流れる富
天文八年、三月下旬。
水江村を流れる川の水は、冬の名残を洗い流し、ぬるみ始めていた。
岸辺の柳が、淡い緑の芽を吹いている。
空は高く、雲雀の声がどこまでも澄み渡っていた。
一隊の男たちが、その道を進んでいた。
先頭に立つのは、伊丹城の役人、相沢玄蕃である。
その痩せた頬には、獲物を見つけた獣のような、いやらしい光が宿っていた。
一週間前、文吾が差し出した帳面を前に、相沢はほくそ笑んだ。
『冬麦の収穫、例年の5割増し』
主家である伊丹氏は、先の細川氏綱の蜂起以来、きな臭くなる一方だ。
戦の備えは、いくらあっても足りぬ。
この麦は、己の首を繋ぐ命綱であった。
その後ろに、足軽が数名。
そして、上役の前ではいつもの気怠げな様子を消し、背筋を伸ばして付き従う文吾の姿があった。
不意に、相沢は足を止めた。
川霧の向こうから、一艘の大きな川舟がゆっくりと下ってくる。
喫水線が深く沈み、重い荷を積んでいることが窺える。
筵で覆われているため、中身は分からない。
神崎湊へ向かうのだろう。
相沢は、別段気にも留めなかった。
百姓どもが、何かを湊へ運んでいる。
それだけのことだ。
彼の関心は、ただ一つ。
これから手に入れる、水江村の麦にあった。
◇◇◇◇
「よう参られた、相沢様」
村の入り口で、朔が深々と頭を下げた。
村人たちは、皆、うつむいている。
弥平が事前に言い含めておいた通りだった。
相沢は馬から降りると、名主の家には目もくれず、まっすぐに蔵へと向かった。
弥平が差し出した帳簿を、猜疑心に満ちた目で検める。
朔が文吾の癖字を真似て記した数字は、どこにも綻びを見せなかった。
「……ふむ。確かに、報告通りか」
相沢は満足げに頷くと、集まってきた村人たちを見回し、冷たい声で言い放った。
「皆、よう聞け。此度の豊作、まことに見事。公儀もことの他、お喜びである」
芝居がかった口上に、村人たちの顔がこわばる。
「されど、昨今の畿内の情勢、主家・伊丹家も安閑とはしておられぬ。ついては、年貢とは別枠で、段銭を課すことと相成った」
村人たちの間に、動揺が走る。
弥平が、おそるおる口を開いた。
「だ、段銭、でございますか……。して、その額は」
「うむ」
相沢は、わざとらしく咳払いを一つした。
そして、蛇のような目で弥平を見据え、宣告した。
「この度の収穫、半分を召し上げる。これだけの豊作、問題なかろう」
その言葉が、村人たちの頭上で雷鳴のように響いた。
年貢とは別に、春の収穫の半分を差し出せという。
それは、死ねと言っているに等しい。
誰かが、ひっと息を呑んだ。
あちこちで、女たちの押し殺したような泣き声が漏れ始める。
「そ、そのような……! あまりにむごい……」
弥平が、絞り出すように言った。
その隣で、朔はただ黙って、うつむいている。
相沢は、そんな百姓たちの絶望を、まるで極上の酒でも味わうかのように、ゆっくりと眺めた。
「むごいか。だが、これも公儀のため。お主らが、この摂津の国で安穏と暮らすためのものと思えば、安いものだろう」
有無を言わせぬ物言いだった。
足軽たちが、蔵の扉を開け放つ。
そして、帳簿に記された「一・五倍」の麦俵が、その半分、容赦なく運び出されていく。
村人たちは、その場にへたり込み、天を呪い、地に突伏して泣きじゃくった。
弥平までもが、乾いた土に額をこすりつけ、その肩は小刻みに震えていた。
相沢は、その光景に、満足の極みといった表情を浮かべていた。
(ふん。これで上役への覚えもめでたくなるわ)
彼は、心の中でほくそ笑んだ。
(あの童も、利用の仕方次第ではまだまだ銭を生む。生かせず殺さず、だ。生きれぬほどにとってしまえば、来年、搾り取るものがなくなってしまうからの)
自らの完全な勝利を確信し、鼻を鳴らした。
「文吾、伊丹へ戻るぞ」
勝ち誇った声が、村の空に響いた。
◇◇◇◇
村の中ほどにある、小さな小屋。
朽木玄斎は、戸の隙間から、勝ち誇った顔の相沢が、麦を満載した荷車と共に村を去っていくのが見えた。
玄斎は、その光景を冷ややかに見つめている。
やがて、その口の端が、わずかに上がった。
「面白い。虎の目の前で獲物を浚って見せたか」
ぽつりと、呟く。
「だが、銭の匂いは血の匂いよりも遠くまで届く。次に来るのは、虎よりも鼻の利く獣かもしれんぞ」
その視線は、相沢たちではなく、その先の堺の空を見ていた。
◇◇◇◇
相沢が去った、その翌日のことである。
水江村の入り口が、にわかに騒がしくなった。
見張りに立っていた若い衆が、慌てて弥平の元へ駆け込んでくる。
「弥平さ! 沢西の……沢西の衆が!」
弥平が表へ飛び出すと、沢西村の方角から、一団の男たちがこちらへ向かってくるのが見えた。
先頭に立つのは、名主の源吾である。
彼らが担いでいるのは、武器ではなく、麦の詰まった袋だった。
源吾は、弥平の前に立つと、深く、深く頭を下げた。
「弥平殿。いや……水江村の皆々様」
その声は、感極まったように震えていた。
「昨日のこと、聞き及んだ。さぞ、ご無念であったろう」
「源吾殿……これは、いったい」
呆然とする弥平に、源吾は顔を上げた。
その目には、涙が光っている。
「朔殿の言いつけ通り、我らの村では、麦の大半を隠し蔵に移しておいた。おかげで、相沢様の目から逃れることができた。これは、その礼じゃ。いや、礼などという言葉では足りぬ。我らの命を救っていただいた、せめてもの返礼じゃ」
源吾が合図すると、沢西村の男たちが、担いでいた麦袋を、水江村の者たちの前に、どさ、どさと下ろし始めた。
公然と、白日の下で行われる、感謝の贈与であった。
弥平の目からも、熱いものが込み上げてくる。
彼は、源吾の手を固く握りしめた。
言葉は、なかった。
寄合の末席にいた権爺が、その光景を瞬きもせず見つめている。
かつて、水利を巡って殺し合い寸前までいった沢西村の者たちが、頭を下げている。
権爺は、杖を握る手にぐっと力を込めた。
そして、誰にも聞こえぬほどの声で、ぽつりと呟いた。
「……時代が、変わったか」
「すげえや、朔殿は! 本当に神様みてえだ!」
彦太が、興奮した様子で声を上げた。
有頂天になったその顔は、朔への純粋な尊敬の念で輝いている。
朔は、そんな彦太に静かに歩み寄ると、懐から取り出した小さな袋を差し出した。
「彦太。これはお前たちが育てた分だ。沢西村へ持ち帰れ」
袋の中には、温床窖で増やされた緑豆の種豆と、里芋の種芋が詰まっていた。
「畔にこの緑豆を植えれば、痩せた田も、より豊かになる。来年の米作りのための、大事な布石だ」
「へい、朔殿!」
彦太は、その袋を宝物のように、両手で恭しく受け取った。
源吾が、息子の肩を叩いて応じる。
「この彦太に、米作りの方も仕込んでくだせえ。朔殿の言う通りに、やってみせます」
その光景を、朔は静かに見ていた。
やがて、彼は弥平と源吾のそばへ歩み寄る。
「弥平、源吾殿。よくやってくれた」
その声は、子供のものとは思えぬほど、落ち着いていた。
「朔殿。…いや、朔様」
その呼び方が、変わっていた。
源吾が、畏敬の念のこもった目で朔を見る。
朔は、静かに頷いた。
「相沢に渡した麦は、見せ金のようなものだ。本当の収穫は、あれの倍はあった」
「ば、倍……!?」
弥平と源吾が、息を呑む。
例年の三倍。
もはや、奇跡という言葉ですら生ぬるい。
朔は続けた。
「そして、富の大半は、もはや麦ではない。相沢の手の届く場所で、銭に姿を変えている」
彼は、昨日、相沢たちがすれ違った、あの川舟のことを話した。
利吉という商人が、今頃は堺で、あの酒を莫大な銭に変えているだろう、と。
弥平も源吾も、言葉を失っていた。
自分たちが必死で演じた悲劇の、そのはるか上空で、この童がどれほど巨大な仕掛けを動かしていたのか。
その強かさに、ただただ慄然とするしかなかった。
朔は、そんな二人に向き直ると、静かに告げた。
「まずは、この麦で、村の蔵を満たせ。それから、利吉に預けた銭の一部で、塩と干し魚、それに田を肥やす干鰯を買い入れる。冬を越すための、備えだ」
村に、安堵のため息が漏れた。
これで、食うに困ることはない。
相沢の収奪からも、村は守られたのだ。
しかし、朔の表情は硬いままだった。
彼は、弥平と源吾に鋭い視線を向ける。
「これだけでは足りない」
その声に、村の者たちははっと顔を上げた。
「奴は必ずまた来る。もっと根本から、この村を、俺たちの土地を、誰にも奪われぬものに変えなければならない」
朔の視線は、目の前の田畑の、さらにその先にある未来を見据えていた。
それは、まだ誰も見たことのない、新しい村の姿であった。




