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隠し村

 夏の日は、まだ高い。

 されど、陽の光はすでに力を失い、水江村みずえむらの田を黄金こがねに染めることもない。


 ただ気怠い熱気だけが、淀んでいた。

 弥平やへいは、村の北端を流れる溝の縁に屈みこんでいた。


 指先で土の湿り具合を確かめる。

 この溝は、さくの指図で掘り直されたものだ。水はよどみなく流れ、稲の根に過不足なく命を運んでいる。

 土は、嘘をつかぬ。

 弥平は、そう信じていた。


 ふと、獣の腐臭が鼻をついた。

 眉をひそめ、臭いの元をたどる。

 藪の中に、それはあった。


 猪だ。まだ若い。腹が裂け、臓物が泥にまみれている。

 獣の食い跡ではない。臓物は刃物で雑に切り裂かれていた。


 生肉の残る骨には、無数の人の歯形はがた

 弥平の背筋を、冷たいものが走った。


 ◇◇◇◇


 朔の小屋には、朽木玄斎くちきげんさいがいた。

 灯明皿の小さな炎が、二人の顔に深い影を落としている。


 弥平の報告を、朔は黙って聞いていた。その目は、じっと土間の一点を見つめている。

「……これはもはや人ではない。餓狼だ」


 沈黙を破ったのは、玄斎だった。酒に焼けた声が、小屋の闇に低く響く。

「飢えすぎて、火を起こす手間すら惜しんだか……」


「これでは、腹を空かせた狼が、村の周りを嗅ぎまわっているのと変わらぬ。猪で腹が満たされなくなれば、次に狙うのは村だ」


 逃散した百姓が、野盗に身をやつす。この乱世では、ありふれた話であった。


「狼は、外だけではない」

 朔が、静かに応じた。


「もっと肥えた虎が、城からこちらを見ている。秋になれば、腹を空かせてやってくる」

 相沢玄蕃あいざわげんばのことだ。


 昨年の手柄で出世したと、監視役の文吾ぶんごが漏らしていた。力をつけた役人は、より強欲になる。


「よその村々の惨状を考えれば、相沢の目は、この村に釘付けになるだろう。『取れるところから、根こそぎ取る』。そう考えるのが筋だ」


「隠し蔵程度では、もはや気休めにしかならんな」

 玄斎は、顎の無精髭をなでた。


「それに、伊丹の殿様とて安泰ではない。三好や細川の兵どもが、いつこの摂津に流れ込んでくるか。そうなれば、狙われるのは実った稲だ。刈田狼藉よ」


 武力による襲撃と、公儀による収奪。

 二つの牙が、水江村の喉元に突きつけられている。


 朔は立ち上がると、燃えさしの木切れを拾った。

 そして、固く踏みしめられた土間に、ゆっくりと線を描き始める。


 まず、村の家々を示す四角をいくつか。それを囲むように、太く、分厚い円を描いた。


「壁だ」


 朔が呟く。


「村そのものを、木壁で囲う」

 玄斎の目が、わずかに見開かれた。だが、朔の指は止まらない。


 今度は、村から離れた山の奥に、もう一つの小さな四角を描く。そこへ、村から細く、くねった道筋を引いた。


「そして、もう一つの村を造る」


「……何だと?」


「ここは、ただの殻だ。見せかけの的。本当の宝……米、銭、酒蔵、里芋の畑、そして職人たちは、すべてこちらに隠す。新しい知恵を生み出すための巣穴だ」


 土間に描かれた、二つの拠点。一つは敵を引きつけるための要塞。もう一つは、すべてを守るための巣穴。


「人夫は、流れ着いた者たちを雇う。その中から、腕に覚えのある者、あるいは手に技を持つ者を選び出し、家族ごと隠し村へ移す。暮らしは保証する。だが、許しなく里へ降りることは禁ずる」


 玄斎は、息を呑んだ。その策の冷徹な合理性に。

「……ほう。悪くない」

 絞り出すような声に、朔は答えなかった。


「だが、一番の問題は、情報が漏れることだ。文吾の目が光っている」


 すると、玄斎がふっと笑った。


「それなら儂に策がある。あの程度の男、塞ぐのは造作もない」

 玄斎は、空になった杯に自分で酒を注ぐ。


「酒と、うまい飯……そして女だ。骨の髄まで腐らせてやればいい。ついでに、こちらから物をねだらせ、小さな賄賂の味でも覚えさせれば、首輪をつけた犬と同じよ」


 ◇◇◇◇


 村のはずれに、猟師の小屋がある。


 戸口に座り、朽木玄斎は猟師の差し出す猪の干し肉を黙って噛んでいた。世間では忌避される肉食だが、牢人の玄斎は気にする様子もない。


 猟師は、玄斎の飲み仲間であった。


「……して、玄斎様。山の者どもに、何の御用で」


「ちと、頼みがある」


 玄斎は、干し肉の固い繊維を歯でこそげ取った。


「山の者どもは、息災か」


「へえ。達者には違いありやせんが、腹は減っているようです。里の者どもが、飢饉を理由に塩や米を渡さねえ。連中、えらく困っておりやした」


「そうか」


 玄斎は頷くと、立ち上がった。


「その者らのかしらに、会いたい。橋渡しを頼む」


 猟師は、心得たとばかりに深く頭を下げた。

 沢音に混じり、獣の脂が燻る臭いがした。鬱蒼とした木々の間に、山窩さんかの仮小屋はあった。


 男が一人、黙ってこちらを見ていた。岩のように引き締まった身体が、木漏れ日の中に浮かんでいる。歳は四十の頃か。


「……ジノだ」


 短く名乗った声は、沢音にも消されぬほど、低く、重かった。


 ジノは、玄斎の言葉を、訝しむように繰り返した。


「里の者は、わしらを獣のように扱う。この飢饉で、物々交換にも応じようとせん。それを、お主はこれまでの相場で渡すと申すか」


 その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。


「塩がなければ、冬を越すための肉が腐る。鉄がなければ、獣を仕留める罠も作れん。子供らが、日に日に弱っていく……」


「だからこそ、取引だ」


 玄斎は、静かに言った。


「ああ。それと、お主らの働きに応じて、米も出す」


「……何をさせる気だ」


 ジノの目が、玄斎を射抜く。


「山の中に、新しい村を一つ、造りたい。人が寄り付かぬ、水場のある場所を知らんか。それと、普請の手伝いを頼みたい」


「……隠れ里か」


 ジノは、ふっと口の端で笑った。


「里の者も、考えることは同じよ。だが、山は甘くないぞ」


「だから、お主らの知恵を借りたいのだ」


 玄斎は、静かに頭を下げた。


 ジノは、しばし黙って玄斎の顔を見ていたが、やがて言った。


「……一つ、条件がある。わしらは、外のことに疎い。里で何が起きているか、風の噂でしか分からん。どこの侍が強うて、どこの村が飢えているか。そういう知らせを、わしらにくれ。知らせは、塩と同じくらい値打ちがある」


「よかろう」

 玄斎は、即答した。


「では、この話、乗った」


 ◇◇◇◇


 翌日から、村は戦場と化した。


 水江村と沢西村の男たちが、一つの目的に向かって汗を流している。弥平と、沢西村の名主・源吾が、その先頭に立っていた。


「もっと深く掘れ! これでは馬が軽々と飛び越えてしまうぞ!」

 源吾の怒声が飛ぶ。


 男衆は、黙々と鍬を振るい、もっこで土を運び出す。村を囲む柵の外側に、深く、広い空堀が掘られていく。

 村の門前には、流民たちが列をなしていた。誰もが、土気色の顔で、虚ろな目をしている。


 朔と玄斎が、その一人一人を値踏みするように見ていた。

 玄斎が、ある男の前に立つ。


「その手のひらを見せてみろ」

 男がおずおずと差し出した手は、豆だらけで、指の付け根の皮が石のように硬くなっている。


「……槍だこか」

 玄斎の低い声に、男の肩がびくりと震えた。


 朔は、その男の家族に目をやる。幼い子供を抱いた女房が、不安げにこちらを見ていた。


 普請が始まって二日。男たちは必死に鍬を振るったが、すでに何人かは、陰で手を抜き、他の者に作業を押しつけているのが見えた。


 朔は弥平に目配せする。


「あの者たちを、西の組へ。だが、一日ごとの働きを見て、振るいにかけよ」

 選ばれた者と、選ばれなかった者。声もなく、二つの流れが生まれていく。


 食い扶持を与えられる者と、再び飢えの中へ帰っていく者。

 誰も、文句は言わなかった。


 その夜。月明かりだけを頼りに、ジノに率いられた山窩と、選ばれた流民たちの一団が、山の奥へと入っていく。


 彼らが担ぐ木材が、闇に溶けていった。


 ◇◇◇◇


 母のタエは、針仕事の手を止めた。目の前に座る息子の目が、恐ろしかった。

「……玄斎の策だ。文吾殿を、飼い慣らす」


 朔は、淡々と言った。

「あの男は、相沢につながる唯一の道だ。だが、今はただの穴でしかない。いつ、何が漏れるか分からん」


「……どう、するんだい」

 タエの声が、かすかに震える。


「腹を満し、骨抜きにする。あの男が求めるものを与え続ける。そうすれば、こちらの望むことだけを相沢に報告するようになる」


 朔は、言葉を切った。そして、静かに告げる。


「おっかあに、頼みがある。西の沢沿いに住む、おみよだ。亭主を去年の野分で亡くし、子供もおらん。あの者なら、やれるはずだ」


 タエは、息が詰まるのを感じた。息子が何を言っているのか、理解してしまったからだ。

 村の女を、その役目に使えというのか。人の心を、人の弱さを、道具として使えというのか。


 タエの手が、わなわなと震え始めた。

「……朔や」


「村のためだ」


 息子の声には、何の揺らぎもなかった。ただ、目的だけを見据える、氷のような響きがあった。

 タエは、固く目をつぶる。目の前の息子が、自分の腹を痛めた子とは思えなかった。


 だが、この子が非情にならねば、変わらねば、村は生き延びられないのだ。

 朔の苦渋を、タエは痛いほど理解していた。


 タエは、震える手で、膝の上の布を強く握りしめた。

 そして、ほとんど聞こえないほどの声で「わかった」と呟いた。その小さな身体が、わずかに頷いた。


 ◇◇◇◇


 文吾のあばら家は、見違えていた。


 いつもの酒と汗の酸えた臭いが消え、味噌の焼ける香ばしい匂いが鼻をつく。


 目の前の膳には、湯気の立つ白米の飯。脇には、ぱちぱちと脂の弾ける音がまだ聞こえそうな、焼きたての川魚が横たわっている。


 大根の味噌汁の椀からは、ふわりと出汁の香りが立ちのぼった。

 そして、なみなみと注がれた濁り酒……。


「さ、どうぞ」


 酌をするのは、おみよだった。伏せられた睫毛が、頼りなげな影を落としている。

 文吾は、戸惑いながらも杯をあおった。村で造り始めたという新しい酒は、喉を焼くように強く、すぐに身体が火照った。


「……どういう風の吹き回しだ?」


 おみよは、はにかんだように俯いた。

「うちみたいな後家が、一人で田畑耕すんは、ほんま難儀しますねん。こうやって夜なべ仕事の合間に、文吾様みたいなお武家様とお話させてもろたら、しんどさも紛れますわぁ……」


 言葉を切り、上目遣いに文吾を見る。


「それに、旦那様は、相沢様のお側近くに仕えるお偉い方だと伺いました。旦那様とご一緒できれば、わしのような者でも……ねえ」


 文吾は、ふんと鼻を鳴らした。だが、悪い気はしない。

 魚をほおばり、酒を飲む。女は、黙って酌を続けた。その仕草が、妙に心を落ち着かせた。


 酒が進むにつれ、文吾の口は軽くなる。

「……相沢様はな、近頃えらく羽振りがいい。去年の手柄で、殿様からの覚えもめでたいそうだ」


 女は、ただ相槌を打つだけだ。

「だがな、古参の侍衆は、面白くないようでな。新参者がでかい顔をしやがって、と陰口を叩いておるわ」


 文吾は、げっぷをした。自分が、朔の掌の上で心地よく踊ろされていることなど、露ほども気づいていなかった。


 ◇◇◇◇


 夜。新しく建てられた物見櫓ものみやぐらの上に、朔は一人で立っていた。

 眼下には、槌と杭で強化された村の新しい壁が、獣の牙のように月光を浴びている。


 遠く、山の闇に目をやれば、今日もジノに率いられた人夫たちが、音もなく木々の中へ吸い込まれていくのが見えた。

 見える砦と、見えない巣。


 二つの普請は、滞りなく進んでいる。

 だが、時間はなかった。稲穂が頭を垂れる頃、相沢は必ず来る。それまでに、すべてを終わらせねばならない。


 夏の生暖かい風が、朔の小さな身体を吹き抜けていく。

「……間に合わせるしかない」


 その呟きは、誰に聞かれることもなく、夜の闇に吸い込まれていった。

後ほど、前書きに第2幕までのダイジェストを追加します。登場人物が増えてきたので、差し込むかもしれません。

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