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温床窖

天文七年(1538年)、十一月。


摂津の国、水江村を吹き抜ける風は、冬の匂いを運びはじめていた。

川面から立ちのぼる冷気が、男衆の額の汗をたちまち冷やす。


「そっちの杭、もう一本打ち込め!」


弥平の野太い声が飛んだ。

泥にまみれた男たちが、おう、と応え、巨大な木槌を振り上げた。 ど、という鈍い音が、淀川の岸辺に響き渡った。


水江村と沢西村。 昨日までの敵同士が、今は同じ泥に足を取られ、同じ目的に向かって汗を流している。

沢西村の名主、源吾が険しい顔で川の流れを睨んでいた。


「弥平殿。この曲がりは、水が渦を巻く。竹を組んだ蛇籠じゃかごを沈めた方がよかろう」

「源吾殿の言う通りだ。そいつは良い考えだ」

弥平は頷き、すぐに人足に指示を飛ばした。


二人の間には、もはや過去のいがみ合いの影はなかった。

共有された労働と、目前の脅威が、男たちを静かに結びつけていた。


彼らに混じり、見慣れぬ顔が三つ、四つ。 神崎の湊で、米払いを条件に雇われた日雇いの人足たちだ。


休憩の刻限になると、彼らは水江村の女衆が炊き出した粟粥を、うまそうに掻き込んでいる。 粥には干した大根の葉が混ぜられ、添えられた粗末な皿には、焼いた川魚と、塩辛いたくあんが一切れずつ載っていた。


「ここの村は、羽振りがええな」

一人の人足が、口の端についた粥を拭いながら言った。


「ああ。昼の飯だけでなく、帰りに米と粟まで持たせてくれるんだ。他の村じゃ、こうはいかねえ」


その会話を、弥平は聞こえぬふりをしながら聞いていた。


朔の知恵がもたらした豊かさ。 それは村の誇りであったが、同時に、弥平の胸には言い知れぬ不安の種を蒔いてもいた。


先ごろ湊からの帰り道で見た、あの飢えた家族の姿が、脳裏を離れない。

この豊かさは、いずれ飢えた者たちの憎しみを招くのではないか。


弥平は空を見上げた。 冬の空は、低く、鉛色をしていた。


◇◇◇◇


村の大人たちが治水工事に明け暮れている頃、朔は別の戦場にいた。

村はずれの、陽当たりの良い丘の南斜面。


「よいしょ、こらしょ!」

彦太が小さな鍬を振るう。 おふみは、熊手で懸命に土を掻き出していた。


「朔、これでいいの?」

おふみが額の汗を拭って尋ねる。


「ああ。いいぞ、おふみ。その調子だ」

朔は、子供たちが掘った深さ一尺ほどの穴の底を、黙々と踏み固めていた。


「俺達の砦づくりって、面白いなあ!」 彦太が笑う。

彼らにとって、これは遊びの延長だった。 朔が持ちかけた、「冬の寒さから、大事な種豆を守るための砦」を作るという遊び。


朔は穴の底に小石を敷き詰めると、子供たちに指示した。


「よし。次は、落ち葉と藁だ。山のように集めてこい」


「あいよ!」


子供たちは、きゃっきゃと笑い声をあげながら、雑木林の方へ駆けていく。


一人残された朔は、懐から小さな布袋を取り出した。 中には、利吉が命懸けで運んできた緑豆と、切り分けた里芋の種芋が入っている。


これこそが、村の未来そのものだった。


大人たちの目が届かぬ場所で、子供たちの無邪気な労働力を使って、最も重要な計画を進める。 これが、今の朔が選んだやり方だった。


やがて戻ってきた子供たちと共に、穴の中に落ち葉と藁、そして朔が別の場所で熟成させていた高温発酵堆肥を少量、層になるように重ねていく。


「朔殿、これは何だか、あったかいな」 堆肥に触れた彦太が、不思議そうに言った。

「ああ。これはな、土の中に仕込む、小さな火種のようなものだ」 朔はそう答えた。


竹で骨組みを作り、その上に油紙をぴんと張る。 利吉に無理を言って手に入れさせた、高価な品だ。

冬の弱い日差しが、油紙を通して、中の土をぼんやりと照らした。


小さな、粗末な温室。 だが、それはこの酷薄な時代に抗うための、朔の知恵の城だった。


「いいか。この砦の名前は、温床窖おんしょうぐらだ」 朔は、土を固めながら、子供たちに言った。

「おんしょーぐら?」 おふみが、不思議そうに繰り返す。


「そうだ。暖かな寝床の、あなぐらだ。忘れるなよ」


◇◇◇◇


役人の文吾が詰めている小屋は、墨の匂いと、彼の気怠い溜息で満ちていた。

「……おい、朔。まだ終わらんのか」 文吾は、卓に頬杖をついたまま、不機嫌そうに言った。


「今、最後の行を」 朔は顔も上げずに答えると、筆を走らせた。

文吾の癖のある文字。 跳ねるべきところを流し、止めるべきところを走り書きにする、その独特のリズム。 朔は、この数ヶ月でそれを完璧に自分のものにしていた。


面倒な筆仕事を朔に押し付けて以来、文吾はご機嫌だった。 相沢玄蕃に提出する定期報告書も、朔が代筆するようになってから、文句を言われることがなくなった。


「よし。できた」 朔が筆を置く。

文吾は、気だるそうにそれを受け取ると、ざっと目を通した。


「……ふむ。麦の育ちは、まあ順調、と。堤の普請も、例年通り……村の者どもも、静かにしとる、か。上出来だ」

彼は、朔の筆跡が己のものと見分けがつかぬことに満足し、内容を疑うことすらしなかった。


この村で起きている真実など、どうでもよかった。 相沢に叱られず、面倒事が起きなければ、それでいい。


朔もまた、この奇妙な共生関係に利点を見出していた。

相沢に渡る公式の報告書。 その内容を、今や自分が完全に掌握している。


報告書には、余剰米で人足を雇っていることなど、ひと言も書かれていない。 丘の上に、奇妙なあなぐらが作られていることも。


情報は力だ。 そして、その流れを制する者が、戦を制する。

文吾は、自分が便利な下働きを手に入れたと思っている。 だが、真に手綱を握っているのは、どちらなのか。


朔は、黙って硯の墨をすった。


◇◇◇◇


枯れた葦が、風にそよいでいる。 朽木玄斎の小屋の前の、寂寞とした川べり。

か、と乾いた音がして、朔の手から木刀が弾き飛ばされた。


あっけないほどの一瞬。

朔は、ぜいぜいと肩で息をついている。 対する玄斎は、息一つ乱していなかった。


「……はあ……はあ……」


「終わりだ」

玄斎は、木刀をすっと下ろすと、静かに言った。


「お主には、剣の才がない」

それは、侮蔑でも落胆でもなく、ただ事実を告げる医者のような響きだった。


朔は、悔しいというよりも、むしろ腑に落ちるのを感じていた。 分かっていたことだ。

「……だろうな、とは、おもっていた」


「お主の頭は、体の三歩先を行く。だが、足は一歩目に留まったままだ。それでは、斬り合いにならん」

玄斎は、川面に目をやった。


「お主の戦場は、そこではない」


「……」


「だがな」

玄斎は、ゆっくりと朔に向き直った。 その老いた瞳に、鋭い光が宿る。


「世の中というやつは、お主の都合など構ってはくれん。面倒は、お主が望まぬ時に、望まぬ形でやってくる」

玄斎は、自分の木刀を朔に示した。


「万が一、ということもある。お主が学ぶべきは、敵を斬る剣ではない。そんなものは、人斬りのやることだ」


彼は、ゆっくりと続ける。

「周りが助けに来るまで、己の命を繋ぐための剣。時間を稼ぐための、守りの剣だ」


玄斎は、構えもせずに、ただすっと立った。


「いいか。自分で何とかしようとするな。戦わずに済むように立ち回れ。それでも避けられぬ時は、ただ、耐えろ。受け流せ。相手が痺れを切らすまで、あるいは、仲間が駆けつけるまで、生き延びろ。それが、お主の剣だ」


その言葉は、朔の胸の奥深くに、すとんと落ちた。

知恵で戦う。 力では、決して勝てぬ。 己の限界を、はっきりと突きつけられた。


だが、それは絶望ではなかった。 むしろ、進むべき道が、より鮮明になったように感じられた。


◇◇◇◇


外では、堤防工事を終えた男たちの、賑やかな声が遠くに聞こえる。

朔は、文吾の部屋で、静かに筆を置いた。


墨の匂いが、冷えた空気に満ちている。

書き終えた報告書に記されているのは、この村の真の姿とは似ても似つかない、巧妙に歪められた平穏な日常の記録。


その頃。


丘の斜面の温床窖では、子供たちの小さな歓声があがっていた。

暗く、暖かい土の中から、緑豆が、か弱い、しかし確かな生命力に満ちた双葉を、そっと覗かせていたのである。

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