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毒を喰らわば

 七月の生ぬるい風が、川面の葦を揺らしていた。 陽が落ち、空と川とが同じ藍色に溶け合う刻限。


 朽木玄斎は、いつものように川べりに座っていた。 だが、その手には釣り竿はなく、抜き身の刀が横たわっている。懐紙で血糊を拭い、打ち粉を叩く仕草は、まるで経を読む僧のように静かであった。


 朔が、音もなく背後に立った。 玄斎は振り向かぬ。


「儂は、人を斬った」


 しゃがれた声が、水音に混じる。 朔は、何もいわなかった。


菊池主水きくちもんどという男だ」

  玄斎は、ぽつり、と続けた。


「儂がかつて仕えた細川高国ほそかわたかくに様の養子、氏綱うじつな様とかいうお方に仕える者よ」


 その声には、何の感情もこもっていない。ただ、事実を口にするだけだ。


「その氏綱様はな、今、この地を差配する伊丹いたみ様の主君、細川晴元はるもと様と戦の真っ最中だ。そして、氏綱様の手勢は、食うにも困るありさまらしい」


 玄斎は、そこで初めて朔の方へ顔を向けた。闇に慣れた目が、静かに朔を見ている。


「敵地の真ん中に、妙に豊かな村がある。そして、そこには高国様の旧臣が流れ着いている。……奴らは、それに目をつけたのだ。儂を使い、この村をしゃぶり尽くすつもりだったのだろうよ」


「儂が、まだ佐山久信(さやまひさのぶ)などと呼ばれていた頃の、亡霊よ」


 その声に、初めて熱がこもる。


「高国様の下らぬ猜疑心一つで、儂の妻子は死んだ。戦の駒として、意味もなく死地に追いやられた。それでも儂は、忠義という幻に縋っておった」


「だがな、その忠義も、赤松という男の裏切り一つで霧と消えた。味方の(とき)の声が、断末魔の悲鳴に変わる。信じたものが、目の前で腐り落ちていく様を、お主は知るまい」


「そして、儂が全てを賭けて守ろうとした主君は、どうだ。……瓜だ。たった数個の、瓜よ。隠れ家を、近所の童が瓜欲しさに三好の兵に売りおった。儂の妻子の命も、忠義も、その瓜以下の値打ちだったというわけだ」


 腹の足しにもならんもののために、腹を満たすもののために、全てが無駄になった。 その虚無が、玄斎の言葉の端々から滲み出ていた。


「あの男、菊池主水は、その瓜以下の価値しかない亡霊を、この村に呼び込もうとした。儂がおっては、いずれまた同じようなことが起きる。儂の過去が、この村に災いを招くだけよ」


 刀を鞘に収める、冷たい音が響く。

「夜が明けたら、儂はここを去る」


 それは決定であった。 村の益にならぬものを、置いておくわけにはいかぬ。

 玄斎の理は、常にそこにあった。


 朔の喉が、ひゅっと鳴った。

 全身の血が、足元へ落ちていくような感覚。


「行くな」

 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。


「くだらん」

 玄斎は、吐き捨てる。


「感傷は、犬死にを招くだけだ」

 その冷たい言葉が、朔の心の最後の(たが)を外した。

 もはや、理屈ではない。駆け引きでもない。これは、賭けだ。己の全てを差し出す、最後の。


 朔は、玄斎の前に回り込み、その目を見据えた。


「俺は」 朔は、一度、言葉を切った。 「この時代の人間ではない」


 ◇◇◇◇


 長い、沈黙があった。 風が止み、川のせせらぎだけが聞こえる。


 狂人の戯言か。捨てられることを恐れた子供の、哀れな嘘か。

 玄斎は、動かなかった。ただ、その深い目が、闇の中で朔を射抜いている。


 だが、脳裏に、これまでの不可解な出来事が次々と蘇る。


 冬でもないのに熱を発する堆肥の山。

 堺にすらない、らんびきを使った火の酒。


 そして何より、この童の、時折見せる老人のような目。

 荒唐無稽な言葉が、腑に落ちていく。

 この童の異質さを説明できる理屈は、これをおいて他にない。


「俺は、ずっと未来の世界から来た」

  朔の声は、もう震えてはいなかった。腹を決めた者の、静かな響きがあった。


「俺は、遠い異国の地で、民が自ら立つ手助けをしてきた。そこでは、人を救うということは、物を与えることじゃない。……自ら決め、立ち上がる手助けをすることだ。そう信じていた。そう、学んだ」


 JICA隊員、田中健司の亡霊が、朔の口を借りて語っていた。


「だが、ここは地獄だ。そんな綺麗事は、腹の足しにもならん」

 朔は、玄斎の言葉を、そのまま返した。


「だから、心を殺した。この村を救うため、隣村を見捨てた。飢えた者たちから門を閉ざした。人を欺き、操り、あんたの居場所さえ、俺の富で奪ってしまった」


 朔は、膝の上の拳を、強く握りしめた。


「知っているんだ。この後、もっと酷い飢饉が来ること。もっと酷い戦の炎が、この国を焼くことを。未来を知っているはずなのに、俺はあまりに無力だ。……何より、怖いんだ。一人で全部背負うのは、もう限界なんだ」


 ぽつり、と本音が漏れた。 誰にもいえなかった、心の叫びだった。


「玄斎。あんたが、何も聞かずに、ただ隣で釣り竿を垂れている。……あの時間が、どれだけ俺の救いだったか、あんたは知らないだろう」


 その言葉は、玄斎の胸の奥に、すとんと落ちた。


 ああ、そうか。 この童は、儂に剣の技を求めていたのではない。

 儂の過去も、素性も、どうでもよかったのだ。ただ、この途方もない重荷を、黙って隣で見ていてくれる人間が、一人、欲しかったのか。


(なんだ、自分と同じではないか……)

 川のせせらぎに、心の澱が溶けていくような気がした。


「……ほう」

 ようやく漏れた声は、ひどくかすれていた。


「まだ、この地獄。末法の世は続くのか」


「もっと酷くなる」


 朔は、静かに答えた。

大樹たいじゅ弑逆しいぎゃくされ、比叡山は焼かれ、一向一揆衆は根切りに合う。いずれ、侍は百姓の持つ鉄の筒で死ぬようになる。太平の世がくるまでに、あと、六十年はかかる」


「……酷いものだ」

 玄斎は、吐き捨てるように言った。


「朔、おまえは、それでどうするのだ」


「……わからぬ」

 朔は、かぶりを振った。


「いくら未来の知識があろうとも、なにか小さなことを変えれば、その俺の知る未来も大きく変わる。すでに変わっているかもしれん。未来を知っているからと言って、自在に操れるわけではないんだ」


「ならば、定めよ」

 玄斎の声に、斬りつけるような鋭さが宿った。


「大樹がどうなろうと、比叡山が焼けようと、そんなものは知ったことか。それはお主の戦ではない。腹の足しにもならん」


 玄斎は、己の過去を断ち切るように言った。

「お主の戦場(いくさば)はどこだ。守るべきものは何だ。はっきりせい」


 それは、軍師の問いであった。朔は、はっと顔を上げた。目の前の牢人の目が、ただの酔いどれのものではないことに、改めて気づく。


「……この村だ」

  朔の声に、力が戻った。


「この村の人間が、腹一杯飯を食い、笑って明日を迎えられること。それが、俺の……」


「よろしい」

 玄斎は、朔の言葉を遮った。


「ならば、それが我らの戦の全てよ。お主の知恵は、薬だ。この村を生かす、良薬よ。……だが、同時に、猛毒でもある」


 その毒は、隣村を焼いた。

 その毒は、菊池主水のような男を呼び寄せた。

 そして、その毒の匂いは、いずれ、もっと恐ろしい獣どもをこの村に引き寄せるだろう。


 この毒は、この童一人に背負わせるには、あまりに重すぎる。ならば。


 玄斎の口元に、ふ、と笑みが浮かんだ。

 それは陽気なものではない。賽の目が決まったことを知った、博徒のような、乾いた笑いであった。


「毒を喰らわば皿までよ」


 彼は、瓢箪を朔に差し出した。朔は、黙ってそれを受け取り、口をつける。喉を焼くような熱さが、腹の底に落ちていった。


「儂は、朔、お主の軍師となる」

 玄斎がいった。


「お主のその、途方もない知恵を、この戦国の世で使いこなすための、な。……儂はもう去らん。この村で、お主と共に、その毒を飲み干そうぞ」


 それは、血も誓いの言葉もない、静かな盟約であった。ただ、未来の記憶を持つ童と、過去を斬り捨てた牢人との間に、誰にも壊すことのできぬ絆が生まれた瞬間であった。

これにて第二幕の終了です。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

まだ、評価やブックマーク、入れていただけると嬉しいです。

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