価値ある一粒
天文七年(1538年)十月下旬。
秋の日は、つるべ落としとはよく言ったものだ。
陽が落ちると、水江村の家々の茅葺き屋根からは、白い煙が頼りなげに立ちのぼる。夕餉の支度である。
朔の家の囲炉裏にも、火が赤々と熾っていた。
鍋には粟の粥が煮えている。だが、いつもの水増しされた粥ではない。米が三割も混ぜ込まれ、とろりとした粘りと甘い香りが湯気と共に立ちのぼっていた。
母のタエが、朴の葉に載せた鮒の塩焼きを火にかざしている。
じりじりと皮が焦げ、香ばしい匂いが土間に満ちた。春先に集め、塩漬けにしておいた蕨の煮物も小鉢に盛られている。
「朔や、よう働いたな。さ、食べな」
タエの声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
この数ヶ月で、村の暮らしは、そしてこの家の食卓は、見違えるほど豊かになった。それはすべて、目の前の息子の知恵がもたらしたものだ。かつて、その得体の知れなさを恐れた面影は、今のタエにはない。ただ、深い感謝と信頼があるだけだった。
朔は黙って頷き、椀を受け取った。
温かい粥を一口すする。米の甘みが舌に広がる。鮒の身を箸でほぐし、口に運ぶ。淡白な白身に、塩の辛さが染みていた。
(この味と、引き換えにしたもの……)
文吾に渡した銭の重み。相沢玄蕃の名を騙った嘘。村人たちに強いた過酷な労働。その一つ一つが、この一膳の飯の向こう側に見える。
前世の、田中健司であった頃の自分ならば、決して選ばなかった道だ。
だが、後悔はない。
母の安らかな横顔が、その選択が間違いではなかったと告げていた。
その時だった。
「ごめんくだせえ!」
土間の戸口から、切羽詰まったような声がした。
タエが驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、ひと月ほど前に堺へと旅立った商人、利吉であった。
◇◇◇◇
利吉の身なりは、旅の疲れをありありと物語っていた。
糊のきいていたはずの小袖は泥に汚れ、草鞋は鼻緒が切れかかっている。何より、その顔に儲け話を見つけた商人の輝きはなかった。あるのは、深い疲労と、何か恐ろしいものを見てきた者の緊張であった。
「利吉さん、まあ、お上がりなされ」
タエが促し、朔は自分の椀をそっと脇に置いた。
利吉は囲炉裏端に腰を下ろすと、懐から小さな麻袋を二つ、大事そうに取り出した。
一つを朔の前に置く。
ずしりと重い。中には、緑色の豆が詰まっていた。緑豆だ。
もう一つの袋からは、ごつごつとした芋が五つ、六つ転がり出た。里芋である。
「朔の旦那。頼まれていた品でさあ。いやはや、難儀しやした。このご時世、どこの湊も米やら豆やらは、大店が買い占めちまっててね。あっしみてえな小商人が入り込む隙間は、ありゃしやせん」
利吉は一気にまくし立てた。
「ほうぼうを駆けずり回って、ようやっとこれだけです。銭も、すっかり底をつきちまった」
「ご苦労だった」
朔は静かに言った。
「して、京の様子は」
その問いに、利吉の顔がさっと曇った。
「……どうも、きな臭くていけやせん。三好長慶様が京に入られてから、役人の威光も地に落ちたもんでね。公方様も、管領様も、あってなきがごとし。夜道も物騒になりました。昨日まで威張っていた侍が、次の日には首になって晒されてる。そんな話が、ごろごろ転がってやす」
三好長慶。
その名に、朔の背筋を冷たいものが走った。歴史が、動き出している。権力の空白は、必ず飢えを加速させる。奪い合いが、始まるのだ。
利吉は、囲炉裏の火を見つめながら続けた。
「旦那の言う通りかもしれねえ。とんでもねえ飢饉が、すぐそこまで来てる。あっしも、肌で感じやした」
「だからこそ、これが必要だった」
朔は、緑豆の袋を指した。
「利吉さん。あんたは、ただの使い走りじゃねえ。俺の、大事な仲間だ。だから、話しておく」
朔の真剣な眼差しに、利吉はごくりと喉を鳴らした。
「なぜ、俺がこの二つを欲しがったか。緑豆は、大豆よりもずっと早く育つ。わずか二月もあれば実になる。それに、こいつを育てた後の土は、不思議と米がよう育つようになるんだ。土を、肥やす力が強い」
「土を……肥やす?」
「ああ。米の裏作には、もってこいというわけだ。そして、里芋。こいつは、万が一、長雨や冷夏で米が駄目になっても、土の中で静かに育つ。万が一の備えだ」
緑豆で来年の米の収穫を増やし、里芋でその米が駄目だった時の備えとする。
その先を見据えた計略に、利吉は息を呑んだ。この童は、一体どこまで見えているのか。
だが、感心ばかりもしていられない。懐は、空なのだ。
「旦那……」
利吉の声に、焦りが滲んだ。
「そのお考えは、天下一でさあ。ですがね、あっしも霞を食って生きてるわけじゃねえ。……例の、火を噴く酒は、まだですかい? あれさえあれば、堺の座の連中を出し抜いて、あっしも一旗揚げられるんだが……」
座。堺の商人組合だ。その既得権益に食い込むには、誰もが欲しがる切り札がいる。利吉は、朔の造る焼酎に、己の商人としての再起を賭けていた。
朔は、利吉の焦りを見抜いていた。
「麦の収穫は、春だ。それから仕込んで、夏にはできる」
「そ、そんなに待てやせん!」
「だが」
朔は言葉を継いだ。
「見本があれば、話は早いだろう」
「見本?」
「ああ。この秋に獲れた米で、一樽だけ仕込んでみる。それをあんたに渡そう。それを持って、堺の旦那衆と話をつけな」
それは、利吉にとって願ってもない提案だった。
すぐには銭にならずとも、未来の利益を約束する手形にはなる。何より、この童が自分を切り捨てる気がないことの証だった。
「……ありがてえ。旦那、恩に着やす」
利吉は、深々と頭を下げた。
その目には、再び商人の鋭い光が戻っていた。
◇◇◇◇
数日後。
弥平は、神崎湊からの帰り道を、一人歩いていた。
懐には、朔に頼まれた鉄釘が入っている。冬の間に、農具の修繕をするのだという。
朔の指図で動くようになってから、村の暮らしは確かに楽になった。
夕餉には、腹一杯の粥が食える。冬を越すための備えも、十分すぎるほどある。
(あいつは、すげえ)
心からそう思う。
だが、同時に、言い知れぬ不安が胸の奥に澱のように溜まっていた。
村が豊かになるほど、外の世界との隔たりが大きくなっていく。まるで、水江村だけが、この世から切り離されたような。そんな感覚だった。
道の脇の草むらに、何かがうずくまっているのが見えた。
人だ。
父親らしき男と、母親。そして、その腕に抱かれた、幼子。三人家族のようだった。
身なりは、ぼろぼろだった。着物というより、もはや汚れた布切れだ。
男は力なく地面に座り込み、女は虚ろな目で空を見ていた。腕の中の子は、泣き声一つ上げない。
生きているのか、死んでいるのか。
弥平は、思わず足を止めた。
声をかけるべきか。だが、何を言えばいい。
懐には、わずかな銭と、村に持ち帰るべき鉄釘しかない。施しをする余裕など、弥平にもないのだ。
男が、ゆっくりと弥平の方を向いた。
その目に、光はなかった。憎しみも、羨みもない。ただ、深い、深い闇だけが広がっていた。
弥平は、目をそらし、足早にその場を通り過ぎた。
背中に、何も言わない家族の視線が突き刺さるようだった。
村境の木戸をくぐり、我が家が見えた時、弥平は心の底から安堵した。
家からは、夕餉の支度をする煙が上がり、味噌の匂いがした。
村の中は、いつも通りの穏やかな時間が流れている。
だが、弥平の脳裏には、道端で見た家族の姿が焼き付いて、離れなかった。
あれは、地獄だ。
声も出さず、ただ静かに朽ちていく、地獄の始まりだ。
◇◇◇◇
弥平からの報告を聞き終えた朔は、何も言わなかった。
囲炉裏の火が、ぱちりと音を立ててはぜる。鍋の粥が、ことことと穏やかな音を立てている。
家の外からは、子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。
この暖かさ。この匂い。この音。
そのすべてが、村の外に広がる静かな地獄とは、あまりにもかけ離れていた。
朔は、利吉が命懸けで持ち帰った一粒の緑豆を、掌の中で強く握りしめた。
この一粒が持つ価値。
それは、土を肥やし、腹を満たすだけではない。
この、ささやかで、かけがえのない日常を守るための、武器だ。
そして、この豊かさこそが、いずれ飢えた者たちの憎しみを集める的になるだろう。
残酷な対比を前に、朔の決意は、さらに硬く、冷たく研ぎ澄まされていく。
本当の戦いは、まだ始まってもいない。




