圃場整備
相沢玄蕃という虎を退けて、ひと月が過ぎた。
天文八年(1539年)、四月のことである。
水江村に、浮かれた空気はない。
一度手にした安堵は、朔の言葉によって、すぐに引き締められていた。
「虎は退けた。だが、土地そのものが痩せていては、次の冬は越せん」
寄合の場で、朔はそう言った。
彼の言葉を、もはや童の戯言として聞く者はいない。
弥平も、沢西村の名主である源吾も、固い表情で頷いている。
朔が示したのは、村の田を根底から作り変えるという、前代未聞の計画であった。
圃場整備。
朔は、そう呼んだ。
「田を、壊すだと……」
寄合の末席で、権爺がぽつりと呟いた。
声に、かつての威光はない。
ただ、深い戸惑いが滲んでいた。
彼の目の前で、鍬を担いだ男たちが動き出す。
水江村の者だけではない。
沢西村の男たち。
そして、見慣れぬ顔が幾つも混じっている。
銭で雇われたという、日雇いの人足たちだ。
彼らがまず向かったのは、村の田を潤してきた古い水路だった。
先祖たちが、幾代もかけて掘り、泥を浚い、守ってきた水路だ。
曲がりくねったその流れは、この土地の歴史そのものであった。
男たちの鍬が、容赦なくその畔を崩していく。
権爺は、杖を握る手に力を込めた。
もう、異を唱える声は出ない。
朔の知恵が村を救ったのは、紛れもない事実なのだ。
頭では、分かっている。
だが、心が追いつかなかった。
あの畔は、祖父が築いたものだ。
あの堰は、父が沢西の者と殴り合ってまで守ったものだ。
その一つ一つに、村の記憶が刻まれている。
よそ者の手で、銭の力で、その記憶が、土塊となって崩されていく。
権爺は、ただ黙って、それを見ていた。
自分の時代が、音もなく終わっていくのを、見ているしかなかった。
◇◇◇◇
弥平と源吾が、現場を仕切っていた。
「そっちの組、溝はもっと深く掘れ! 朔様の図面通りだ!」
「沢西の者、水江の者、手を貸してやれ! この普請、もはや村分け隔てはねえぞ!」
二人の声が、乾いた土の上に響く。
かつて憎み合った村の者たちが、今では一つの未来のために、泥にまみれて汗を流している。
朔の描いた図面を元に、曲がりくねった水路は真っ直ぐに作り変えられ、大きさも形もばらばらだった田は、巨大な四角形に区画されていく。
それは、人の記憶ではなく、ただ効率だけを求める、冷徹なまでに合理的な風景だった。
◇◇◇◇
堺の湊は、人の欲望と絶望が煮詰まった匂いがした。
潮の香りに混じって、魚のはらわたの腐臭が漂う。
そして、道の端には、飢えで行き倒れた者の骸が、筵もかけられずに打ち捨てられている。
天文の飢饉は、確実にこの大湊にも影を落としていた。
利吉は、その喧騒から一本裏に入った、大きな酒問屋の奥座敷にいた。
彼の前には、小さな壺が一つだけ置かれている。
水江村の麦から生まれた焼酎は、もはや甕で量り売りするような品ではなかった。
「利吉。この一壺で、銭十五貫。ふざけたことを言うな」
酒問屋の主人が、低い声で言った。
「飢饉で米の酒が上がっているとはいえ、限度というものがある」
「旦那。これは米の酒とは訳が違う」
利吉は、いつもの軽薄さを消し、値踏みするような目で商人を見つめた。
「これは『火の酒』。飲めば五臓六腑が焼けるような、それでいて天にも昇るような心地になる。こんなものは、日ノ本を探しても、ここより他にはない品だ。それに、これだけだ。次はいつ水江村から届くか、あっしにも分からん」
希少価値。
それこそが、朔が利吉に教えた、この酒の最大の武器だった。
飢饉で世が乱れるほど、富を持つ者は、他人が手に入れられぬものを欲しがる。
「……分かった。十五貫だ。だが、次も必ずうちに卸せ」
「へえ、毎度あり」
利吉は、ずしりと重い銭袋を受け取ると、卑屈な笑みを浮かべて座敷を辞した。
問屋を出たところで、汗まみれの飛脚の男が、一通の文を差し出す。
「水江村の、朔様より」
銭は村には送らない。
それが、朔との絶対の約束だった。
銭は、この堺で、別のものに姿を変える。
文には、口入屋を通じて人足を三十人ほど村へ送ってほしいという指示と、こう書き加えられていた。
『人足とは別に、食い詰めた職人がいれば、村へ来ぬかと誘いをかけてほしい。鍛冶、杜氏、細工師。腕があれば、食い扶持と住まいは村で持つ、と』
利吉は、思わず唸った。
人足は、普請が終われば去る。
だが、職人は村に根付く。
技術が、村の財産になるのだ。
あの童は、まるで、この世の全てを掌の上で転がしているようだ。
その恐ろしさが、利吉に朔への忠誠を誓わせていた。
◇◇◇◇
その日の夕暮れ、利吉は口入屋の男が根城にしている、湊の薄汚れた煮売り屋にいた。
男は、名を辰蔵といった。
「……人足三十人。へえ、承知しやした。ですがね、利吉の旦那」
辰蔵は、濁り酒をすすりながら、ねっとりとした視線を利吉に向けた。
「職人、ですかい。また、とんでもねえことをおっしゃる」
「無理か」
「無理じゃねえが、高くつきやすぜ。このご時世、腕のいい職人なんざ、大名や寺社が囲っちまう。食い詰めてるなんざ、よほど癖のある奴か、腕の悪い奴か……」
「腕は確かでなけりゃ困る。癖なんざ、どうでもいい。食い扶持と住まいは、こっちで持つ。そう伝えて、人を探してくれ」
利吉は、銭の入った袋を卓に置いた。
ずしり、と重い音がする。
辰蔵の目が、ギラリと光った。
「……鍛冶、大工、杜氏、細工師、でしたな。鍛冶なんざ、野鍛冶でも見つかれば上々。杜氏は、米がねえから、一番食い詰めてるかもしれねえ。大工と細工師は、仕事がなけりゃただの人だ。……分かりやした。この辰蔵、骨を折ってみやしょう」
◇◇◇◇
数日後、辰蔵が利吉の店に、にやにやと笑いながら現れた。
「旦那、見つかりやしたぜ」
「……ほう」
「まず、鍛冶ですがね。こいつはどうにも見つからねえ。腕の立つ奴はとっくに侍衆に召し抱えられてる」
辰蔵は、さも残念そうに首を振った。
「ですがね」
彼は、指を三本立てた。
「灘の蔵が潰れて、腕は確かだが食い詰めてる杜氏が一人。それから、酒癖が悪くて仕事仲間と揉めてばっかりいる大工が一人。最後に、腕はいいんだが、作るもんが細かすぎて、こんなご時世じゃ誰も買わねえってんで、道具を手放しかけてた細工師が一人。どうですかい」
利吉の口元が、わずかに緩んだ。
「……上出来だ。すぐに水江村へ送る手筈を整えろ。船賃も、支度金も、こっちで持つ」
「へへっ、毎度あり」
辰蔵が去った後、利吉は一人、帳簿に筆を走らせた。
杜氏、大工、そして細工師。
朔の旦那の描く村に、また新しい駒が三つ、加わった。
この途方もない双六の、なんと面白いことか。
◇◇◇◇
数日後、朔は弥平と彦太、そして朽木玄斎の三人を呼び寄せた。
相沢の命により、朔は村から一歩も出ることが許されない。
「弥平、彦太。これから隣村へ行ってもらう。牛と馬、それと鶏を買い付けにだ」
弥平が怪訝な顔をした。
「買い付け、だあ? 朔様、このご時世に、牛馬なんぞ売ってくれる村があるとは思えやせんが」
「売るのではない。くれてやるのだ」
朔は静かに言った。
「飢饉の世では、命を繋ぐ麦の価値は天井知らずに上がり、それを食い潰す家畜の値は無慈悲に下がる。麦の不作で、獣に食わせる藁すらない。平時なら麦俵十や十五は下らぬ牛馬も、今や飼い主の命を脅かすだけの負債だ。相手は、麦一俵でも御の字と思っているだろう」
朔は、彦太に向き直った。
「彦太、お前が交渉役だ。よく聞け。俺の言う通りに話すんだ」
朔は、淀みなく口上を述べ始めた。
それは、子供の言葉ではなかった。
相手の窮状と矜持を慮り、取引の正当性を説き、未来への希望を語る、為政者の言葉であった。
彦太は、その一言一句を、真剣な眼差しで己の胸に刻みつけていく。
「玄斎」
朔は、最後に朽木玄斎を見た。
「二人のこと、よろしく頼む」
玄斎は、無言で頷いた。
その眼光が、この取引がただの物々交換ではないことを物語っていた。
三人が向かった隣村は、死んだように静まり返っていた。
田は荒れ、家々の戸は固く閉ざされている。
その村の名主の家の前に、三人の男が立っていた。
弥平と、沢西村の彦太。
そして、二人から少し離れた場所に、朽木玄斎が、ただ黙って佇んでいる。
土間に通された弥平たちの前に、骨と皮ばかりに痩せた名主が、深々と頭を下げた。
「……何の御用でございましょうか。ご覧の通り、この村には、もはや差し出せるものは何も……」
声には、力がなかった。
弥平が、朴訥に口を開こうとするのを、彦太が制した。
子供らしい、しかし、よく通る声で言う。
「朔様が、言うておりました」
名主の目が、わずかに見開かれる。
「飢饉の時には、物の値打ちが変わる、と。銭は紙切れになり、腹を膨らませる麦の値は天に届くほどになる。そして……」
彦太は、家の裏手にある粗末な小屋に目をやった。
中から、弱々しい鳴き声が聞こえる。
「そして、牛や馬は、宝ではなく、持ち主の命を食う厄介者になる、と」
名主は、息を呑んだ。
彦太の言葉は続く。
「食わせる藁もなく、日に日に痩せ細る。来年の田を耕す前に、持ち主が飢え死にしてしまう。だから、これは取引です。おれたちは、あんたたちの『明日を食う厄介者』を引き受ける。その代わりに、あんたたちの『今日の命を繋ぐ麦』を、少しだけお分けしたい」
弥平が、静かに頷いた。
「あんたたちの村に残っている牛と馬、それを全てこちらに渡してほしい。その代わり、こちらの蓄えから麦を五俵、差し上げよう。これで、ひと月は粥がすすれるはずだ」
「……五俵」
名主の目から、涙がこぼれ落ちた。
このご時世に、麦五俵。
それは、慈悲という言葉ですら足りない、奇跡のような申し出だった。
彦太は、さらに続けた。
「それと、そちらの鶏も、お譲りいただきたい。時を告げる声も、腹が減ってはか細くなるばかり。潰してしまうくらいなら、我らが引き取りましょう。我らの村では、その卵が病人の薬になると聞き及んでおります。薬として、大切に扱わせていただきますゆえ」
「鶏には、麦を一俵。いかがですかな」
名主は、言葉を失い、逡巡した。
子供の言葉だと侮る心と、藁にもすがりたい心がせめぎ合う。
その時、彦太の背後で石のように黙っていた朽木玄斎が、かすかに動いた。
刀の柄に置かれた指先が、鯉口をわずかに押し上げる。
ことり、と乾いた音が、静まり返った土間に響いた。
それは、言葉よりも雄弁な威圧であった。
斬る、という殺気ではない。
この話がまとまらねば、この村が迎えるであろう、より悲惨な未来そのものを、その音は予感させた。
名主は、目の前の童ではなく、その背後にいる死の匂いを纏った老人に、抗うことのできない運命を感じ取った。
やがて、名主は力なく頷いた。
弥平の合図で、約束通り麦俵が運び込まれると、村のあちこちから、嗚咽が漏れた。
引き換えに、骨と皮ばかりに痩せた牛と馬、そして籠に入れられた鶏が、三人に引き渡された。
帰り道、弥平は、手に入れた二頭の牛と一頭の馬の手綱を引きながら、隣を歩く彦太に言った。
あばら骨が浮き出た牛馬は、歩みも覚束ない。
「朔様の言う通りになったな。あの人、泣いて喜んでた」
「はい。おら、少しだけ、朔様の気持ちが分かった気がします」
彦太は、誇らしげに胸を張った。
「朔様は、こうも言っておられました。『これは見せしめではない。種蒔きだ』と」
「種蒔き?」
「はい。『今日、我らが蒔いた六俵の麦は、いずれ我らが困った時に、十俵の恩になって返ってくる。恨みを買えば村は焼かれるが、恩を売れば、それは見えざる一番の柵になる』と。だから、決して値切ってはならぬ、と」
弥平は、息を呑んだ。
綺麗事では、人は救えない。
あの童は、そのことを知りすぎている。
そして、その知恵は、こうして村の外にまで、静かに、だが確実に広がり始めていた。
◇◇◇◇
だが、朔の指示は、ただ田を四角く区切るだけでは終わらなかった。
彼は、弥平に命じて、数十本の杭と長い縄を用意させた。
そして、木の椀に水を張り、その水面と杭の頭を慎重に見比べながら、一本、また一本と杭を打ち込んでいく。
「朔様、そりゃあ、何かのまじないですかい」
弥平が尋ねた。
「水測りだ」
朔は、短く答えた。
「百間で指一本違わぬ水測りか……」
ぽつりと呟くと、朔は遠い記憶にある、別の土木工事の光景を振り払うように、次の杭を打ち込んだ。
弥平には、それが何をしているのか、さっぱり見当もつかなかった。
ただ、木の椀に張った水面と杭の頭を、何度も何度も見比べるその目は、子供のものではなかった。
まるで、見えぬ水の流れを、その目で見ているかのようだ。
恐ろしく精密で、そしてどこか人間離れしたその手際に、弥平は言い知れぬ畏れを感じていた。
男たちは、言われるがままに、区画された田の中に、等間隔で細い溝を掘り進めていく。
朔は、それを暗渠と呼んだ。
溝の底には、まず粗朶(木の枝)が敷き詰められ、その上に、節を抜いた竹を束ねたものが、幾筋も並べられていく。
神崎湊から来た大工や細工師たちが、その腕を存分に振るっていた。
「土の中の、血の道よ」
作業を見守る弥平たちに、朔が言った。
弥平には、その言葉の意味が分からなかった。
竹を埋めて、水が抜けるものか。
だが、朔様は『これで土が息をする』と仰せだった。
水が腐るのを防ぐのだという。
あの窖で冬に豆を育てたお方だ。
弥平は、ただ信じて手を動かした。
この田は、もう昨日までの田ではない。
その土の下には、人の知恵という見えざる川が、縦横に張り巡されているのだ。
その頃、タエとおふみは、女衆や子供たちをまとめていた。
男たちが壊した古い畔の上に、新しい土が盛られていく。
「ここに、緑豆の種を蒔くんだよ」
タエが言う。
冬の間に、あの温床窖で増やした、大事な種だ。
「里芋は、こっちの陽当たりの良い斜面だ」
土を豊かにする豆。
米が駄目でも腹を満たす芋。
朔の戦は、ただ米を増やすだけではない。
あらゆる不作を想定し、幾重にも張り巡らされた、緻密な網のようなものだった。
水江村に戻る頃には、陽が西の山に傾いていた。
村の風景は、一変していた。
夕日に照らされた田は、まるで巨大な碁盤のように、整然と区画されている。
仕事を終えた村人たちと、雇われた人足たちが、疲れきった顔の中にも、どこか満足げな表情を浮かべて、家路についていた。
その活気が、春の生暖かい空気に満ちている。
見事な光景だった。
朔の知恵が、人の力が、これだけのものを創り上げたのだ。
だが、その時。
弥平は、ふと視線を感じて、遠くの丘に目をやった。
丘の稜線に、黒い人影が幾つか、立っているのが見えた。
夕日を背にしているため、顔も身なりも分からない。
ただ、こちらをじっと見つめていることだけは、確かだった。
痩せこけた、亡霊のような人影。
それは、飢えに追われ、風の噂だけを頼りに、この地までたどり着いた者たちの、最初の目だった。
豊かさの光は、同時に、飢えた者たちを引き寄せる、濃い影を落とし始めていた。




