商人の賭け
天文七年(1538年)、九月下旬。
秋だというのに、空は低く垂れこめ、風は日増しに冷たさを加えていた。
水江村に、その男は現れた。
神崎湊を拠点とする行商人、利吉である。
抜け目のない商人の目で村の様子を窺い、その中心にいる童、朔に狙いを定めた。
朔は、その視線を静かに待ち受けていた。
「あんた、銭の匂いがするな」
子供の声ではない。静かで、底の知れぬ響きがあった。
「もっと大きな儲け話に興味はないか?」
利吉の口の端が、わずかに上がった。目の前の童は、化け物かもしれぬ。だが、化け物が棲む場所には、相応の宝があるものだ。
「……ほう。滅法、興味がありやすぜ」
利吉は、卑屈な笑みを浮かべた。
「こっちだ。面白いものを見せてやる」
朔は短く言うと、利吉を村はずれの作業小屋へと導いた。
道すがら、利吉は改めて値踏みするように朔を見た。
「して、坊っちゃんは、この村のどなた様で?」
朔は、振り返らずに答えた。
「俺だ」
「……へい?」
「この村のことは、今、俺が決めている」
利吉の足が、一瞬だけ止まった。冗談か、狂人の戯言か。
だが、この童の言葉には、それを真実と思わせる異様な響きがあった。
小屋に入ると、むっとするような熱気と、甘酸っぱいような奇妙な匂いが鼻をついた。
中央には大きな鉄釜が据えられ、その上には分厚い木蓋が乗せられている。
蓋から伸びた一本の竹筒が、水を張った大きな木桶をくぐり、その先にある甕へと続いていた。奇妙な仕掛けであった。
その釜のそばで、一人の老人が腕組みをして座っている。
朽木玄斎であった。彼は利吉を一瞥したが、興味もなさそうに、また釜の方へ視線を戻した。
「こいつが初めて息をした日は、そりゃあ大騒ぎだった」
朔は、懐かしむように目を細めた。
◇◇◇◇
───3日前。
炊き出しに使う大釜の上に、分厚い木蓋が乗せられている。
その接合部は、水で練った粘土で幾重にも塗り固められていた。
「よし、これで最後だ」
村で最も手先が器用な留吉が粘土を塗り終え、泥だらけの手を拭った。
彼の顔には、誇りと不安が入り混じっている。
「弥平、火を頼む。最初は弱くだ」
朔の声は、静かで、揺るぎなかった。弥平は無言で頷くと、釜の下の薪に火を移した。
戸口には、朽木玄斎が腕を組んで立っていた。
彼は何も言わず、ただ、釜ではなく、朔の横顔をじっと見つめている。
やがて、大釜が低い唸りを上げ始めた。中の液体が沸騰を始めたのだ。
「来るぞ」
朔が呟いた。
その時だった。
「―――シィィィィッ!」
静寂を切り裂く、鋭い音。
木蓋と釜を繋ぐ粘土の一点から、白い蒸気が激しい勢いで噴出していた。
「まずい!」留吉の顔から血の気が引いた。「熱で粘土にひびが!」
「塞げ!」朔の怒声が飛んだ。
留吉が咄嗟に粘土を掴むが、噴流は彼の指先を灼き、悲鳴と共に手を引っこめた。
「駄目だ、熱すぎる!」
「手ぬぐいだ!濡らせ!」
弥平が腰の手ぬぐいを引き抜き、桶の冷水に叩き込む。
びしょ濡れになったそれを固く絞ると、彼は意を決して蒸気の噴出口へと向かった。
「ぐっ……!」
布越しに伝わる熱が、彼の掌を容赦なく灼く。彼の歯ぎしりが聞こえる。
彼は全体重をかけて手ぬぐいを押し付けた。
「今だ!粘土を!」朔が叫ぶ。
留吉が、弥平の拳の上から、祈るように粘土を塗り固めていく。
小屋は、統率された混沌の坩堝と化した。
やがて、嘶音は完全に止み、小屋には不気味なほどの静寂が戻ってきた。
残されたのは、薪のはぜる音と、壁に寄りかかって荒い息をつく弥平の喘ぎ声だけだった。
彼の掌は、赤く腫れ上がっている。
全員の視線は、ただ一点。木桶を抜けた竹筒の先端に、釘付けになっていた。
その時だった。
竹筒の先端に、小さな光が宿った。朝露のように、透明な液体の雫がゆっくりと形を成していく。
そして――ぽちゃん。
小さな、しかし世界で最も美しい音が、受け壺の底で響いた。続いて、もう一滴。ぽちゃん。
ゆっくりと、だが、間違いなく。命の滴りが始まった。
小屋を満たしたのは、歓声ではなかった。誰からともなく漏れた、長く、深い安堵の溜息だった。
朔は、震える指を受け壺に差し入れた。それを唇へと運ぶ。舌を灼くような、衝撃。体の芯まで燃え上がらせるような熱。
「火を噴く酒だ……」
誰かが呟いた。
朔は、戸口に立つ玄斎を見た。老いた牢人は、初めて、その口の端にかすかな笑みを浮かべていた。
◇◇◇◇
「……というわけだ」朔は、話を終えた。
利吉は、言葉もなく、目の前の奇妙な仕掛けと、朔の顔を交互に見ていた。
朔は、小さな猪口に甕から液体を注ぐと、火のついた藁の切れ端を近づけた。ぼっ、と青白い炎が立ち上る。
利吉の目が、驚きに見開かれた。
「これが……火を噴く酒…」
朔は、もう一つの猪口に酒を注ぎ、玄斎に差し出した。
玄斎は、無言でそれを受け取ると、まず香りを確かめ、次にほんの少しだけ舌に含んだ。
彼の眉が、わずかに上がる。
「……ほう」
しゃがれた声で、ぽつりと言った。
「喉と五臓六腑が、焼け付くようだ。だが、悪くない」
その一言が、合図だった。
利吉は、差し出された猪口をひったくるように受け取ると、恐る恐る口をつけた。
途端、喉が焼けるような熱さに襲われる。
思わず咳き込んだが、その後に鼻を抜ける米の香りは、今まで飲んだどの濁り酒よりも澄み切っていた。
「こ、こいつは……」
利吉の声が、震えていた。
商人としての本能が、目の前の液体が持つ価値を告げていた。
これは、ただの酒ではない。銭を生む、化け物だ。
利吉の頭が、猛烈な速さで回転を始めた。
この童は、尋常ではない。子供と侮って話を聞かねば、この宝の山を見過ごすところだった。
目端が利くのが、己の唯一の取り柄だ。
神崎の大店を飛び出したのは、古い慣習に縛られるのが嫌だったからだ。
己の才覚一つで、成り上がってみせる。そう決めたではないか。
失敗すれば、また振り出しに戻るだけ。失うものなど、たかが知れている。
朔は、そんな利吉の心の算盤を見透かすように、静かに言った。
「賭けをしないか」
「賭け、でございますか」
「ああ。大きな賭けだ」
朔は、火のそばに腰を下ろした。そして、利吉の目の奥をまっすぐに見据えた。
「来年から、空は荒れる」
「……」
「二年後には、地獄が来る」
その言葉は、予言というより、宣告に近かった。利吉の背筋を、冷たいものが走る。神崎の湊で、西国での不作の噂を耳にしたばかりだった。目の前の童の言葉が、その不吉な噂とぴたりと重なった。
「地獄……とは」
「飢饉だ。人が、人を喰らうほどの」
朔の言葉に、利吉は息を呑んだ。
「俺は、その地獄を乗り切るための舟を造っている。だが、肝心のものが足りん」
「足りないもの、とは」
「種だ」
朔は、懐から小さな布袋を取り出した。中には、数粒の干しからびた豆が入っているだけだった。
「緑豆という豆がある。それと、寒さや長雨に強い、里芋の種芋。これを、何としても手に入れたい」
利吉は、眉をひそめた。「そいつはまた、難儀なものを。緑豆なんぞ、このあたりじゃ見たこともねえ。堺の薬種問屋か、京の寺でも探さねばなりますまい」
「だから、あんたに頼む」
「しかし、銭は……」
「見返りは、これだ」
朔は、火を噴く酒の入った甕を指さした。
「あんたが種を見つけてくれば、この酒を売る権利をやろう。摂津で、いや、この日ノ本で、その酒を独り占めできる権利だ」
利吉の心臓が、大きく跳ねた。独占。その言葉の甘い響き。
だが、すぐに現実が頭をよぎる。待てよ。あっしは、ただの行商人だ。神崎の湊で酒を商うには、酒座の許しがいる。座衆でもないあっしが、どうやってこの酒を売るというのだ。
いや、違う。だからこそ、だ。
利吉の目が、ギラリと光った。
この「火の酒」そのものを手土産にするのだ。
神崎の酒座の連中の前に、この酒を突きつける。一口飲ませれば、奴らの目は血走るに違いねえ。
そして、言うのだ。この酒を扱えるのは、この利吉だけだ、と。
あっしを座衆に加えねえ限り、この酒は湊には一滴も入ってこねえ、と。
それは、脅しだ。そして、最高の取引だ。この酒は、銭を生むだけじゃねえ。
座に縛られ、大店の番頭に頭を下げてきたこの利吉に、座衆という「身分」を与えるための、最高の切り札になる。
利吉の心は、決まった。この賭けに乗らねば、一生、神崎湊の小商人で終わる。危険は大きい。だが、見返り《リターン》は、それ以上に大きい。
「分かりやした」利吉は、深く頭を下げた。「この利吉、命に代えても、お探しの種を見つけてまいりやす」
「話が早い」
利吉は、一礼すると、興奮を隠しきれない様子で小屋を後にした。神崎の湊へ戻り、すぐに堺へ向かう手筈を整えるのだろう。
◇◇◇◇
その頃、村の入り口近くの小屋で、一人の男が退屈そうにあくびを噛み殺していた。
相沢玄蕃配下の小役人、文吾である。彼は、朔と利吉が作業小屋で何かやっているのを、遠巻きに眺めていた。
話の内容までは聞こえない。だが、百姓の童と、胡散臭い身なりの商人が何かを話している。それだけのことだ。文吾の眠たげな目に、その光景は退屈な絵図にしか映らなかった。
「……ああ、面倒だ」口癖を呟き、彼は帳面を取り出した。相沢への報告書である。
「百姓相手に、胡散臭い商人が何か企んでおるわ」彼は、そう内心でせせら笑った。そして、帳面にはこう記す。
――特に異変なし。
この怠慢が、やがて主である相沢の命運を狂わせることになるとは、文吾自身、知る由もなかった。
◇◇◇◇
利吉が去った後、村は静かな活気に満ちていた。
村はずれの雑木林。木々の葉が、赤や黄色に色づき始めている。その木漏れ日の下で、女たちが土を掘り返していた。先頭に立っているのは、朔の母、タエだった。
「こら、おふみ!葛の根っこは、もっと太いのを狙わんと駄目だ!」タエの張りのある声が飛ぶ。おふみは、泥だらけの顔で笑った。
少し離れた樫の木の下では、子供たちが歓声を上げながら団栗を拾い集めている。その中に、沢西村から来た彦太の姿もあった。
彼は、籠いっぱいの団栗を抱えて、朔の元へ駆け寄ってきた。
「朔殿!」
その声は、弾んでいた。
「沢西の村でも、みんなやってる!朔殿に教わった通り、葛の根を粉にして粥に混ぜたら、腹持ちが良くなったって、おっ母が泣いて喜んでた!」
彦太の黒い瞳が、憧れの光で輝いている。
「うちの親父も、最初は猪の食い物なんぞって意地を張ってたけど、今じゃ誰より熱心に川で団栗の毒を抜いてる」
その言葉に、周りで作業していた女たちが、くすくすと笑った。
飢えへの恐怖が消えたわけではない。
だが、村には色が戻りつつあった。女たちの頬の赤み。子供たちの声の高さ。
土を掘る鍬の音のリズム。その全てが、明日を信じる者の色をしていた。
◇◇◇◇
日が暮れかかる頃。朔は、濁り酒の入った小さな瓢箪を手に、朽木玄斎のねぐらを訪れた。
玄斎は、黙ってそれを受け取ると、縁側にあぐらをかき、瓢箪から盃に酒を注ぎ、ちびりと一口やった。
「ほう……今日の酒は、悪くない」
しゃがれた声で、ぽつりと言った。朔は、その隣に腰を下ろした。
「銭の匂いに敏い男だ。俺たちのために、堺まで走ってくれる」
玄斎は、何も言わず、川面を眺めている。やがて、杯を干すと、静かに口を開いた。
「狐と狸の化かし合いか。面白い」
その目は、笑ってはいなかった。
「だがな、朔」
玄斎は、朔の顔をじっと見た。
「狐に魂まで喰われぬよう、己の牙だけは磨いておけ」
その言葉は、単に利吉に騙されるな、という忠告ではなかった。
大物崩れの戦いで主君を裏切られ、全てを失った男の言葉だった。
玄斎が言う「狐」とは、利吉一人のことではない。
これから朔が関わっていく、欲望渦巻く世間そのものを指している。
朔は、何も答えなかった。ただ、玄斎の忠告の重さを、骨身に沁みて理解していた。
これが、まだ序章に過ぎないことを、彼は知っていた。本当の戦いは、飢饉そのものではない。飢饉が生み出す、人間の欲望との戦いなのだと。
冷たい風が、朔の頬を撫でていった。




