黄金色の約束
天文八年(1539年)三月。
水江村から川上の沢西村にかけて、川沿いの畑地は一面、黄金色の海と化していた。
冬の間に蒔かれた麦が、見事に実ったのである。
そよぐ風に穂が揺れ、さわさわと乾いた音を立てる。
それは、飢えを知る百姓たちの耳には、どんな楽の音よりも心地よく響いた。
だが、その黄金色の海は、眺めて楽しむためのものではなかった。
収穫という、戦が始まったのだ。
「休むな! 陽が高いうちに刈り尽くすぞ!」
弥平の声が、畑に響く。
弥平を頭とした男たちが、一斉に鎌を振るう。
刈り取られた麦の束は、女衆や子供たちの手で次々と運ばれていった。
その一部は、脱穀のために干される。
そして、かなりの量が、村はずれの作業小屋へと運び込まれていく。
そこでは、麦粒を入れた蒸し器が静かに湯気を上げていた。
「火を絶やすな」
朔の指示の下、村で腕の立つ男たちが、交代で麦を蒸し、発酵させ、そして熱を加え、櫂でかき混ぜる。
麦のどぶろく造りだ。
甘く、焦げたような匂いが、小屋の周りに立ち込めていた。
「桶が足りん! もう空はないか!」
朔は、次々と満たされていく桶の列を前に、内心で舌打ちした。
想像以上の豊作だった。冬の間に作り溜めた桶が、このままでは底をつく。
(まずいな。相沢が来る前に始末しなければならんというのに……)
◇◇◇◇
日も沈むと、村々の家々からは、夕餉の支度をする煙が立ちのぼり、香ばしい匂いが漂ってくる。
朔の家の土間でも、母のタエが大きな椀に湯気の立つ麦飯を山盛りにしていた。
白米ではない。
なれど、粟や稗の雑炊ばかりをすすっていた日々に比べれば、天上のご馳走であった。
卓には、芹や蓬の若葉を浮かべた汁の椀。
それに、大根の葉を塩漬けにした香の物が添えられている。
「朔や、よう働いたな。さ、食べな」
タエの声は、この数ヶ月でずいぶんと明るくなった。
朔は黙って頷き、箸を取る。
口に含んだ麦飯は、噛むほどに素朴な甘みが広がった。
この確かな手応え。
これこそが、村人たちを動かす何よりの力となる。
冬の間、子供たちが世話をした温床窖もまた、確かな実りをもたらした。
冬の間に育てた緑豆と里芋が、見事な実りを見せたのだ。
とりわけ、緑豆は不思議な作物であった。
土に蒔けば、わずかな日数で実を結ぶ。
その実を、すぐにまた土に返す。
すると、再び芽吹き、新たな実をつけるのだ。
一粒が、冬の間に二度、命を繋いだ。
そうして得た豆は、籠に山と盛られた里芋と共に、春の作付けに回すには十分すぎるほどの量となっていた。
小さな、しかし確実な成功の積み重ねが、村の空気を変えつつあった。
◇◇◇◇
その日の昼過ぎ、沢西村の名主である源吾が、息子の彦太を連れて水江村を訪れた。
弥平に案内され、朔の家の前に立った源吾は、深々と頭を下げた。
「朔殿。……いや、水江村の皆々様。これまでの我らの非礼、まことに、申し訳ござらなんだ」
「源吾殿、顔を上げてくだされ。もう、水に流したこった」
応えたのは、弥平である。
その横で、彦太が朔に向かってにかりと笑った。
「朔殿!おらが村でも、麦がいっぱい採れたぞ!」
その屈託のない笑顔に、朔もかすかに口元を緩めた。
その夜は、村の広場で祝宴が開かれた。
広場の中央では大きな焚き火が燃え上がり、その周りを両村の男たちが囲んでいる。
持ち出された太鼓がど、ど、と腹に響く。
酒で顔を赤くした年嵩の男の一人が、椀を叩いて歌い出した。
「長い雨にはよォ、泣いたとさ!」
すると、周りの者たちが野太い声を張り上げる。
「「それ!よいさの、どっこいさ!」」
「天の神様ァ、仏様ァ、なんで見捨てる、言うたとさ!」
「「それ!よいさの、どっこいさ!」」
男たちの声が、焚き火の炎と共にはぜる。
「鍬で打つ手がよォ、豆だらけ!」
「汗で背中がよォ、塩だらけ!」
「「それ!よいさの、どっこいさ!麦が揺れるぞ、酒が舞う!」」
女衆が運ぶ大皿には、焼いたばかりの川魚や、ふきのとう、タラの芽、土筆といった春の恵みが山と盛られ、甕に満されたどぶろくが、次々と男たちの椀に注がれていく。
「まさか、沢西の源吾殿とこうして酒が飲める日が来ようとはな」
弥平が、源吾の肩を叩きながら言う。
「うむ。これも、朔殿のおかげじゃ」
源吾は、踊りの輪から少し離れた場所で静かに座っている朔に目をやり、盃を干した。
長年の諍いは、この陽気な喧騒と、酌み交わす酒によって、完全に溶けてなくなりつつあった。
その、宴のたけなわであった。
一人の男が、息を切らせて村に駆け込んできた。
神崎湊を拠点とする商人、利吉である。
「朔の旦那!おりますかい!」
旅の垢にまみれているが、その目はらんらんと輝いていた。野心と成功の光である。
「利吉か。早かったな」
朔が静かに応じる。
利吉は朔の前にどかりと座り込むと、懐から一枚の書付を取り出した。
「へえ。ご覧くだせえ。堺の座の権利、確かにこの利吉が、手に入れてまいりやした!」
座。商人組合の鑑札である。
これがあれば、堺という巨大な市場で、公に商いができる。
利吉は、朔が試作した焼酎を元手に、この大仕事を成し遂げてきたのだ。
弥平が、目を丸くして尋ねた。
「利吉さんよ。堺の座といえば、化け物みてえな大店が睨みを利かせてるって話じゃねえか。よう、そんなもんを……」
利吉は、待ってましたとばかりに膝を打った。
「へえ、聞いてくだせえ、旦那方。そりゃあ、生易しいもんじゃござんせんでした」
利吉は、ぐいと酒を呷ると、一息にまくしたてた。
「あっしがこの『火の酒』を堺に持ち込んだところで、初めは誰も相手にしやせん。どこの馬の骨とも知れねえ行商人が、と。ですがね、一度これを飲ませりゃあ、話は別だ。目の色を変えて、あっしの周りに群がってきやがる!」
利吉は身を乗り出した。その目は、あの時の興奮でらんらんと輝いている。
「ですが、ここからが本当の戦でさあ。大店の連中が、あっしを脅しにかかった。『その酒の出どころを吐け』『作り方をよこせ』とね。しまいには、『お前一人の手には余る。大人しく権利を渡せば、命だけは助けてやる』と来たもんだ!」
村の男たちが、ごくりと喉を鳴らす。
「ですがね、あっしはただの行商人じゃねえ。朔の旦那の酒を背負ってるんでさあ。ここで引くわけにゃあいかねえ。それに、連中は互いに牽制しあって、あっしから酒を独り占めしようと躍起になってる。そこが付け目でした」
利吉は、にやりと笑った。
「一番大きな店の旦那にこう言ってやったんでさあ。『この酒は、とある村の偉いお方が、神仏から授かった知恵で造ったもの。製法は門外不出』とね」
利吉は、まるで芝居のように声を潜めた。
「『ですが、このあっしを通じてなら、堺で独占して商う権利を差し上げてもよい』と囁いてやった。そうすりゃあ、他の店が黙っちゃいねえ。あっしの宿に、夜討ちまがいの脅しが来る。そいつらには、また別の甘い言葉を囁いてやる。そうやって、化け物同士を互いに噛み合わせ、疲れ果てたところで、あっしが間に入ってやったんでさあ!」
利吉は、その書付をもう一度、誇らしげに叩いた。
「『このあっしが座の一員となり、皆々様に等しくこの酒を卸しましょう。そうすりゃあ、無用な争いも起きやすまい』とね。連中は互いに睨み合いながらも、頷くしかねえ。こうして、あっしはまんまと座に潜り込み、この鑑札を手に入れたって寸法でさあ!」
利吉の声には、抑えきれぬ興奮がこもっていた。
「一刻も早く、本格的に造ってくだせえ。この酒は、とんでもない銭になりやすぜ!」
彼の成功は、この小さな村が、堺の経済圏、ひいては畿内の権力者たちの視線に晒されることを意味していた。
朔は、ただ黙ってその書付を見つめていた。
◇◇◇◇
宴が終わり、人々がそれぞれの家路についた頃。
朔は、一人、夜風に当たっていた。
そこに、静かな足音が近づく。
権爺であった。
真新しい杖を突き、曲がった腰をかがめながら、権爺は朔の隣に立った。
「……見事なものじゃな」
ぽつりと、権爺が言った。
「村の衆の顔から、ひもじさが消えた。お主の知恵は、わしらの及ぶところではなかったわ」
その言葉には、敗北を認める潔さと、かすかな寂しさが滲んでいた。
「じゃがな、朔」
権爺は、言葉を続けた。
「この村は、変わりすぎた。わしが知っておる水江村とは、もう違う村じゃ。古くからの習わしは廃れ、神仏への祈りも忘れられつつある。……豊かになりすぎた村は、いずれ、大きな災いを招くのではないか。そんな気がして、ならんのじゃ」
「権爺……」
「忠告じゃ。……心に、留めおけ」
そう言うと、権爺は再び杖を突き、闇の中へと消えていった。
権爺の言葉が、朔の胸に重くのしかかる。
富は、新たな脅威を呼び込む。
それは、この時代の理であった。
◇◇◇◇
翌朝、朔は文吾の小屋を訪れた。
気怠げな顔で現れた文吾に、朔は一枚の紙を差し出した。
「文吾殿。伊丹城の相沢様への、このたびの麦の収穫報告だ」
文吾は訝しげにそれを受け取る。
そこには、文吾自身の癖字を真似て、こう記されていた。
『水江村、麦の収穫、例年の五割増し』
「……五割増し、だと?もっと採れておるではないのか?」
文吾の目に、わずかながら疑いの色が浮かぶ。
村の麦畑は、誰が見ても例年の三倍以上の実りであった。
「ああ。あまりに出来すぎた報告をすれば、相沢様も詮索せざるを得なくなる。かえって面倒なことになるだけだ。これくらいが、一番都合がいい」
面倒、という言葉に、文吾の肩から力が抜けた。
たしかに、三倍だの四倍だのという報告をすれば、伊丹城で自分が問い詰められることになる。
なぜそうなったのか、と。
そんなことは、考えただけでも億劫であった。
「……ふん。まあ、お前がそういうなら、それでいい。俺は知らん」
文吾は書付を懐に入れると、あくびを一つして、伊丹城へと向かう馬に跨った。
朔は、その背中が東の道に消えるまで、冷徹な目で見送っていた。
そして、すぐさま弥平を呼び、沢西村の源吾へ使いに出す。
伝言は、ごく短いものだった。
「ただちに、隠し蔵を造れ、と」
静かなる戦いの準備が、始まった。
◇◇◇◇
文吾の馬が水江村の境を越えると、景色は一変した。
あれほど続いていた黄金色の海が、嘘のように途絶える。
目に入るのは、青白いまま育たぬ穂をつけた痩せた麦畑ばかり。
道端にうずくまる人影の目は、どれも虚ろだ。
文吾は舌打ちを一つすると、気分の悪い光景から目をそらすように、馬の腹を蹴った。




