杖を置く日
天文七年、九月下旬。秋霖が上がり、空は高く澄み渡っていた。
水江村の田は、二つの世界に分かたれていた。
弥平たちが刈り取る稲穂は、ずしりと重い。
鎌を入れるたび、乾いた、心地よい音が響く。束ねられた稲は、男の腕でも抱えきれぬほどの嵩があった。
その隣。権爺の教えを守った者たちの田は、静かであった。
夏の長雨に根を腐らせた稲はほとんどが鋤き返され、わずかに残った株が力なく垂れている。
その代わりに、畝の間には青々とした大豆の葉が、秋の日差しを受けて茂っていた。
稲作では負けた。
だが、次の冬を越すための、ささやかな希望であった。
沢西村の名主・源吾と、その息子・彦太が、その光景をじっと見つめていた。
彦太の目が、驚きに見開かれている。
「おっとう……これが」
源吾は答えなかった。ただ、深く、重い頷きを返す。
言葉は、もはや不要であった。地の審判は、下されたのだ。
◇◇◇◇
その夜、村の寄合が開かれた。
いつものように、権爺の家の土間である。だが、そこに漂う空気は、これまでとはまるで違っていた。
誰も、口を開かない。囲炉裏の火がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、権爺がゆっくりと立ち上がった。
その手には、長年、彼の権威の象徴であった樫の杖が握られている。磨き込まれ、黒光りする杖だ。
権爺は、よろめくような足取りで、輪の中心に座る朔の前へと進んだ。村人たちの息を呑む気配がした。
権爺は、何もいわなかった。ただ、深く刻まれた皺の奥にある目で、じっと朔を見つめる。
その目には、もはや怒りも、憎しみもなかった。あるのは、己が信じた神仏と、先祖代々の教えが砕け散ったあとの、がらんどうの虚無だけである。
ゆっくりと、権爺は膝をついた。そして、両手で杖を捧げ持つと、静かに朔の前に差し出した。
それは、儀式であった。水江村の古い魂が死に、新たな掟が生まれるための、沈黙の儀式であった。
朔は、差し出された杖をすぐには受け取らなかった。
この樫の重みは、物理的な重さではない。村の全ての命の重みだ。これを受け取れば、もう後戻りはできない。
己の世界を壊された老人の絶望が、ずしりと肩にのしかかる。朔は、固く拳を握りしめた。
やがて、意を決し、その杖を両手で受け取った。
そのときだった。「朔は、えらくなったの?」おふみが、朔の袖をくいと引いた。
その場にそぐわぬ、子供の無邪気な声であった。朔は、おふみの問いに答えることができなかった。
権力とは、間を許さぬものらしい。
朔は、杖を傍らに置くと、集まった村人たちを見回した。
「皆に、聞いてもらいたいことがある」
声は、まだ子供のものだ。だが、その響きには、否応なく人を従わせるものがあった。
「これより、村の蔵とは別に、共有の備蓄蔵を建てる」
村人たちの間に、かすかな動揺が走る。
「今年の収穫から、俺のやり方に従った者たちは、その収穫高の一割を、この蔵に納めてもらう。強制だ」朔は、権爺に従った者たちの方へ目を向けた。
「お前たちは、免除とする。まずは、己の冬を越せ。だが、来年はないと思え」
「……そ、それは」
誰かが声を上げかけたが、弥平の鋭い視線に遮られた。
「これは、来年、再来年のための備えだ。飢饉は、まだ始まったばかりぞ」
朔の言葉は、静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「今年の豊作は、まぐれかもしれん。去年、一昨年のことを忘れたか。この凶作が、あと二年、三年と続けばどうなる」
朔は、土間の隅に座る彦太に目をやった。
「彦太に聞け。沢西では、食うものがなくなり、若い娘はみな売られたそうだ。餓死者も出たと」
その言葉に、彦太の顔がこわばる。俯いたその肩が、小さく震えていた。村人たちは、押し黙った。隣村の惨状は、噂以上に酷いらしい。朔の言葉に、誰も逆らえなかった。
惣村の合議は、この瞬間に死んだ。
朔を頂点とする、ただ一つの意思が、村を支配したのだ。
土間の隅で、文吾は、見たままを帳面につけた。
『……権爺、権威失墜。童子、事実上ノ名主トナル。共有備蓄蔵ノ建設、及ビ収穫ノ一割供出ヲ決定……』
この乾いた記録が、相沢玄蕃という男の中でいかに歪んで解釈されることになるか、それはまた、別の話である。
◇◇◇◇
その夜の夕餉は、朔の家でささやかに開かれた。
囲炉裏には、母のタエが炊き上げたばかりの新米の飯が、湯気を立てている。つやつと白く輝く米粒。甘い香りが、土間の隅々まで満ちていた。
沢西村から学びに来ていた彦太が、ごくりと喉を鳴らす。
「朔殿、これが……」
「ああ。今年の米だ」
そこへ、ひょろりとした影が差した。朽木玄斎であった。その手には、柳の枝に刺したままの川魚が五匹、ぶら下がっている。まだ、ぴくりと動いていた。
「ほう……。良い匂いがするな」
玄斎は、竹串に魚を刺し直すと、囲炉裏の灰に突き立て、どかりと腰を下ろした。じきに、ぱちぱちと小気味よい音と共に、魚の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。
椀によそわれた飯を、彦太が恐る恐る口に運んだ。途端に、その目が見開かれる。
「……あめえ。米が、こんなに甘えなんて」
あとはもう、夢中で飯をかき込んでいた。
タエが、味噌汁の椀を差し出す。具は、畑で採れた大根の葉ばかりだ。だが、今日の食卓では、それすらもご馳走であった。
朔は、黙って飯を食っていた。一粒一粒を、噛みしめる。甘い。
だが、その甘さの奥に、権爺の絶望した顔が浮かんで消えた。
玄斎が、焼き上がった魚を朔の椀の脇に置く。
「食え。腹が減っては、何もできぬ」
その言葉に、朔はただ、小さく頷いた。
囲炉裏の火が、四人の顔を暖かく照らしている。束の間の、静かな団欒であった。
◇◇◇◇
翌日、朔は彦太を連れて村はずれの雑木林に来ていた。
「彦太。お前たちの村の大豆が育つまで、まだ間がある。それまで、これで食いつなげ」朔は、足元に生える葛の蔓を指さした。「この根を掘り、よく叩き潰して布袋に入れ、水の中で何度も揉む。そうすりゃあ、白い粉が採れる。それを粥に混ぜろ」
次に、樫の木の下に転がる団栗を拾い上げる。
「こいつは、そのまま食えば腹を壊す。だが、何度も煮こぼすか、川の流れに二日も浸けておけば、毒が抜ける」
朔は、淡々と説明を続ける。
「蕨の根も同じだ。囲炉裏の灰を溶かした水に一晩浸けてから、よく洗って食え」
最後に、朔は畦道に咲く、赤い彼岸花を指した。
「こいつは、猛毒だ。だが、根をすり潰し、十日以上、毎日水を替えながら晒せば、命をつなぐ粉になる。だが、少しでもやり方を間違えれば、死ぬぞ。いいか、これは、他に何も食うものがなくなった時の、最後の知恵だ」
彦太は、言葉もなく頷いた。その目は、昨日までの純粋な憧れとは違う、生きるための知恵を必死に記憶しようとする、真剣な光を宿していた。
◇◇◇◇
数日後、朔は村で手先の器用な者たちを集めていた。
桶作りの真似事くらいはできる留吉も、その中にいた。彦太も、その輪の少し後ろで、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
朔は、地面に広げた図面を指し示した。
「これを作ってもらいたい」
それは、奇妙な絵図であった。釜の上に木の蓋が乗り、そこから竹の筒が伸びて、水を張った桶を通り、先の甕へと続いている。
「なあ、朔。こいつは一体、何に使うもんだ?」
留吉が、いぶかしげに尋ねた。
「薬草から、濃い汁を採るための道具だ」
朔は、こともなげに答える。
「この前の雲霞を覚えているな。我らの薬は、雨で流れた。だが、この道具で薬草を煮詰めれば、雨にも流れぬ、もっと強い薬が作れる。これがあれば、もう長雨を恐れることはない」
男たちの顔色が変わった。雲霞の恐怖は、まだ生々しい。
「まことに、そげなものが……」
「ああ。俺が保証する」朔の断言に、男たちはごくりと喉を鳴らした。
図面を眺めながら、朔は誰にともなく呟いた。
「この仕組みなら、粟からも強い酒が造れるな……銭になるかもしれん」その呟きを聞き咎める者は、誰もいなかった。
村が、一つの目的に向かって動き出す。
備蓄蔵の建設。そして、奇妙な釜の製作。
文吾は、その奇妙な釜作りを遠巻きに眺めていた。『また何か、まじないの道具か』相沢様には報告せねばなるまい。だが、これをいちいち絵図に描いて説明するのは骨が折れる。
「おい、童」
文吾は朔を呼びつけた。
「てめえが考えたものなら、てめえで書き記せ。文字は教えてやっただろう」
また仕事が増えるのはごめんだ、と顔に書いてあった。
◇◇◇◇
神崎の湊。煮売り屋の店先で、水江村から来た百姓が、見たこともないほど粒の揃った米を自慢げに広げていた。
その米を、値踏みするような目で見る男が一人。身なりの良い、切れ長の目をした男だ。腰に差した算盤だけが、使い込まれて黒光りしている。
行商人の、利吉であった。
その男が、水江村に姿を現した。
利吉は、抜け目のない商人の目で村の様子を窺った。
百姓たちが、子供の指図で、驚くほど統率された動きを見せている。蔵には、黄金色の籾が山をなし、戸口からあふれんばかりであった。
飢饉の気配が漂うこの摂津の国で、この村だけが異様な活気に満ちていた。そして、その中心にいるのが、あの童……。利吉の目が、値踏みするように細められた。
朔は、その視線に気づいていた。利吉が、村を見回し終え、自分の方へ向かってくる。
朔は、静かに声をかけた。
「あんた、銭の匂いがするな」
利吉の足が、ぴたりと止まる。
「もっと大きな儲け話に興味はないか?」
利吉の口の端が、わずかに上がった。




