神崎湊の粟と塩
朽木玄斎の問いが、雨音に混じって、鋭く朔の耳に届いた。
「童、お主、何を見ている」
それは、子供に対する問いではなかった。
同じものを見、同じように世の理不尽を憂いている者にだけ向けられる、静かな問いかけであった。
朔は、はっとして顔を上げた。
地面に描いた線の意味を、この男は悟ったというのか。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
見られるな、知られるな、目立つな。
己に課した掟が、脳裏で鳴り響いた。
朔は、ごくりと唾を飲み込み、努めて子供らしい声で答えた。
「……川を、見ている」
「ほう」
「水は、いつも低いほうへ流れる。当たり前なのに、時々、村は水でいっぱいになる。不思議だなあって」
言葉を選び、慎重に紡ぐ。
玄斎は、何も言わなかった。
ただ、その衰えを知らぬ目が、じっと朔を見据えている。
雨が、二人の間を隔てるように、白く降り注いでいた。
やがて、玄斎はふいと顔を背け、再び濁流へと目をやった。
「……くだらん」
酒に焼けた声で、ぽつりと呟く。
それが、肯定なのか、否定なのか、朔には分からなかった。
ただ、これ以上問われることはない、という安堵だけが、冷たい体の中に広がった。
朔は、黙って立ち上がると、牢人に背を向け、ぬかるむ道を家へと急いだ。
背中に突き刺さる視線を、感じながら。
◇◇◇◇
雨は、夜半のうちに上がっていた。
されど、空にはまだ、洗い残した墨汁のような雲が蟠っている。
水江村は、朝から総出であった。
長雨で溢れた水路の泥を浚い、倒れた稲を藁で結わえ、崩れた畦を塗り固める。
誰もが己の田畑の始末に追われ、口数も少なかった。
そんな中、神崎の湊へ塩と粟を買い出しに行く役目が、弥平にお鉢が回ってきた。
半ば、仕方のないことである。
彼の畑は、幸いにも被害が最も少なかったのだ。
弥平は、父を亡くしたタエと朔が世話になっている隣家の主である。
四十を少し過ぎたばかりだが、百姓仕事で鍛えられた体は岩のように逞しい。
「……朔や、すまねえが、おめえも一緒に来てくれねえか」
鍬を肩にした弥平が、朔の家の土間に顔を出した。
「おらが昔、湊で銭の計算をごまかされたのを、おめえも知ってっぺ。おめえは勘定に明るい。いてくれると心強い」
弥平の言葉に、母が「まあ」と案じる顔をしたが、朔は黙って頷いた。
村の皆から預かった、なけなしの銭だ。
失敗は許されない。
そして、朔には確かめたいことがあった。
(この長雨と、虫の知らせ……)
もし、記憶の通りなら、湊にはもう兆候が出ているはずだ。
「わかった。行くよ」
朔は短く答え、草鞋の紐を結び直した。
◇◇◇◇
水江村から神崎湊までは、大人の足で半刻ほどの道のりだ。
村を出ると、昨日まで川のようであった道も、今はぬかるみに変わっている。
一歩進むごとに、足がずぶりと泥に吸い取られる。
前を歩く弥平は、何も言わなかった。
がっしりとした背中が、黙々と泥道を踏みしめていく。
この男は、実直な百姓だ。
だが、愚かではない。
子供の言葉を、ただの戯言として聞き流せぬだけの、何かを持っている。
やがて道は固くなり、人の往来も増えてきた。
行商人や、笈を背負った山伏、托鉢の僧侶が、泥を避けながら行き交う。
遠くから、様々な音が混じり合った、巨大な生き物の息遣いのようなものが聞こえてくる。
湊の音だ。
朔は、その音に耳を澄ませた。
彼の目は、道端の草花や、空を飛ぶ鳥には向かない。
道沿いの畑の畝の形。
小さな川に架かる粗末な橋の普請。
それらすべてを、ただの情報として記憶に刻みつけていく。
この世界で生き延びるために。
神崎の湊は、五感を麻痺させるほどの混沌に満ちていた。
鼻をつくのは、潮の香りと、干物の匂い。
こぼれた濁り酒の甘酸っぱい香り。
炊事の煙。
川岸の泥が放つ、生臭い匂い。
それらが混じり合って、湊の空気を満たしている。
響くのは、荷を捌く商人たちの怒声。
船頭たちが歌う、鄙びた舟歌。
荷車の軋む音。
鍛冶屋の打つ、高い槌の音。
弥平は、人の多さに目を白黒させている。
朔は、その喧騒の中を、冷静に見渡していた。
川沿いには、土蔵が立ち並ぶ。
全国から舟で運ばれてきた米、塩、陶器、布が、山と積まれている。
淀川を通じて京の都と瀬戸内の海とを結ぶ、畿内経済の大動脈。
ここは、常に何かが動き、生まれ、そして消えていく場所だ。
朔の目には、それが一つの巨大な情報網に見えた。
この国の健康状態を測る、巨大な脈。
今のところ、その脈は乱れている。
「……ちいと、休むか」
弥平が、人の流れから逃れるように、一軒の煮売屋の暖簾をくぐった。
葦簀張りの粗末な屋根の下に、簡素な木の縁台がいくつか並んでいる。
店の真ん中では、大きな鍋がぐつぐつと煮え立ち、湯気を上げていた。
二人は、粟の雑炊を頼んだ。
欠けた椀によそわれた雑炊は、まだ熱い。
ざらりとした粟の粒が、舌の上で転がる。
味付けは、ほんのわずかな塩気だけだ。
だが、冷えた体に、その温かさがじんわりと染み渡っていく。
弥平は、黙々と雑炊をかき込んでいた。
朔の耳は、周囲の男たちの会話を拾っていた。
西国から来たらしい、日に焼けた船頭たちが、濁り酒を呷りながら、声を潜めて話している。
「……どうにも、きな臭いのう」
「ああ。米の値が、じわりと上がっておる」
「播磨の蝗害のせいだ。田という田が、一夜にして丸裸にされたと聞いた」
蝗害。
その言葉に、朔の体の芯が冷えた。
歴史の書物で知っている。
この数年後、日本全土を未曾有の飢餓が襲う。
天文の飢饉だ。
原因は、長雨と洪水、そして、この「蝗害」であった。
「煎餅をかじるような音が、夜通し聞こえるそうだ。気味が悪い」
「こっちまで飛んでこなければよいが……」
別の隅では、荷運びの人足たちが、疲れた顔で愚痴をこぼしていた。
「……阿波の雨は、こっちどころの騒ぎじゃなかったらしいぞ」
「ああ。田んぼが、みんな湖になっちまったとよ」
やはり、来る。
(天文九年……)
前世で読んだ、本の活字が、脳裏に浮かんで消えた。
己が今、正確に何年にいるのかは知らぬ。
だが、この陰鬱な長雨と害虫の噂は、あの破局の前触れと、不気味なほど一致していた。
朔は、何も言わず、ただ椀を握る手に、ぐっと力を込めた。
腹ごしらえを済ませ、朔と弥平は、目当ての粟と塩を商う店に向かった。
◇◇◇◇
店の主人は、狐のように目の細い男だった。
愛想の良い笑みを浮かべているが、その目は、弥平の持つ銭袋の値踏みをしている。
「へえ、粟と塩で。毎度あり」
主人は、手際よく粟を袋に詰め、秤に乗せた。
弥平は、その秤の動きを、じっと見つめている。
数年前、この湊で質の悪い鐚銭を掴まされ、米を安く買い叩かれた苦い経験があった。
「……ちいと、秤が傾いてねえか」
弥平が、おずおずと口にした。
主人は、顔色も変えずに答える。
「いやいや。お客さん、これが神崎の正しい秤ってもんでさ。あんたらの村の秤とは、ちいと違うんでしょうよ」
言いくるめられ、弥平は黙るしかない。
やがて、弥平が村で集めてきた銅銭を台の上に出した。
主人は、その銭を指先で器用に弾きながら、選り分け始めた。
撰銭だ。
「おっと、こいつはいけねえ。鐚銭だ」
「ああ、こいつもだ。端が欠けちまってる」
次々と、質の悪い私鋳銭が脇へとはじかれていく。
村人たちが、汗水流して稼いだ銭だ。
それが、主人の手にかかれば、紙屑同然の扱いを受ける。
「これじゃあ、勘定が足りませんな。あと二十文は足してもらわねえと」
主人が、にやりと笑った。
弥平の顔が、悔しさに歪む。
騙されている。
それは分かっている。
だが、どう言い返せばいいのか、言葉が見つからない。
百姓の理屈は、商人の舌先の前では無力だった。
そのときだった。
「おじさん」
静かな声がした。
朔だった。
朔は、前に進み出ると、主人がはじいた鐚銭の中から一枚を拾い上げた。
そして、主人の手元にあった、良質とされる永楽通宝を一枚、指さした。
「この銭と、この銭は、重さが違うのかい」
子供の、無邪気な問いかけだった。
主人は、鼻で笑った。
「坊主、当たり前だろうが。こっちは本物の銭、そっちは石ころみてえなもんだ。価値が違うんだよみてえなもんだ。価値が違うんだよ」
「ふうん」
朔は頷くと、とんでもないことを言い出した。
「じゃあ、その秤で、重さを量ってみせてよ」
「……なんだと?」
主人の顔から、笑みが消えた。
周りで見ていた他の客たちが、面白そうにこちらを見ている。
「だって、重さが同じなら、同じだけ買えるんだろう?」
朔は、あくまで子供の理屈を押し通す。
その目は、真っ直ぐに主人を射抜いていた。
その瞳の奥に、子供のものではない、冷徹な光が宿っていることに、主人は気づかない。
「……ちっ」
衆人環視の中、主人は舌打ちをした。
この童の言う通りにすれば、己の秤がいかに不正確か、そして鐚銭と称してどれだけ不当な交換を強いているかが、白日の下に晒される。
そうなれば、店の信用は地に落ちる。
主人は、忌々しげに弥平の方を向いた。
「……分かったよ。さっきの銭で、持って行きな」
それは、敗北宣言だった。
弥平は、呆気に取られたまま、商人から粟と塩の袋を受け取った。
主人の、朔を睨みつける目に、殺意にも似た光が宿っていた。
◇◇◇◇
帰り道は、来た時とはまるで空気が違っていた。
弥平は、何も喋らない。
ただ、重い荷を背負い、黙々と泥道を踏んでいく。
その沈黙が、朔には重かった。
感謝されている。
それは分かる。
だが、それだけではない。
弥-平の視線には、感謝と共に、得体の知れないものを見るような、かすかな怯えが混じっていた。
十歳の童に、できることではない。
あの商人を、言葉だけで黙らせるなど。
やがて、水江村の茅葺き屋根が、夕暮れの空の下に見えてきた。
村の入り口に差し掛かったとき、弥平が、不意に足を止めた。
そして、ゆっくりと朔の方へ向き直る。
その顔には、これまで朔が見たことのない、真剣な色が浮かんでいた。
弥平は、ごくりと唾を飲み込み、絞り出すように言った。
「……朔」
「……」
「一体、どこでそんな知恵をつけたんだ?」
問いかけに、朔は答えることができなかった。
夕闇が、答えに窮する童の小さな影を、静かに飲み込んでいった。
◇◇◇◇
道の先の木陰に、人影が見えた。
夕暮れの光の中で、その姿は黒い染みのように見える。
近づくにつれ、それが玄斎だとわかった。
弥平が、ぺこりと頭を下げる。
玄斎は、それに頷きもせず、ただじっと朔を見ていた。
その目は、すべてを見透かすような深さを持っている。
「弥平。先に帰れ」
「へ、へい」
玄斎の有無を言わさぬ声に、弥平は慌てて歩き出した。
道には、朔と玄斎だけが残された。
風が吹き、竹藪がさわさわと音を立てる。
「湊は、どうだった」
「……人が、たくさんいた」
「そうか」
玄斎は、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、朔の目を覗き込むように見つめている。
「お主のその目だ」
「……え?」
「その目は、いずれ災いを呼ぶ」
玄斎の声は、淡々としていた。
事実を告げているだけ、という響きだ。
「面白いから、というだけではない。死なぬための術を覚えておけ」
「死なぬ、ため……」
「そうだ。この乱れた世で、ただ生き延びるための術だ」
玄斎は、すっ、と立ち姿を変えた。
両足の先を、わずかに外へ向ける。
重心が、すとんと地に落ちたように見えた。
まるで、足から根が生えたようだ。
「立て」
朔は、言われるままに玄斎の前に立った。
「わしが、動く。その気配を読んでみろ。どこから、何が来るか」
「気配……」
「そうだ。人は、動く前に必ず気配を放つ。肩の動き、息遣い、目の光。その『しん』を掴むのだ」
玄斎は、何も言わずに、ふっと肩の力を抜いた。
ほんのわずかな動きだ。
だが、次の瞬間、玄斎の腕が鞭のようにしなり、朔の頬の寸前でぴたりと止まった。
風圧だけが、朔の髪を揺らした。
朔は、目を見開いたまま、動けなかった。
「今、わかったか。わしの肩が、わずかに沈んだのを」
「……」
「それが『しん』だ。それが見えれば、斬られる前に体を捌ける」
玄斎は、朔に体の捌き方を教え始めた。
剣の振り方ではない。
敵の力を受け流し、己の身を守るための、ただそれだけのための体の動かし方だ。
念流の基礎であった。
それは、武士が戦場で功名を立てるための剣術ではない。
弱い者が、ただ生きるために身につけるべき術だった。
◇◇◇◇
日が、完全に落ちた。
稽古というにはあまりに静かな時間が、終わった。
玄斎は、いつの間にか姿を消していた。
まるで、初めからそこにいなかったかのように。
朔は、一人、村への道を歩き始めた。
体は疲れているはずなのに、頭は妙に冴えている。
玄斎の言葉が、耳に残っていた。
死なぬための術。
ふと、空を見上げた。
西の空が、病んだ肌のようにどす黒い紫色に染まっていた。
美しい夕焼けではない。
不吉な、澱んだ色だ。
ぽつり、と朔の額に冷たいものが落ちた。
雨だ。
一粒、また一粒と、雨粒が落ちてくる。
それは、この先何日も続く、陰鬱な長雨の始まりであった。




