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土の掟、人の掟

 普請役ふしんやくが終わった。


 水江村みずのえむらの空気は、湿った土の匂いと、男たちの疲労とで、重くよどんでいる。村境に、新しい堤が横たわっていた。沢西村さわにしむらの者たちと、いがみ合いながらも築き上げた、泥の壁だ。川の脅威は、ひとまず去った。だが、村人たちの心に刻まれた亀裂は、乾くことを知らぬ。


 その夜、村で一番大きな百姓家の土間に、寄合よりあいがかかった。囲炉裏いろりの火が、男たちの顔を、赤黒く照らし出す。弥平やへいは、固い表情で膝を抱えていた。その目には、かすかな期待と、それを上回る不安の色が浮かぶ。古参の百姓たちは、腕を組み、疑い深い目で一点を見つめていた。


 その視線の先に、権爺ごんじいが座している。名主の座を追われた老人は、ただ黙って、己の樫の杖に置いた節くれだった手を見つめていた。もはや、この場を差配する力はない。だが、その存在は、見えぬ重石のように、寄合の空気を支配していた。


 皆の視線は、もう一人にも注がれている。さくであった。普請役の一件以来、この十一歳の童は、もはやただの子供ではない。ある者にとっては希望であり、ある者にとっては、得体の知れぬ畏怖の対象であった。


 朔は、その視線を一身に受けながら、静かに座っていた。彼の小さな肩に、相沢玄蕃あいざわげんばが課した「一割増収」という掟が、ずしりと重くのしかかっている。あれは、頼みではない。領主という、人の世の力が定めた、逆らうことのできぬ掟であった。


 朔は、ゆっくりと立ち上がった。土間の真ん中へ進み出る。童の声であった。だが、その声には、奇妙なほど揺らぎがない。


「相沢様の言いつけは、果たさねばなりますまい」


 寄合が、始まった。


 ◇◇◇◇


 子供の声は、場違いなほど澄んでいた。古参の百姓の一人が、吐き捨てるように言った。

「童に何が分かる。天に唾するような話だわ」


「相沢様が課した一割増収。これを成し遂げる手立ては、三つある」


 朔は、淡々と語り始めた。それは、村の者に何かを乞う声ではなかった。ただ、そこにある道を、指し示すだけの声であった。


「一つは、土の力を取り戻すこと」

 朔は、指で土間に円を描いた。


「我らは、力を捨てておる。牛馬の糞も、山の落ち葉も、便所の肥やしさえも。これらは皆、土が喜ぶ飯になる。村中の、人の糞尿ふんにょう、家畜の糞、刈った草、わら。それらを村はずれに集め、高く積み上げる。これを『堆肥たいひ』という」

 どよめきが、起こった。糞尿を肥やしにすることは、知られていないわけではない。だが、村中の不浄を一つに集め、山にするなど、聞いたこともない。


「正しく積めば、この山は己で熱を発するようになる。冬でも、湯気が立つほどの熱だ。この熱が、糞尿の穢れを浄化し、土を肥やす、この上ない薬に変えるのだ」


 朔の言葉は、百姓たちには、まるで妖術の話のように聞こえた。土が、己で熱を発する。その不気味な響きに、幾人かが顔を見合わせる。


「二つ目は、長雨への備え」

 朔は、構わず続けた。


「このところ、雨が多い。水はけの悪い田では、稲の根が腐ってしまう。ゆえに、田の周りに溝を掘る。これを『額縁明渠がくぶちめいきょ』という。あぜに沿って溝を巡らせることで、田に溜まった余分な水はそこへ流れ、速やかに排水できる。これで、根腐れの心配はなくなる」


「三つ目は、植え方だ」

 朔は、土間に指で、等間隔の点を描いてみせた。


「今は、ただ無作法に苗を植えている。これでは、稲同士が邪魔をしあい、日の光も、土の養分も、奪い合うことになる。これを改め、縄を張り、真っ直ぐな線に沿って、等間隔に植える。これを『正条植せいじょううえ』という。無駄がなくなり、収穫は必ず増える」


 堆肥。額縁明渠。正条植え。


 三つの策は、互いに繋がり、一つの仕組みとなっていた。それは、神仏に祈る農耕ではなかった。土を、水を、そして稲の育ちを、人の知恵で差配しようという、恐れを知らぬ挑戦であった。村人たちは、ただ呆然と、その言葉を聞いていた。朔が語る理屈は、彼らが先祖代々受け継いできた、土との関わり方とは、あまりにも異質であったからだ。


 ◇◇◇◇


 その光景が、ふいに、陽炎かげろうのように揺らいだ。


 朔の目の前にいるのは、薄暗い土間に座る、水江村の百姓たちではない。肌を焼くような、強い日差し。乾いた、赤い土の匂い。シエラレオネの、小さな村であった。


 自分は、田中健司たなかけんじだった。日に焼けた首に、汗が光る。目の前には、現地の農民たちが、熱心な眼差しで自分を見上げていた。言葉は違う。だが、語っていることは、今と全く同じであった。堆肥の作り方。間を開けてに苗を植えることの意味。一つの技術パッケージとして、彼らの未来を作るための、知恵として。


 あの時の自分は、笑っていた。心からの、笑顔であった。熱意に満ちていた。


『これは、皆さんの未来を作るための技術です』そう、語りかけた。『私が決めるのではない。皆で話し合い、皆でやり方を決め、皆で汗を流すのです』


 住民参加。コミュニティ開発。それが、田中健司という男の、信条であった。


 その記憶が、刃となって、今の朔の心を抉る。今の自分は、どうだ。

 村人たちの合意を得ようとしているのではない。

 相沢という、領主の権威を盾に、この改革を力ずくで押し通そうとしている。

 村を救うため。その目的のために、かつての自分が最も忌み嫌った、トップダウンの圧政者の論理に、己の身を委ねている。


 痛いほどの断絶が、理想と現実の間に、黒く、深く、横たわっていた。


 ◇◇◇◇


「……馬鹿を申せッ!」


 権爺の、咆哮であった。その声は、恐怖と怒りで震えていた。老人は、がたりと音を立てて立ち上がると、樫の杖を土間に、力任せに叩きつけた。どん、と鈍い音が響く。


「熱だと?土が己で熱を発するだと?それは不浄の熱じゃ!土地の神の怒りを招く、不吉な行いだ!」


 権爺の抵抗は、単なる古老の頑固さからではなかった。

 その目の奥に、若い頃に味わった、神仏の怒りへの、根深い恐怖が宿っていた。


 新しいやり方を試み、村に災厄を招いた、あの日の記憶。朔が語る「不自然な熱」は、その古傷を、容赦なく抉り出したのだ。


「田の周りに溝を掘るだと?先祖代々受け継いできた、この田の顔に、人が勝手に刃を当てるというか!土地の神への冒涜ぼうとくも、甚だしいわ!」


 権爺の言葉は、理屈ではなかった。魂の叫びであった。彼が信じる、土の掟。

 人が決して踏み越えてはならぬ、神聖な領域。それを、この童は土足で踏み荒らそうとしている。権爺には、そうとしか思えなかった。


 その叫びは、古参の百姓たちの心に、深く響いた。そうだ、その通りだ、と声が上がる。寄合は、割れた。朔の策に、生き残るための理を見る若者たちと、権爺の言葉に、神の祟りを恐れる年寄りたち。怒号が、飛び交い始めた。


 ◇◇◇◇


 そのときであった。す、と戸が開き、一人の男がぬらりと入ってきた。相沢玄蕃であった。供の者を二人、背後に控えさせている。いつからそこにいたのか。男は、紛糾する寄合の様子を、冷たい目で値踏みするように見ていた。


 相沢の姿に、百姓たちの声が、ぴたりと止んだ。惣村の自治など、この男の前では、児戯じぎに等しい。


 相沢は、ゆっくりと土間の中央へ進み出た。その目は、権爺と朔を、代わる代わるに見ている。


「……面白いことを、言っておるな」

 相沢は、扇子で己の肩を軽く叩きながら言った。


「だがな、爺。お主らの神が、腹の足しになる米をくれるのか」

 その声には、侮蔑の色が隠されていなかった。


「わしが聞いているのは、戦の話だ」

 相沢の声が、一段、低くなった。


細川右京大夫ほそかわうきょうのだいぶ様は、氏綱うじつなの若造との新たな戦で物入りでな。伊丹家いたみけも忠誠を示さねばならん。これは頼みではないぞ」

 畿内を揺るがす、大きな権力同士の争い。

 その現実が、小さな村の寄合に、冷たい影を落とす。


 相沢は、言った。「どちらの言い分にも、理がある。……ならば、結果で示せ」その目は、笑っていなかった。「秋の収穫、多い方を正義とする」


 裁定は、下された。「この村の田を、二つに分ける。半分は、権爺、お主らのやり方でやれ。残りの半分は、童、お主の好きにしろ。どちらが伊丹家の役に立つか、この相沢玄蕃が、しかと見届けてやる」


 それは、村の暮らしを、残酷な見世物にするに等しい命令であった。人の掟が、土の掟を、力でねじ伏せた瞬間であった。もはや、誰一人、異を唱える者はいなかった。村の分裂が、決まった。


 ◇◇◇◇


 寄合は、終わった。だが、本当の亀裂は、そこから始まった。


 弥平が、黙って立ち上がり、朔の隣に立った。先の洪水で、雲霞(うんか)の被害が大きかった者たちが、それに続く。藁にも、すがる思いであった。古参の百姓たちは、吐き捨てるように舌打ちをすると、権爺の周りに集まった。


 口をきく者は、いない。昨日までの隣人が、まるで不浄なものでも見るかのような目で、互いを見ている。


 朔に従う者たちは、さっそく村はずれの広場に、巨大な堆肥の山を作り始めた。藁を敷き、草を運び、家々から集めた糞尿をかける。その異様な光景を、権爺に従う者たちは、遠巻きに、忌々しげに見つめていた。


 朔派の田では、縄と木枠が持ち込まれ、慣れぬ手つきで、田に真っ直ぐな線が引かれてゆく。その奇妙な作業を、旧来の田の者たちは、ただ黙って見ていた。


 家族が、割れた。兄弟が、口をきかなくなった。村の和は、完全に失われた。


 ◇◇◇◇


 夜であった。朔は、一人、村のはずれにある空き家の前に立っていた。


 逃げ出した吉蔵きちぞうの家だ。先の洪水は、川べりにあった朽木玄斎くちきげんさいの粗末な小屋を、跡形もなくさらい去った。隣村との諍いを収めてくれた恩義からか、村の者たちが、この空き家を牢人の新たなねぐらとして与えたのである。


 月明かりが、二つに分かたれた田を、冷ややかに照らし出している。自分の策が、村に刻み込んだ、深い傷跡のようであった。


 背後に、音もなく人の気配がした。朽木玄斎であった。牢人は、何も言わず、朔の隣に立った。その手には、いつもの瓢箪が握られている。


「……くだらん顔をしておるな」

 玄斎は、酒に焼けた声で、ぽつりと言った。


 朔は、答えなかった。ただ、じっと、己の小さな拳を見つめている。


「虎の威を借りて、狐が踊るか。上出来だ」

 玄斎の言葉には、かすかな皮肉の色が滲んでいた。


「気に食わんか。己のやり方が」


 朔は、唇を噛んだ。その肩が、わずかに震えている。

「……昔、俺が知っていたやり方とは、違う」絞り出すような声であった。


 玄斎が、ぴたり、と動きを止めた。瓢箪を口に運ぼうとしていた手が、宙で止まる。その鋭い目が、じっと朔の横顔を射抜いた。


「……昔、だと?」

 低い、しゃがれた声であった。


「お主の言う『昔』とは、いつのことだ。何の話をしておる」


 朔は、息をのんだ。核心を突かれ、言葉に詰まる。握りしめた拳に、ぐっと力が入った。


「……お主、一体何者だ」


 玄斎の問いは、静かであった。だが、その静けさこそが、刃のように鋭く、朔の正体に迫っていた。沈黙が、二人の間に落ちる。風の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「……ただの、百姓の子だ」

 それが、朔に言える、全てであった。


 玄斎は、何も言わなかった。ただ、ふ、と長い息を吐くと、

 止めていた手を動かし、酒を一口、呷った。それ以上は、何も問わなかった。


「……まあ、よい」

 玄斎は、呟いた。


「どこの誰であろうと、今のお主は、この村の童よ。そして、昔話など、腹の足しにもならん」

 その言葉は、冷たく、そして真実であった。


「生きるか死ぬかだ。綺麗事では、米は食えんぞ」

 玄斎は、続けた。


「だがな、童。お主のやり方は、必ず敵を作る。事を構えた以上、結果で示すしかあるまい。それ以外に、道はない」


 その言葉は、刃のように、朔の胸に突き刺さった。そうだ。もう、後戻りはできぬ。理想を語る資格など、とうに失った。今はただ、この村を、生き残らせる。そのために、己の手を汚す。


 玄斎は、黙って、己の瓢箪を朔の前に差し出した。かすかに、酒の匂いがした。


「……飲め」


「……」


「まず、腹を温めろ。戦は、それからだ」


 朔は、その瓢箪を、黙って見つめていた。月は、何も語らない。ただ、二人の男の影を、長く、長く、地に伸ばしているだけであった。


 ◇◇◇◇


 月が、のぼっていた。白々とした光が、二つに分かたれた田を照らし出している。


 片方は、見慣れた、雑然とした田植えの跡。もう片方は、まるで算盤の珠を並べたかのように、苗が整然と植えられた、実験田。


 その傍らで、村はずれに作られた巨大な堆肥の山が、黒い影となって横たわっていた。その頂から、ゆらり、と陽炎のような湯気が立ち上っている。月明かりの下、それはまるで、土そのものが不気味な息を吐いているかのようであった。


 土が発する熱と、二つに分かたれた田の姿。

 それは、水江村に走った亀裂の深さを、ただ静かに、物語っていた。

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