村を囲む新しい木壁に沿って歩いている。月が、研ぎ澄まされた刀の刃のように冷たい光を放っていた。
玄斎の目は、闇に慣れている。耳は、風の音と虫の声の中から、不自然な物音だけを拾い出すことができた。
いたな。
森の暗がり。三人の男が、息を潜めている。
村の飯と仕事にあぶれた、流民のなれの果てだ。
その目に宿るのは、飢えと、自分たちを選ばなかった村への逆恨み。
手に手に、錆びた鎌や、削っただけの木の棒を持っている。哀れなものよ、と玄斎はおもう。だが、感傷は腹の足しにはならぬ。
玄斎は、音もなく彼らの背後に回り込んだ。
男の一人が、不意に何かの気配を感じて振り返る。その時にはもう、玄斎の鞘を払う音が、夜のしじまを裂いていた。
ひゅっ、と風を切る音。男の悲鳴は、なかった。ごとり、と重いものが落ちる音だけが二つ、三つ。残りの二人が何事かと振り向いた時には、彼らの命もまた、露と消えていた。
玄斎は、懐紙で刀身の血糊をぬぐう。死骸を闇の中に引きずり込み、土をかけて隠した。
仕事は、それで終わりだ。
彼は何事もなかったかのように、再びゆっくりと歩き始めた。
村から聞こえてくる陽気な笑い声が、やけに遠くに感じられた。
◇◇◇◇
相沢玄蕃の配下、文吾の小屋は、村の入り口近くにあった。小屋の中には、酒と肴の匂いが満ちている。後家のおみよが、甲斐甲斐しく文吾の酌をしていた。
以前の無気力な様子は、今の彼にはない。身ぎれいな着物をまとい、女の世話に、すっかり牙を抜かれている。
「文吾様……」
吐息が、耳にかかる。
「この前、堺から来た商人が持っていた櫛が、忘れられんのです。つげを彫った、それは見事な……」
叶わぬ夢を語るような、儚い呟きであった。
文吾の眉間に、ぐっと皺が寄る。
堺の高級な櫛。今の自分に買えるはずもない。
その時、戸口に朔が立った。
「文吾殿。話がある」
おみよは、心得たようにすっと立ち、小屋を出ていく。
朔は、文吾の前に座ると、一枚の木札を置いた。
墨で、幾つかの数字が記されている。
「……これは?」
「坪刈りの結果だ。作柄の悪い田を選んで計った」
木札の数字は、例年に比べれば二割ほどの増収を示していた。
豊作には違いないが、奇跡というほどではない。
「これを、相沢様への小検見の報告としていただきたい」
「し、しかし……」
文吾の額に、脂汗が滲む。主君を欺く行為だ。
「相沢様は、普請奉行に出世なされた。伊丹家中での覚えもめでたい。なれど、その分、妬みも買いなさる」
「水江村には、新しい代官が来るはずだった。それを、相沢様が横車を押して、自らお越しになる。この村の富が、あの人の力の源。ここでしくじれば、立場がないゆえ」
文吾は、ごくりと唾を飲んだ。
「しかし、あまりに大きな手柄は、かえって身を危うくするもの。これは、相沢様をお守りするための知恵。忠義というものですよ」
朔の言葉は、彼の臆病な心を見透かした上で、逃げ道まで用意していた。
朔は、懐から小さな布袋を取り出し、文吾の前に置いた。しゃらりと金属が擦れる音がする。
文吾は、震える手で木札と小粒金が入った袋を握りしめた。
もはや、この童の描いた筋書きの上で踊るしかない。
◇◇◇◇
収穫は、村を挙げての一大事であった。
門の前には、朽木玄斎と、元足軽の甚兵衛が立っている。
甚兵衛は、流民の中から朽木が見出した男だ。口数は少ないが、その目は人を見抜く。
「去れ」
甚兵衛が、鋭く言い放った。
目に悪意を宿した数人の男たちが、すごすごと闇に引き返していく。
村に入れるのは、ただ飢え、実直に働こうとする者だけだ。
昼が来た。女たちが、大きな握り飯を運んできた。炊き立ての新米を、塩で握っただけのものだ。
梅干しが一粒、埋められている。それに、秋の山菜を煮付けた汁が添えられた。
流民たちは、何年も口にしていなかった白米の味に、言葉を失った。
ある痩せた男は、握り飯を手に取ると、しばらく無言でそれを見つめ、やがて堰を切ったように涙を流し始めた。
「……死んじまった、おっかあに食わせたかった……」
その嗚咽は、周りの者たちにも伝染した。
彼らは、ただ腹を満たすためだけでなく、人としての何かを取り戻すために、必死で稲を刈った。
刈られた稲は、牛が引く荷車に積まれ、村の蔵ではない、山の奥へと続く道へと吸い込まれていく。山窩の者たちが、道を指し示している。夜明け前には、あれほど豊かに実っていた田畑から、稲穂の一本も残さず姿を消していた。ただ、がらんとした田が、朝霧の中に広がっているだけだった。
◇◇◇◇
相沢玄蕃は、数人の足軽を従え、馬上で村に入ってきた。
普請奉行に出世したことで、その態度は以前にも増して尊大になっている。
だが、その目に映ったのは、あまりにも殺風景な、刈り入れの終わった田であった。
「……これは、どういうことだ」
相沢の顔から、笑みが消える。
弥平を先頭に、村の者たちが深々と頭を下げていた。
朔は、その少し後ろに控えている。
「はっ。穂落ちと流民による盗みを恐れ、一斉に刈り入れを終えた次第にございます」
相沢の目が、疑わしげに細められた。
「当方の言葉が聞こえなかったと見える。大検見の前に刈り取るなど、前代未聞だぞ」
そこへ、文吾がおずおずと進み出た。
「はっ。なれど、それがしが責任を持ち、坪刈りの結果をすでにご報告差し上げております」
相沢は、ぐっと言葉に詰まった。
確かに、文吾からの報告は受けている。
例年より二割増し。悪くはない数字だ。
だが、目の前の光景は、何かを隠していると告げていた。証拠がない。
稲穂がなければ、大検見のやりようがないのだ。
相沢の痩せた頬が、屈辱にひきつった。
「よかろう。だがな」
相沢は、馬の上から村人たちを見下ろした。
「年貢の率は、改めて申し渡す。八公二民。八割を公儀に納め、二割をお前たちのものとせよ。よいな!」
「そ、そんな……!」
「お慈悲を!」
村人たちが、一斉に泣き叫び、地にひれ伏した。相沢の口元に、かすかな満足の色が浮かぶ。
だが、その目は村人たちの顔色をじろりと見回していた。
「貧窮を訴える割に、貴様らの顔色は悪くない。霞を食っているわけではあるまい。それに、この木壁は何だ。どこに、これほどの銭があった?」
朔が、静かに前に進み出た。
「御奉行様。我らは、米や麦だけを食べているのではございません。山の里芋を掘り、蕨の根の毒を抜いて食い繋いでおります」
朔は相沢を自らの家に招き入れた。
囲炉裏には、里芋の煮っ転がしの残りと、蕨の粉を練った団子がわざとらしく置かれている。
部屋の隅にある麦の袋は、ぺしゃんこだった。
「ご覧の通り、蓄えの麦は、すでに底をついております」
相沢は、鼻を鳴らした。
その苛立ちは、文吾に向けられる。
「文吾!なぜこれらの知恵を報告せぬ!村の救荒作物のこと、すべてを文書にまとめ、提出せよ!」
「は、ははっ!」
相沢は、憎悪に満ちた目で一度だけ朔を睨めつけると、馬首を返した。
砂塵を残し、一行が去っていく。村には、一時の安堵と、ずしりと重い空気が残された。
◇◇◇◇
本当の富は、山の奥深く、木々の葉に隠された谷間で静かに息づいていた。
「隠し村」である。
移住を許されたのは、厳選された七家族、四十名。
その中核をなすのは、若く従順な九人の農民、甚兵衛を含む三人の元足軽、そして流民の中から見出された、炭焼き、薬草師、大工の技を持つ三人の男たちとその家族であった。
村と呼ぶには、あまりに粗末な場所だ。
三方を崖に囲まれた谷間に、荒削りな丸太を組んだだけの小屋が数棟、寄り添うように建っている。
中心には、どの建物よりも大きく、頑丈に作られた蔵が一つ。水江村から運び込まれた米俵が、そこに山と積まれていた。
崖の岩間から湧き出る沢水が、共同の水場となり、人々の喉を潤す。
まだ畑はなく、醸造所もない。
ただ、生きるために最低限必要な住居と蔵、そして水場があるだけだ。
しかし、そこにいる人々の顔に絶望の色はなかった。
夜、焚火を囲む彼らの顔を照らす炎の揺らめきの中に、朔は、自分が守ろうとしている世界の、小さな、そして力強い原風景を見るのだった。




