冬麦
天文七年(1538年)十月下旬。
水江村の稲刈りは、終わった。
村には、つかの間の安堵と、冬支度を前にした静かな空気が流れている。
冷たく澄んだ風に、竹藪がそよいでいた。
◇◇◇◇
寄合が開かれる日の、昼前のことである。
朔は、監視役である文吾の寝床を訪れた。
文吾は、まだ眠たげな目をこすりながら、不機嫌そうに朔を見下ろしている。
「なんだ、童。俺はまだ眠いんだが」
朔は何も言わず、懐から麻の袋を取り出した。 ちゃり、と乾いた音がする。
袋を文吾の前に差し出す。
「……なんだ、これは」
「これで、美味いものでも食ってくれ」
子供らしからぬ落ち着いた声であった。 文吾は訝しげに袋を受け取り、中を覗く。 そこには、三百文ほどの鐚銭が入っていた。日雇い労働の二十日分にはなる。
文吾の眠たげだった目が、わずかに見開かれた。 鼻の下を指でこする。
「ほう。……して、これは何の真似だ?」
「寄合で、少しばかり芝居を打つ。あんたには、ただ黙って頷いていてほしいだけだ」
「……」
文吾は、銭の入った袋を懐にしまい込んだ。 そして、大きな欠伸を一つした。
「ああ、面倒だ。……好きにしろ」
それが、承諾の合図であった。
◇◇◇◇
文吾の元を離れ、一人になった時、朔の胸に冷たいものがこみ上げてきた。
(これでいい。これが、この世のやり方だ)
そう自分に言い聞かせる。 だが、脳裏に蘇るのは、全く違う自分自身の姿であった。
……前世、田中健司だった頃。 アフリカの赴任地で、検問所の若い警察官に書類の不備を理由に金を要求されたことがあった。 『機構の定めた不正腐敗防止の指針です』 健司は、汗だくになりながらも、毅然として英語で言い放った。 『我々は、いかなる理由があろうと、非公式な支払いをすることはない』 あの時の自分は、正しかった。 貧しい国を蝕む汚職の連鎖を、自分のところで断ち切るのだという、青臭いが、確かな信念があった。
(あの時の俺は、どこへ行った?)
朔は、強く拳を握りしめた。 指の爪が、掌に食い込む。
(違う。あれは理想が許された世界でのことだ。ここは違う。ここは、生きるか死ぬかだ)
綺麗事では、誰も救えぬ。 母も、おふみも、弥平も。
(そうだ。俺は、手を汚すことを選んだのだ)
あの日、掟を破った時から、もう後戻りはできぬと決めていたはずだった。
◇◇◇◇
寄合の場に、村の男たちが顔を揃えている。
だが、その雰囲気はいつもとまるで違っていた。
上座にいるべき権爺の姿はない。 いや、いるにはいるが、末席で小さくなっている。
上座にどかりと腰を下ろしているのは、まだ十一の童、朔であった。
その傍らには、領主伊丹家の役人である文吾が、退屈そうに欠伸を噛み殺しながら控えていた。
朔は、集まった村人たちの顔を一人一人、静かに見渡す。
その目に、子供らしい光はない。
やがて、冷え冷えとした声で口を開いた。
「皆に、相沢様からの御達しがある」
その一言で、場の空気が張り詰めた。 ごくり、と誰かが唾を飲む音が聞こえる。
「来年の年貢は、さらに一割増しとなる。加えて、いつ御用米の沙汰が下るやも知れぬ。このままでは、我らは干上がるだけだ」
絶望に満ちたたどよめきが、低い唸りとなって広がった。
朔はそれを、ただ一瞥しただけで黙らせる。
「故に、相沢様は我らに命じられた」
朔は、言葉を区切った。
「この冬、村の全ての田で麦を作れ、と。米で足りぬ分は、麦で補えとの思し召しだ」
それは、朔が作り上げた、全くのでまかせであった。
だが、彼の背後にいる文吾が、面倒くさそうにこくりと頷くだけで、それは公儀の、逆らうことのできぬ命令となった。
正論や説得では、この頑迷な共同体は動かぬ。 第一幕の失敗で、朔はそれを骨身に沁みて学んでいた。
ならば、彼らが最も恐れる権威、相沢という虎の威を借りる。
村を救うため、自ら村人たちを欺き、追い詰める。 非情の道であった。
朔の隣で、弥平が固い表情で拳を握りしめている。
末席の権爺は、固く目を閉じたまま、動かなかった。
◇◇◇◇
数日後。
村中の百姓たちが、来たるべき麦作のための種籾を携え、広場に集められた。
そこには、巨大な木桶と、山と積まれた塩が用意されている。
「何が始まるんだ」
「まじないか……」
村人たちが訝しげに見つめる中、朔は静かに作業を始めた。
まず、桶に満たした真水に、生の鶏卵を一つ、そっと入れる。
卵は、ことりと音を立てて底に沈んだ。
当たり前の光景だ。
次に、朔は塩を一つかみ掴むと、水に溶かし始めた。
ざわめきが広がる。
朔はそれに答えず、ただ黙々と塩を加え、棒でかき混ぜ続ける。
やがて、水に溶けきれなくなった塩が桶の底に白く溜まり始めた、その時であった。
底に沈んでいた卵が、ふわりと浮き上がった。
そして、水面に五分銭玉ほどの大きさの顔を、わずかに覗かせた。
「これで良い」
朔はそう言うと、集められた種籾を、その塩水に静かに注ぎ入れた。
信じられない光景が、村人たちの目の前で広がった。
一部の籾はぷかぷかと水面に浮かび上がり、残りの多くはゆっくりと、しかし確実に底へと沈んでいく。
「浮かんできたのは、腹の中に何もない、育つ力のない籾だ。これを蒔いても芽は出ぬ」
朔の声が、静まり返った広場に響く。
「沈んだものこそが、来年の我らの命となる、真の種籾よ」
それは、塩水選という、比重を利用した極めて合理的な選別技術であった。
だが、その理屈を知らぬ村人たちにとって、目の前の光景は、まるで神仏の意思が示されたかのような、厳粛な儀式そのものであった。
権爺が司ってきた祈祷に代わる、新しい権威が生まれた瞬間であった。
村の隅で、沢西村の彦太が目を輝かせ、その手順の全てを脳裏に焼き付けようと、食入るように見つめていた。
◇◇◇◇
選別された種籾を手に、村の男たちは総出で田へと向かった。
しかし、彼らが命じられたのは、種を蒔くことではなかった。
大地そのものを、作り変えることであった。
朔の指示は二つ。
一つは、稲とは違い、麦は「足が濡れるのを嫌う」。 そのため、田を深く耕し、その土を高く盛り上げ、幅三尺、高さ一尺ほどの「高畝」を築くこと。
もう一つの指示は、さらに奇怪なものであった。 高畝を作る過程で、その中央に溝を掘り、タエに率いられた女子供が集めてきた大量の落ち葉と米ぬか、それに少量の下肥を混ぜたものを、その溝に埋め込むのだ。
「これは『地中の太陽』だ」
朔は、そう説明した。
「土の中で燃え続け、麦の根を冬の凍てつきから守ってくれる」
微生物による発酵熱を利用した、地中加温。 小氷期の寒さを乗り切るための、朔の知恵の真骨頂であった。
骨の折れる仕事には違いない。 だが、村人たちの顔に、以前のような絶望の色はなかった。 塩水選の儀式が、彼らの心に小さな、しかし確かな希望の火を灯していた。
先頭に立って鍬を振るう弥平が、額の汗を拭い、息を整えるために天を仰いだ。 そして、土を打ち付ける鍬のリズムに合わせるように、野太い声で歌い始めた。
「鍬を振り上げ……」
一拍おいて、隣で作業していた男が、合いの手を入れる。
「アラ、ヨイショ!」
弥平の声に、力がこもる。
「まっすぐ振り下ろす……」
今度は、あちこちから声が上がった。
「ソレ、ドッコイショ!」
歌は、伝染した。 一人から二人へ、二人から村全体へ。 いつしか、晩秋の田んぼは、男たちの力強い歌声に包まれていた。
「土を盛り上げ、高畝立てりゃ、雨でも根腐れ、なかろうに!」
「「ヤレ、なかろうに!」」
昼餉の時間になると、タエが女衆を率いてやってきた。 大きな木桶には、湯気の立つ握り飯が山と盛られ、別の甕には、見ているだけで口の中に唾が湧くような、真っ赤な梅干が入っている。
「さあさ、皆、よう働いたな。ぎょうさん食べなされ」
タエの声に、男たちがどっと畦に腰を下ろす。 塩の利いた握り飯と、梅干の酸っぱさが、疲れた体に沁み渡った。 あちこちで笑い声が上がる。 厳しい労働であったが、そこには不思議な明るさと一体感があった。 皆が、同じ未来を向いていた。
この強制から始まった共同作業は、村の自治組織「惣」を完全に解体し、朔を頂点とする指揮系統を完成させた。 彼らは知らず知らずのうちに、自らの手で、古き村の姿を壊し、新しい村を築いていたのだ。
◇◇◇◇
その日の夜。 朔は、小さな徳利を一つ手に、村はずれの朽木玄斎の小屋を訪れた。
囲炉裏の火が、二人の顔をぼんやりと照らしている。
徳利の中身は、利吉との賭けに使った「火を噴く酒」の残りであった。
玄斎は、猪口に注がれたそれを、くい、と一口で飲み干す。 そして、満足そうに息を吐いた。
「……で、何の用だ。童の顔をしておらぬぞ」
朔は、揺れる炎を見つめたまま、ぽつりと言った。
「玄斎。俺は今日、村の者たちを騙した」
「ほう」
「相沢様からの御達しだ、と嘘をついた。虎の威を借りねば、誰も動かせぬゆえ」
玄斎は、黙って次の杯をあおる。
「銭で、役人の口も塞いだ。……これで良かったのか、時々、分からなくなる」
それは、朔が初めて他人に漏らした、心の奥底の声であった。
玄斎は、空になった猪口を置くと、静かに言った。
「綺麗事では、米は食えんぞ」
その言葉は、以前にも聞いたものだった。
「お主は、ただの童ではない。村の運命を背負ったのだ。その重さに耐えられぬなら、今すぐ全てを放り出せ」
玄斎は、そこで言葉を切った。
「……できぬだろうがな」
朔は、何も答えなかった。 答えられなかった。
玄斎は、朔の猪口に酒を注いでやる。
「……今日の酒は、悪くない」
その一言が、朔にとっては何よりの答えのように聞こえた。
◇◇◇◇
数日がかりで、水江村の田の風景は一変した。
平らだった水田は、まるで巨大な獣の肋骨のように、高く、長い畝が幾筋も平行に並ぶ異様な光景へと変わっていた。
選ばれた種が、その畝の上に丁寧に蒔かれる。
最後の仕上げに、朔は刈り取った稲わらを畝と畝の間に分厚く敷き詰めるよう命じた。
「これは、大地に掛けてやる夜着だ。これで種も、夜の寒さに凍えることはあるまい」
さらに、彼はこう付け加えた。
「春先、芽が出揃ったら、今度はこれを踏みつけてやる。そうやって、麦に強い足腰を持たせるのだ」
後の「麦踏み」の予告であった。
全ての作業が終わる頃には、日は西の山に傾いていた。
夕日に照らされた畑は、藁の布団をかぶり、静かに横たわっているように見えた。
村の者たちは、その有り金すべてを注ぎ込むように、冬を越すための体力と時間を、この奇妙な畝に注ぎ込んだ。
朔は、おふみと彦太と共に、小高い丘からその光景を見下ろしていた。
この賭けが吉と出るか、凶と出るか。
答えを知る者は、朔をおいて誰もいない。
ただ、冷たい冬の風が、三人の子供たちの頬を撫でていくだけであった。
麦踏みって聞くと、はだしのゲンを思い出しますね。
もし良ければ、評価とブックマーク、お願いします。




