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夏の審判

 天文七年、七月。


 雨は、まだ降りやまぬ。


 水江村みずえむらの低い土地に、空は容赦なく水を落とし続ける。


 茅葺きの屋根は重く水を吸い、軒先からは絶え間なく雫が落ちて、地面に無数の穴を穿うがっていた。


 道という道は、ことごとく泥濘ぬかるみと化している。


 雨を含んで黒々と重くなった土の匂いに、そこはかとなく酸っぱい腐草の匂いが混じる。


 ◇◇◇◇


 権爺ごんじいは、社の前で天を仰いでいた。数人の百姓が、後ろに控えている。


 降りしきる雨に打たれ、その声はかすれていた。

「氏神様……鎮まりたまえ……」


 供えた神酒は、とっくに雨水で薄まっている。

 か細く立ち上るはずの祈りの煙も、天に届く前に雨に叩き落とされていた。


 その様は、まるで天そのものが、人の祈りを拒絶しているかのようであった。


 ◇◇◇◇


 文吾ぶんごは、みのの下で小さく欠伸あくびをした。ああ、面倒だ。


 相沢玄蕃あいざわげんばに命じられ、このじめじめした村に常駐して、もう幾月になるか。彼の役目は、村を二分した田の様子を、ただ、ありのままに書き留めること。それだけだ。


 まず、権爺に従った者たちの田に目をやる。そこは、もはや田ではなかった。


 茶色く濁った水がよどみ、稲の株はほとんど水面の下に没している。かろうじて顔を出しているものも、その穂先は力なく垂れ、黄色く変色していた。


 根が、腐り始めているのだ。古くからの曲がりくねった水路は、この長雨の前では無力であった。


 文吾は、気だるげに筆を動かす。

「権爺方ノ田、長雨ニテ冠水。稲、大半根腐レ。収穫、見込ミ無シ」


 それから、彼は顔を上げた。畦道を一つ隔てた、もう一方の田を見る。


 その瞬間、文吾の眠たげな目が、わずかに見開かれた。


 そこには、信じがたい光景が広がっていた。稲が、青々と、天を突くように真っ直ぐに立っている。


 朔とかいう童が掘らせた「額縁明渠がくぶちめいきょ」と呼ばれる溝が、田の四方を囲む。余分な水は、よどむことなくその溝へと吸い込まれ、川へと静かに流れ去っていく。


 高温で発酵させたという、奇妙な匂いのする堆肥を鋤き込んだ土は、黒々と力を蓄え、稲の根をがっしりと掴んでいる。

 等隔に、どこまでも真っ直ぐに植えられた稲の列は、まるで武士の隊列のようであった。


 雨粒が、その青い葉の上で、玉のように転がっている。天を睨みつけるような、異様なまでの生命力に満ちた光景であった。


 文吾は、しばし言葉を失い、やがて淡々と筆を動かした。

「朔方ノ田、排水良好。稲ノ生育、順調。例年以上ノ収穫、見込マル」


 筆を収めようとした、その時だった。泥濘の向こうから、数人の男たちが現れた。水江村の者ではない。


 先頭を歩く男の、大地に根を張る樫の木のような体つきには、見覚えがあった。

 沢西村の名主、源吾げんごであった。普請役で泥にまみれた時とは違い、その顔には深い憂いと、疲れが刻まれている。


 その隣には、同じ年頃の童が一人。

 源吾の息子、彦太ひこたであろう。


 源吾は、文吾に気づくと、小さく会釈し、そのまま二つの田を見比べた。

 そして、言葉を失った。彼の村の田もまた、権爺の田と同じ地獄に沈んでいる。


 だが、目の前には、天の怒りをあざ笑うかのように、青々と茂る稲がある。


「おっとう!」

 彦太が、声を上げた。


「すごい!水江村の田は生きている!」

 その快活な声が、重い空気を震わせる。


 源吾は、ゆっくりと朔の田の方へ歩み寄った。

 その目に、かつての敵意はない。ただ、己の無力を噛しめる、深い絶望だけがあった。


 そのときだった。背後から、杖の音が聞こえた。


 振り返ると、権爺が立っていた。雨に濡れたその顔は、まるで土人形のように色を失っている。


 権爺もまた、同じ光景を見ていた。己が信じ、守り抜こうとしたものが、水に沈み、腐っていく。

 己が冒涜だと断じたものが、雨をものともせず、青々と実っている。

 そして、長年いがみ合ってきた隣村の名主までもが、その冒涜の産物の前に、教えを乞うように立ち尽くしている。


 権爺の手から、力が抜けた。彼の権威の象徴であったかしの杖が、ことり、と音を立てて泥の上に転がる。


 そして、権爺自身もまた、糸の切れた人形のように、静かに膝から崩れ落ちた。


 叫び声も、呻き声もなかった。ただ、彼の世界が崩れ落ちる、静かな音だけがした。


 ◇◇◇◇


 朔は、その光景を少し離れた場所から見ていた。

 青々と実る己の田から、ふと目をそむける。権爺が崩れ落ちた泥濘に、視線を落とした。


 一つの世界を、一人の人間の拠り所を、己の手で破壊してしまった。その重圧が、ずしりと肩にのしかかる。綺麗事では、誰も救えん。そう、言い聞かせるしかなかった。


「朔の田んぼ、すごいね!」


 不意に、後ろから明るい声がした。

 おふみだった。彼女の黒目がちな瞳は、政治も、信仰も、男たちの意地も映さない。ただ、青々と茂る稲の美しさだけを、ありのままに映していた。


「うん……」


 朔は、短く応えることしかできなかった。

 この少女の屈託のない笑顔こそが、自分が守ろうとしているものだ。

 だが、そのために払う代償は、あまりに大きい。


 ◇◇◇◇


 夕刻、ようやく雨が上がった。雲の切れ間から、弱々しい陽光が差し込む。

 村人たちの間に、か細く、しかし確かな安堵の空気が広がり始めた。


 その、束の間の静寂を破ったのは、物見櫓に立つ弥平の鋭い声だった。


「西だ!何か来るぞ!」


 朔は、櫓に駆け上がった。

 西の空に、小さな黒い染みのようなものが浮かんでいる。

 雨雲ではない。風向きに逆らい、不自然な速度でこちらへ近づいてくる。


 やがて、微かな羽音が聞こえ始めた。

 それは耳障りで不快な、集団的な羽音へと変わっていく。

 雲霞うんかだ。


 この地域で唯一の食料源、朔の奇跡の田を目指して飛来する、絶望の群れであった。


「薬を用意しろ!煙を焚け!」朔の号令が飛ぶ。


 村人たちは、事前に準備していたよもぎやどくだみなどを煮詰めたの薬液が入った桶を手に、一斉に防衛体制に入る。

 弥平の怒声が飛ぶ。


「煙をもっと焚け!奴らをいぶし出せ!」


 だが、その抵抗は、あまりに心もとなかった。長雨が、薬の効果をほとんど洗い流してしまっていたのだ。


 黒い雲が、田の一角に襲いかかる。じじじ、という無数の虫が稲を喰む音が、耳について離れない。


 鼻をつくのは、虫の放つ油のような匂いと、焚かれた湿った藁の煙、そして雨に洗われてほとんど消えかかった、かすかな蓬の苦い香りだった。


 半刻ほどであったろうか。幸いにも群れが小さかったことが、彼らを救った。

 雲霞は、やがて来た方角へと去っていった。


 だが、勝利の歓声はなかった。


 村の田の一角、およそ一反ほどが、生命力を失ったように変色している。

 壊滅は免れた。


 しかし、その勝利は痛々しい傷跡を伴う、不完全なものであった。


 ◇◇◇◇


 日が落ち、黄昏が村を包む頃、朔は一人、被害を受けた田の中に佇んでいた。

 害虫に養分を吸われ、萎びた一本の稲を手に取る。


 指で茎をこすると、雨で洗い流された薬の痕跡が、かろうじて感じられるだけだった。


「勝ち戦の味は、どうだ」


 いつの間にか、朽木玄斎くちきげんさいが隣に立っていた。

 酒の匂いが、ふわりと漂う。


「存外、苦いものだろう」


 朔は、視線を稲穂から動かさぬまま、呟いた。


「雨で薄まった。これでは、もっと大きな群れが来れば、ひとたまりもない」


 玄斎は、顎の無精髭を撫でた。

「……濃く、か」


 彼は、遠い昔を思い出すような目で、空を見上げた。


「昔、さかいの薬問屋で、妙な道具を見たことがある」


「道具?」


「ああ。『らんびき』とか言ったかな。異国の言葉らしい。樟脳しょうのうから油を採るのも、あれでやると聞いた」


 玄斎は、ゆっくりと、言葉を選ぶように続けた。

「煮詰めて、その湯気を冷やして雫を集める……。面倒な仕組みだがな」


 湯気を、冷やして、雫を集める。その言葉が、朔の脳裏に突き刺さった。


 蒸留。


 この時代の素材と技術で、果たして……。


 ◇◇◇◇


 権爺に従っていた百姓たちが、一人、また一人と、朔の前に集まり始めた。

 彼らは何も言わない。


 ただ、泥の上に膝をつき、深く、深く頭を垂れるだけだった。


 その静かな土下座の列が、水江村の新しい掟の始まりを告げていた。


 朔は、彼らに背を向けたまま、静かに言った。


「もう、稲は駄目だ。だが、まだ手はある」


 彼は、絶望に沈む者たちの方を振り返り、冷徹なまでに落ち着いた声で告げた。


「すぐに、田を鋤き返せ。大豆を植える」


 そこへ、源吾と彦太が、改めて歩み寄ってきた。


 源吾は、朔の前に進み出ると、深く、その場に膝をついた。


「朔殿、と申されたか」


「その知恵、我らの村にも、分けてはくれまいか」


 彦太も、父の隣で懸命に頭を下げる。


「お願いだ、朔殿!おっとうを、村を助けてくれ!」


 朔は、源吾の目を見た。それから、真っ直ぐな彦太の目を見た。

「あんたの村も、もう稲は諦めろ」静かに、だが、はっきりと言った。


「……だが、まだ手はある。うちの村と同じことをするというのなら、やり方は教えてやる」


 それは、単なる代替作物ではない。

 大豆は、痩せた土地に力を与え、来年の稲作へと繋ぐための、未来への種蒔きであった。


 その時、百姓たちの壁が、静かに左右に割れた。中から、権爺が姿を現す。杖を引きずり、ゆっくりと、一歩一歩、朔の方へ近づいてくる。


 その目に、もはや敵意はなかった。ただ、すべてを失った者の、深い絶望の色だけが浮かんでいた。

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