泥の同盟
天は、泣き続けていた。
天文七年(1538年)の四月。春の長雨というには、あまりに執拗であった。
降りそそぐ雨粒は、茅葺きの屋根を叩き、土を穿ち、人の気力までも削いでゆく。
水江村と沢西村の者たちは、言葉少なになっていた。
仕事にならぬからではない。目の前に、死の気配が満ちているからだ。
両村の境を流れる川が、牙を剥き始めていた。いつもは村に恵みをもたらす川だ。
それが今は、赤黒い泥を巻き上げ、ごうごうと不気味な唸りをあげている。
まるで、腹を空かせた大蛇が、土の堤という檻の中で身悶えしているかのようであった。
最も危ういのは、川上にある沢西村寄りの堤であった。そこが決壊すれば、まず沢西の田畑が濁流に呑まれ、勢いを増した奔流は、下流の水江村をも一瞬にして押し流すだろう。
弥平が、川べりに立っていた。雨が、その岩のような頰を叩く。
彼は、堤に手を触れた。指先に、じわりと水が滲む。もはや、ただの土の塊ではない。
水を吸い飽きた、重い海綿だ。いつ、崩れてもおかしくはない。弥平は、固く唇を結んだ。
村のあちこちで、人々が天を仰いでいる。なすすべもなく、ただ己の無力を噛みしめるばかりであった。惣村の自治も、古老の知恵も、この天の怒りの前では、子供の戯言にも等しい。
◇◇◇◇
土煙をあげて、一騎の馬が駆けてきた。いや、土煙ではない。泥飛沫だ。
馬上の男は、伊丹城の役人、相沢玄蕃であった。
相沢の顔は、青ざめていた。いつも口元に浮かべている卑屈な笑みは消え、焦燥と苛立ちだけが浮かんでいる。供の足軽を二人だけ連れ、まるで何かに追われるように駆け込んできたのだ。
軒下で雨を避けていた文吾が、その姿を見て、慌てて駆け寄る。
「相沢様!お待ちしておりました!」
文吾の顔も、雨のせいか、焦りのせいか、ぐっしょりと濡れていた。
「状況はどうだ!」
「はっ。川の水嵩は増すばかり。沢西村寄りの堤が、いつ崩れてもおかしくありませぬ」
相沢は、舌打ちをすると、馬から転がり落ちるように下りた。先日の、朔の言葉が、彼の耳の奥で鳴り響いていた。
『年貢米を積んだ舟も、難儀しよりますな』
あの童は、この事態を見越していたのだ。
そして、この災厄が、わし自身の首を絞める刃となることを、暗に告げていた。
相沢は、その場にいた弥平と、沢西村の村長・源吾の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで叫んだ。
「何をしておる!ぼうっと川を眺めている場合か!まず貴様らの村から沈むのだぞ!」
源吾は、悔しげに唇を噛んだ。
「相沢様。なれど、これだけの水嵩では、我らだけでは……」
「黙れ!」
相沢は、一喝した。
「人手が足りぬだと?ならば、両村でかかれ!これは公儀の命令である!逆らう者は、謀反人と見なすとな!」
両村の者たちの顔がこわばった。水利を巡り、長年いがみ合ってきた。先だっては、種籾を巡って刃傷沙汰にまでなった。その者たちと、肩を並べて働けというのか。
だが、相沢の目には、狂気に近い光が宿っていた。主家の財政が逼迫し、三好の力が日に日に増してゆく中、この地からの年貢だけが頼みの綱なのだ。この堤が決壊すれば、己の役人生命も終わる。彼は、村人の感情など、知ったことではなかった。
◇◇◇◇
作業は、すぐに始まった。
杭を打ち、土嚢を積む。
単純な力仕事だ。だが、そこには絶望的なまでに協調というものがなかった。
水江の者たちと、沢西の者たち。互いに背を向け、まるで相手が存在せぬかのように黙々と手を動かす。
言葉を交わす者は、いない。
ただ、石を運ぶ足が滑り、泥水が相手の着物にかかった時など、獣のような鋭い視線が交わされるだけだ。
「ちっ、邪魔だてしやがって」
「そっちこそ、のろくさいわ」
吐き捨てるような声が、雨音に混じって聞こえてくる。
長年の恨みは、泥水よりも深く、濁っていた。弥平と源吾は、それぞれ己の村の者たちをまとめようとするが、敵意に満ちた空気はどうにもならぬ。これでは、仕事がはかどるはずもなかった。
相沢は、苛立たしげにその様子を見ていたが、彼にこの場の空気を収めるだけの器量はない。ただ、怒鳴りつけるだけだ。
「手を動かせ、愚図どもが!」
その横で、文吾が気だるそうに付け加える。
「聞こえなかったのか。お役人様のお言葉だぞ」
雨に濡れるのが心底嫌だ、という顔をしていた。
そのときであった。
朔が、ぬかるみをものともせず、相沢のもとへ歩み寄った。
「相沢様」
「……なんだ、童」
「このままでは、昼までに堤は決壊いたします」
相沢の顔が、さっと青ざめた。朔は、続けた。「私に、采配をお任せ願いたい」
相沢は、一瞬、十一歳の童の言葉にためらった。
だが、背後で崩れる土の音と、眼前に迫る己の破滅を天秤にかけ、決断した。
「……好きにしろ!だが、もししくじれば、お主の首はないものと思え!」
「御意」
朔は、短く応えると、堤の上に立った。そして、腹の底から、声を張り上げた。
「皆、手元の仕事をやめい!」
男たちが、いぶかしげに朔を見る。その視線には、侮りと不信が入り混じっていた。
「川を見ろ!」
朔の声が、雨音を裂いた。
「あの川は、お前が水江の者か、沢西の者か、見分けはつけぬ!この堤が切れれば、皆、等しく死ぬだけだ!」
短い言葉だった。だが、それは男たちの胸に突き刺さった。
朔は、相沢に向き直った。
「相沢様。この普請が終われば、両村の者たちに、粥の炊き出しをお願いしたい。同じ釜の飯を食えば、遺恨も少しは薄れましょう」
相沢は、一瞬、ためらった。だが、この童の差配がもたらす結果を目の当たりにし、頷いた。
「……よかろう。公儀からの下げ渡し、ということにしてやる」
その言葉が、男たちの耳にも届いた。共通の目的。そして、共通の報酬。凍りついた憎しみが、泥水の中で、わずかに溶け始めていた。
◇◇◇◇
「これより、組分けを行う!」
朔は、構わずに続けた。彼は、水江村の者と沢西村の者を指差しながら、次々に新しい組を作っていく。杭を打つ者、土嚢を作る者、それを運ぶ者。それぞれの組は、二つの村の男たちが混ざり合うように分けられた。
「何を……」「なぜ、あいつらと」不満の声が上がる。
だが、その声を、相沢の怒声がかき消した。
「黙れ!この童の指図に従えぬ者は、斬る!」
相沢の抜き身の刀と、刻一刻と迫る川の脅威。その二つの力の前で、村人たちの長年の反目は、いやおうなくねじ伏せられた。
「土嚢作りは流れ作業だ!」
朔は、具体的な指示を飛ばし始めた。
「土を掘る者、袋に詰める者、口を縛る者、運ぶ者!それぞれ列を作れ!一列に並んで、土嚢を次へ次へと手渡していくのだ!」
無駄な動きを徹底的に省いた、人の流れそのものを仕組みとするやり方であった。
「杭を打つ者は、ただ打つな!竹で編んだ蛇籠に石を詰め、それを杭の間に沈めろ!土だけの堤より、遥かに強い骨になる!」
それは、この時代の百姓が知る、ただ土を固めるだけの工法とは全く違う、知識の差であった。
作業は、苛烈をきわめた。雨に打たれ、泥にまみれ、男たちは獣のように働いた。
やがて、最初の蛇籠が編み上がった。割り竹で編まれた、巨大な円筒だ。男たちが、次々と川原石を放り込んでいく。石を満載した蛇籠は、おそろしく重い。
弥平が、水江村の若い衆を率いて、片側にかじりつく。だが、びくともしない。男たちの足が、ぬかるみに沈んでゆく。
そのときであった。対岸で作業をしていた沢西村の村長・源吾が、それを見ていた。源吾は、何もいわなかった。ただ、顎で、己の村の者たちに合図を送る。
沢西の男たちが、蛇籠のもう一方へと殺到した。水江も、沢西も、ない。ただ、一つの蛇籠を担ぐ、泥まみれの男たちがいるだけだ。
「……せええのっ!」弥平が、声を張り上げる。
男たちの筋肉が、一斉に盛り上がった。蛇籠が、ゆっくりと持ち上がる。そして、濁流が渦巻く堤の根元に、ずしりと沈められた。ごぼり、と鈍い音を立て、川の流れが明らかに弱まる。
汗と、雨と、泥。その中で、弥平と源吾の目が、合った。言葉は、なかった。ただ、互いに、かすかに頷いてみせた。それは、友情でも、信頼でもない。同じ地獄を味わう者同士の、泥にまみれた目礼であった。
◇◇◇◇
その日の夕刻。川の水位が、ついに頂点に達した。みしみしと、堤がきしむ。男たちは、息を殺して、その一点を見つめた。
ごう、という音とともに、堤は大きく揺れた。だが、持ちこたえた。決壊も、越水も、なかった。男たちの口から、安堵とも疲労ともつかぬ、長いため息が漏れた。
村の壊滅という、最悪の事態は免れたのだ。
約束の、炊き出しであった。女衆が、大きな鍋をいくつも運んでくる。湯気の立つ、熱い粟粥だ。
男たちは、泥の上に、ただ座り込んだ。水江も、沢西もなかった。同じ椀を受け取り、同じ粥をすする。
冷えきった体に、熱い粥が染み渡った。塩の味が、やけにうまかった。誰も、口をきかなかった。ただ、ず、ず、と粥をすする音だけが、雨上がりの静けさに響く。
弥平は、椀を空にすると、ふと隣を見た。沢西村の源吾が、同じように粥を食っている。目が合った。源吾は、すぐに視線をそらしたが、その目から、先刻までの刺々しい光は消えていた。
朔の采配は、二つの村を救った。
相沢玄蕃は、その光景を冷ややかに見下ろしていた。彼の計算高い頭は、すでに次の手を読んでいた。この童の能力は、本物だ。利用できる。
相沢は、泥まみれの男たちの前に進み出た。
「見事であった!貴様らの働き、殿も必ずやお喜びになろう!」
そして、彼は宣言した。
「じゃが、これでは根本の解決にはならぬ。よって、主家のお沙汰として、水江、沢西の両村に、正式な『普請役』を申し付ける!より強固な堤を、貴様らの手で築き上げるのだ!ありがたく思え!」
それは、拒むことのできぬ、領主からの絶対命令であった。強制された、共同作業の始まりである。
弥平と源吾が、並んで立っていた。二人とも、乾きかけた泥で、同じ色をしていた。彼らは、互いを見なかった。ただ、目の前に広がる、守り抜いた田畑を、同じ目で見つめていた。
打算と、共感。そして、共有された安堵。言葉にならない約束が、二人の間に交わされる。
普請は、やがて終わるだろう。堤は、以前より強固になるに違いない。だが、その先には、相沢が課した「一割増収」という、あまりにも重い現実が待ち受けている。
泥の中で生まれたかすかな絆は、この現実を乗り越えるための、脆く、しかし唯一の同盟であった。




