誘蛾灯
天文八年(一五三九年)七月。
摂州水江村を、じっとりとした熱気が覆っていた。
草熱れの匂い。 青田を渡る風も、生ぬるい。
春の普請が終わり、一度は村を去った男が、再びこの村の土を踏んでいた。 菊池主水という。
垢じみた小袖は、ところどころ綻びが見える。
河内の了仙寺に身を寄せる、細川氏綱の配下であった。
主君・氏綱の食膳に、明日の米のあてもない。武家や商人の門を叩いては、飢饉を理由に、あるいは細川晴元を恐れて、無下に断られ続けた。
忠義の士である彼は、主君を飢えさせるわけにはいかぬと、人足に身をやつして日銭を稼ぐ道を選んだ。その折に知ったこの村の、尋常ならざる羽振りの良さに、最後の望みを託しての再訪であった。
(尋常ではない……)
主水の目には、信じがたい光景が映っていた。
百姓たちの顔には、飢饉の影がない。むしろ、奇妙なほどの活気に満ちている。
食い扶持を求めて流れ着いた人夫たちにも、粥ではなく、麦の混じった飯が気前よく振る舞われている。
その時、主水の目が、川べりで黙々と杭を打つ老いた男の姿を捉えた。ひょろりと高い背丈。削げた肩。総白髪。
見覚えがあった。いや、忘れられるはずもなかった。
「……佐山殿」
声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。深い皺の刻まれた顔。その目が、射るように主水を見据えている。
朽木玄斎であった。
「佐山久信殿に相違ござらんか」
「……人違いだ」
しゃがれた声が、短く答える。
「いや、某は菊池主繕が息子、菊池主水と申す。幼き頃、細川高国様のお側でお見かけしたことがござる」
主水は、声を潜めて続けた。
「佐山殿。高国様のご養子、氏綱様が、今、いかほどご苦労なされているか、ご存じか。我ら家臣は、日々の食にも窮しております。なにとぞ、お力添えを……」
玄斎は、黙っている。杭を打つ槌を握る手に、ぐっと力が入った。
「……武士の道は、とうに捨てた」
玄斎は、吐き捨てるように言った。
「腹の足しにもならんことは、考えるだけ無駄だ」。
「なれど……」
食い下がる主水を、玄斎は冷たく遮った。
「帰れ。ここは、おぬしのような者がいていい場所ではない」
主水は唇を噛んだ。だが、諦めるわけにはいかない。彼は村の尋常ならる富に気づいていた。
「……分かり申した。なれど、必ずや、また参る」
その言葉が、主水の運命を決めた。玄斎の目が、すっと細められる。
過去の亡霊は、いま、この村という玄斎が新たに見出した守るべきものを脅かす、「現在の脅威」へと姿を変えた。
◇◇◇◇
村の外れまで、玄斎は黙って主水を送った。竹藪が、冷たい風にそよいでいる。
先に立って歩く主水の背中は、落胆で丸まっていた。彼は気づいていない。背後の玄斎の歩みが、音もなく、獣のそれへと変わったことに。
間合いが詰まる。玄斎の手が、すっと腰の刀の柄にかかった。
一瞬だった。抜き放かれた刃が、月の光を鈍く反射する。主水が振り返る間もなかった。
ぐ、と呻き声が漏れ、その体は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
玄斎は、血振りし、拭って、刀を鞘に戻した。倒れた男の懐を探り、わずかばかりの銭を抜き取る。
そして、着物を乱雑に引き裂き、物盗りの犯行に見せかけた。死体に一瞥もくれず、背を向ける。
これで、終わりだ。忌わしい過去を、今度こそ完全に葬り去る。ただ、それだけのことだった。
その一部始終を、物陰から見つめる一対の目があった。野鍛冶に身をやつした、松永久秀の密偵・柳田甚内である。
常人であれば恐怖に凍りつく光景を、甚内は冷徹に分析していた。(……面白い)彼の思考は、その一言に尽きた。
あの老人は、単なる牢人ではない。目的のためには人を斬ることも厭わぬ、手練れの腕を持つ護衛者。そして、その引き金は「佐山久信」という過去の名。
甚内の脳裏で、情報が再構築されていく。この村の異常な豊かさを生み出す「仕組み」。
その核心は、あの童・朔と、この老いた剣客の関係にある。
だが、村の者たちに聞き込みを重ねても、あの童の話は出てこない。
誰かに師事した様子もなく、どこかから流れ着いた形跡もない。
まるで、この土から湧いて出たかのようだ。
……特異点。
そうだ、あの童こそが、この村の仕組みそのものを生み出した源泉、特異点に他ならぬ。
ならば、探るべきは周辺ではない。源泉そのものを叩くのみ。
甚内の視線は、村の灯りの中、ひょっと粗末な一つの小屋へと向けられていた。
役人・文吾が寝起きしている、あの小屋に。
◇◇◇◇
甚内は、野鍛冶の親方を完璧に演じていた。
彼自身に鉄を打つ腕はない。だが、堺で探し出した、腕は立つが口のきけぬ鍛冶屋の小僧を「息子」として連れてきた。自分が指図する体で作業をさせれば、誰も怪しむまい。
昼間は、その小僧が弥平たちの農具を直し、甚内は村人たちと世間話をしながら、目と耳を働かせる。
夜は、気前よく酒を酌み交わす。愛想の良い親方だ、と村人たちの評判も悪くなかった。
彼の目は、しかし、常に村の仕組みの隙を探していた。そして、見つけた。
監視役であるはずの文吾は、仕事らしい仕事は何一つしていない。
酒を飲み、昼寝をし、朔に帳簿の整理を言いつけるだけ。
その朔は、日中は文吾の小屋で書物と向き合い、夜になれば自宅へ帰っていく。
これ以上ないほど、無防備な仕組みであった。
夕暮れ時。唖の女房が、湯気の立つ椀を盆に乗せ、文吾の小屋へ向かう。
椀の中には、この村の豊かさを示すように、厚めに切られた大根がごろりと沈んでいた。
野分を越えた村の、ささやかな安堵がそこにはあった。
甚内は、自然な仕草で立ち働き、道端で女房とすれ違う。
「ご苦労なこった」
会釈とともに、身をかわす。その一瞬、彼の袖から白い粉が、大根汁の椀へと音もなく落ちた。
誰も、見てはいなかった。
◇◇◇◇
その日の夕刻、朔が書き上げた紙の束を文吾に渡した。
文吾は、それを受け取ると、中身も見ずに脇の文机に放り投げたのだ。
「ああ、ご苦労。下がれ」
それだけだった。
『正条植え之次第』『暗渠排水之絵図』 。紙の束は、無造作にそこに置かれている。
夜が、深まった。
す、と戸が開き、黒い影が滑り込んできた。 柳田甚内だ。
甚内は、いびきをかく文吾には目もくれず、文机の上の紙の束を素早く、しかし音もなく手にした。
それだけだった。
来た時と同じように、影は闇に溶けて消えた。 まるで、初めから誰もいなかったかのように。
◇◇◇◇
朝。 朔の家の戸が、乱暴に蹴破られんばかりの勢いで叩かれた。
「おい、童! 開けろ!」
文吾の怒声だった。
朔が戸を開けると、血走った目の文吾が立っていた。
「どうした、騒々しい」
「とぼけるな! 昨日、貴様が書いた書き付け! あれがどこにもないのだ!」
「……は?」
朔には、何のことか分からない。 確かに、昨日の夕刻、書き上げた分を渡したはずだ。
「知らぬ存ぜぬは通用せんぞ! あの大事なものを、なくしただと? この俺が、相沢様に報告するためのものを!」
文吾の思考は、いかに己の管理不行き届きを糊塗し、責任を転嫁するかにしか向いていない。
「貴様の不始末だろうが! この、能なしめ!」
紛失ではない、盗まれたのだ、という発想は、二人にはなかった。 この村の日常に、そんな手の込んだ悪意が潜んでいるとは、夢にも思わない。
「いいか、今すぐ書き直せ! 夜までにだ! 一睡もするなよ!」
理不尽な命令だけが、朔の家の土間に響いた。
その日の昼過ぎ、村の者たちは、野鍛冶の親子が忽然と姿を消していることに気づいた。
◇◇◇◇
村の作業小屋で、怒声が響いていた。
「だめだ!素人が口を出すな!木が泣いてるのが分からねえのか!」
大工の善兵衛が、細工師の五郎太に掴みかからんばかりの剣幕だ。
二人の前には、朔が描いた奇妙な道具の絵図が広げられている。蝗の害を、より広く、より速く防ぐための新しい仕掛け。『鞴式噴霧器』と記されていた。
柄杓で農薬を撒くだけでは、いずれ来るであろう大群には対抗しきれぬ。朔のその言葉が、二人を動かしていた。
「だが善兵衛さんよ、この筒の仕組みが、さっぱり分からねえ。なぜ、真ん中を、かくも細くせねばならんのだ」
五郎太が、鑿で削り出した樫の木の部品を手に、途方に暮れている。
絵図には、筒の内部が一度くびれ、また広がるという不可解な構造が描かれていた。
「理屈は知るか!だが、朔様の指図に間違いはねえ。問題はこっちだ!」
善兵衛が叩いたのは、木で組んだ箱だった。箱鞴だ。
「何度やっても、空気が漏れる。これじゃあ、霧なんぞ吹き出せねえ」
朔の絵図は完璧だった。だが、それを形にするには、職人たちの腕をもってしても、あまりに難解すぎた。気密を保つための精密な木組み。水圧に耐えるための竹筒の連結。
「……こいつは、漆でも塗り重ねねえと、どうにもならんぞ」
五郎太の呟きに、善兵衛は苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。この村に、塗師はいない。
村の知恵が、最も危険な敵の手に渡った、まさにその時。
村の内部では、新たな知恵の芽が、困難な壁にぶつかりながらも、確かに育とうとしていた。
◇◇◇◇
京の屋敷は、静まり返っていた。香の匂いが、ほのかに漂う。
松永久秀は、柳田甚内からの報告に、無語で耳を傾けた。
そして、甚内が持ち帰った紙の束を、ゆっくりと広げる。
そこには、恐ろしく体系的で合理的な農法が、図と共に記されていた。緻密な計算。無駄のない設計思想。
「……ふ、ふふ」
やがて、久秀の口から、乾いた笑いが漏れた。
「米ではない。銭でもない。これだ。この仕組みを考え出した知性こそが、真の獲物よ」
その目は、極上の獲物を見つけた狩人のように、不気味な光をたたえていた。
「甚内」
「はっ」
「あの童……朔とか言ったな。手に入れよ。何としても、だ」
松永久秀は、そう言うと、満足げに目を閉じた。紙に染みついた墨の匂いが、彼の蒐集欲を、静かに、しかし激しく満たしていた。
諱で呼ばないように書こうかと思っていたのですが、細川高国も細川晴元も細川氏綱も、全員「細川右京大夫」でわけわからないことになるので断念。




