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虎の威

【これまでのあらすじ】国際協力機構(JICA)の隊員だった俺は、事故死を経て戦国時代の少年・朔に転生。未来の知識で村の窮地を救おうとするが、十歳の童の言葉は因習に縛られた村では妖術と見なされ、孤立を深める。「見られるな、知られるな、目立つな」と己を律するも、幼馴染の窮地を救うため掟を破ってしまう。その「小さな善意」は、害虫を隣村へ追いやることで壊滅させ、村には嫉妬と憎悪の亀裂を走らせた。母からはその力を恐れられ、寄合では「和を乱す毒」と断罪される。さらに、飢えた隣村との諍いでは、負傷者を敵味方なく手当てする常識外れの行動と冷徹な論理で、旧来の村の秩序を内側から崩壊させてしまう。その一連の騒動は、百姓の密告により領主の役人・相沢玄蕃の知るところとなる。貪欲な相沢は、朔の知識に価値を見出し、利用しようと企む。

 二月の空は、いつも鉛を溶したように重い。北風が、枯れた蘆の穂を鳴らして吹き抜けてゆく。


 水江村みずのえむらは、静かであった。先の一件以来、村を覆う空気は、薄い氷のように張りつめている。


 異変に気づいたのは、弥平やへいであった。吉蔵きちぞうの家だ。この二、三日、あの家から煙が立ちのぼるのを見ていない。戸口の前に積もった雪も、踏み荒らされた跡ひとつなかった。


 村八分。惣村そうそんの裁きは、そういうことであった。それだけだ。言葉を交わすことも、火を分け与えることも許されぬ。当然、粟の施しも無くなった。


 異変に気づいたのは、弥平やへいであった。吉蔵きちぞうの家だ。この二、三日、あの家から煙が立ちのぼるのを見ていない。戸口の前に積もった雪も、踏み荒らされた跡ひとつなかった。


 その日の昼過ぎ。権爺ごんじいの家の戸を、村の若い衆が叩いた。

 「……吉蔵の家の戸が、開けっぱなしになっとります」


 権爺は、何もいわなかった。ただ、黒光りする樫の杖を手に、ゆっくりと立ち上がった。


 吉蔵の家は、がらんどうであった。囲炉裏いろりの灰は、とうに冷えきっている。土間の隅に、空になった粟俵が一つ、転がっているだけだ。


 人の気配は、どこにもない。ただ、戸口から雪の吹きこむ先に、一つの足跡がのこっていた。村から出てゆく、ただ一つの足跡。それは、雑木林の方角へ向かい、やがて降り積もる雪の中に、吸いこまれるように消えていた。


 誰も、何もいわなかった。吉蔵がどこへ行ったのか、生きているのか死んでいるのか、それを確かめようとする者もいない。ただ、村という生き物が、己の身を守るために、一つの指を切り落とした。そういうことであった。


 冷たい風が、空っぽの家の中を吹き抜けていった。


 ◇◇◇◇


 その日、相沢玄蕃は、再び村へやって来た。供の足軽は二人だけ。そのうちの一人は、どこか眠たげな目をした、文吾ぶんごという若い男であった。


 相沢は、馬を下りると、名主であった権爺ごんじいには目もくれず、まっすぐに朔の前に立った。その痩せた頬はこけ、落ち着きのない目が、いらだたしげに動いている。


わらべ


 相沢は、吐き捨てるように言った。


「話がある。権爺、お主も聞け」


 名主の家の土間に、朔と権爺が座らされる。相沢は、胡座あぐらをかくと、苛立ちを隠そうともせず、懐から扇子を取り出してぱちりと開いた。


「……三好みよしの若造どもが、畿内で好き放題やりおるわ」


 唐突な言葉であった。


「おかげで、当家うち伊丹家いたみけ)の台所は火の車よ。いつ戦支度いくさじたくをせねばならんか、分かったものではない」


 相沢の言葉は、独り言のようでもあり、脅しのようでもあった。彼の背後にある、主家の財政難という切迫した事情が、その言葉の端々から滲み出ている。


 権爺は、ただ黙ってこうべを垂れていた。村の差配を奪われ、その権威は地に落ちている。この男の前では、もはや一介の年寄りにすぎなかった。


 相沢の視線が、値踏みをするように朔を射抜く。


「主家も、財政が厳しい。そこでじゃ」


 相沢は、扇子を閉じると、その先でとん、と土間を突いた。


「この度のこと、大和守やまとのかみ様はことのほかお喜びである。ついては、この水江村に、来年より年貢を『一割増し』で納めるよう、お沙汰が下った。名誉なことと思え」


 有無を言わさぬ、厳命であった。


「な……!」


 権爺が、かろうじて声を絞り出す。「七公三民と仰せられますか!それでは、我々は冬を越せませぬ!」


「黙れ」


 相沢は、権爺の言葉を冷たく遮った。


「できぬ、ではない。やるのだ。お主らには、この童の知恵があろうが。収穫を増やし、これまで以上の米を手元に残してみせよ。さすれば、お主らの暮らしも楽にしてやろう。これは、お主らにとっても悪い話ではあるまい」


 甘言を弄した、事実上の脅しであった。相沢は、朔に目を戻す。


 そして、背後に控えていた文吾に顎をしゃくった。


「それから、こやつだ。名は文吾ぶんごという。この村に常駐させ、かの童の知恵を、お家のために記録させる。よいな」


 文吾と呼ばれた男は、常に眠たげな目を気だるそうに一度またたかせ、小さく頭を下げた。

 きちんと剃られてはいるものの青々とした月代と、指先にこびりついた墨の跡が、彼の役目を物語っている。

 その男の存在そのものが、この村が自治を失い、檻に囚われたことを示す、動かぬ証であった。


 ◇◇◇◇


 文吾に与えられたのは、村の空き家の一つであった。男は、着任したその日から、あからさまな怠惰を隠そうともしなかった。彼の仕事は、朔の持つ知識――虫除けの薬の製法や、収穫量を上げるための工夫――を聞き取り、書面にまとめることである。


「さて、童。さっさと話せ。俺は、日がな一日こんな百姓仕事に付き合うほど暇ではないのでな」

 文吾は、あくびを噛み殺しながら言った。その目は、朔をただの面倒な仕事道具としか見ていない。


 文吾は、筆に墨を含ませると、紙の上端にすらすらと文字を書いた。「覚え書。天文七年、三月……」


 その文字を、朔は横から食い入るように見つめていた。(天文……七年)


 脳裏で、何かが音を立てて繋がった。前世で読んだ、歴史の書物。そこに記されていた、不吉な年号。天文の飢饉。それは、天文九年に畿内を襲った、地獄そのものであった。


(二年……)


 二年しかない。あと二年で、この国は飢えと死の巷と化す。朔の背筋を、冷たいものが走った。


「おい、聞いているのか」文吾の、苛立った声が飛ぶ。朔は、はっと我に返った。


「……へい」


 朔は、口を開いた。だが、彼が語り始めたのは、単なる薬の作り方ではなかった。「まず、土の話から始めねばなりますまい。この村の土は粘り気が強く、水を含みやすい。されど、水が抜けねば稲の根が腐ります。ゆえに、砂を混ぜ、枯れ草を鋤き込むことで、土の中に空気の通り道を作ってやらねば……」


 朔は、前世の知識を、この時代の百姓にも理解できる言葉に翻訳して語り続けた。土壌改良の原理、輪作がなぜ土地を痩せさせないのか、そして雲霞うんかという虫の習性と、よもぎの持つ苦みが、いかにして虫の食欲を失わせるのか。


 文吾の筆が、次第に遅れていく。はじめは気だるそうに筆を走らせていたが、やがてその動きは完全に止まった。彼は、足軽としての読み書きと算盤はできたが、それはあくまで定型的な帳簿付けのための技術だ。十一歳の童が語る、体系的で、相互に関連し合った複雑な理屈を、正確に文章化する能力など持ち合わせてはいなかった。

「……まて。今、何と言った」「ですから、虫にも好みの味と、そうでない味がある、と」「その前だ!土に空気を、なんじゃと?」


 文吾の額に、苛立ちの汗が滲む。彼は、面倒なことを何よりも嫌う男であった。この童の、理屈っぽい話を聞き取り、それを報告書にまとめるなど、地獄の苦行にも等しい。


 ついに、文吾は堪忍袋の緒が切れたように、筆を投げ出した。「ええい、まだるっこしい!いちいち口で説明するな!紙に書け!」怒鳴りつけてから、はっとしたように言葉を続けた。「……ああ、書けんのだったな!」


 一瞬の沈黙。文吾は、忌々しげに舌打ちをすると、乱暴な手つきで己の懐から、使い古された木簡と、小さなすずりを取り出した。そして、それを朔の前に叩きつけるように置いた。


「ええい、こうなればお前に教えた方が早い!これで図を描け!草の形でも、水路の形でも、何でもいい!お前のそのややこしい頭の中にあるものを、俺に分かるように示してみせろ!さっさと覚えろ、こっちの手間が省ける」


 朔は、一瞬、ためらった。書ける。だが、この時代の人間が書くような、流れるような草書は書けぬ。どうする。


「……何をもたもたしておる」文吾が、いよいよ苛立ちを隠さずにいう。朔は、意を決した。


「……書いたことは、ねえです」「だろうな。だが、やってみろ。わしが後で直す」


 朔は、黙って筆をとった。ずしりと、重い。前世で慣れ親しんだペンとは、全く違う感触だ。朔は、わざと拙いふりをして、紙の上にいくつかの文字を書いた。「よもぎ」「みず」無意識に、その字は現代の楷書に近い、角張った形になった。


 文吾は、その文字を覗き込み、眉をひそめた。

「……なんだ、この字は」はじめは、馬鹿にしたような口ぶりだった。


「子供の落書きか。いや……」


 文吾は、紙をぐいと引き寄せ、まじまじと見つめた。朔の書いた文字は、線が震え、墨の量も一定ではない。下手くそだ。だが、一画一画が、妙にきっちりとしていた。まるで、手習いの手本を、必死になぞったかのようだ。彼が日常で書く、流れるような行書とは、まるで違う。硬い。生きていない字だ。


「……気味が悪い字だな」文吾は、ぽつりと呟いた。「どこで習った」「習ってねえ。湊の看板とかを、見よう見まねで……」


「ふん」文吾は、鼻を鳴らした。

「これでは、役所の覚え書きには使えん。なっておらん」彼は、新しい紙を取り出すと、自分の筆で、流れるような文字を書いてみせた。


「いいか、小僧。これが字だ。わしが手本を書いてやる。これを真似ろ。そうすりゃ、仕事が早く終わる」


 それは、教えようという気のある者の態度ではなかった。ただ、己の手間を省きたい。そして、己の能筆を、この奇妙な童に見せつけたい。その一心からであった。


 朔は、顔には出さなかった。だが、内心ではほくそ笑んでいた。(……好都合だ)


「すげえ……」朔は、わざと感心したような声を上げた。「俺も、そんな風に書けるようになりてえ」


 その言葉に、文吾は悪い気のしない顔をした。皮肉なことであった。支配者は、己の虚栄心のために、被支配者に武器を与えようとしていた。文字。この乱れた世を渡るための、刀にも勝る武器を。


 朔は、その腹の底で、冷たい炎が、静かに燃え上がるのを感じていた。


 ◇◇◇◇


 夜であった。朔は、文吾から与えられた粗末な紙と筆で、習ったばかりの文字を書いていた。囲炉裏の、残り火だけが頼りだ。


 母のタエは、隣で眠っている。その寝顔は、ひどくやつれて見えた。


(……掟は、破られた)


 朔は、心の中で呟いた。「見られるな、知られるな、目立つな」もはや、その掟は意味をなさぬ。相沢という男が、自分を盤上へと引きずり出したのだ。隠れることは、もうできぬ。


 ならば。


 朔は、筆を置いた。炎を見つめる。炎の向こうに、相沢玄蕃の、あの落ち着きのない目が見えるようだった。


 あの男は、虎だ。いや、虎の威を借る、狐か。だが、今は力を持っている。その力に、正面から抗うのは愚策だ。


 ならば、どうする。


 朔の脳裏に、一つの策が浮かんだ。隠れられぬのなら、いっそ、最も目立つ者の影に隠れる。虎の、皮を被るのだ。


 我が名は、影に置け。功名は、すべてあの男に与える。村の増収も、新しい知恵も、すべては相沢玄蕃様の手柄、ということにしてやる。あの男は、己の野心と功名心を満たしてくれる手駒を、手放しはしまい。むしろ、手厚く保護するだろう。金を生む鶏の腹を、裂く馬鹿はいない。


 その影の中で、自分は実利を得る。村が、生き延びるための、食い扶持を。


 朔は、再び筆をとった。今度は、文字ではない。地面に描いていたような、水路の図面を、紙の上に描き始めた。まだ、拙い線だ。だが、その線には、明確な意思がこもっていた。


 ◇◇◇◇


 朔は、川の流れを見ていた。強い流れに逆らう小枝は、やがて折れて流されてゆく。だが、流れに身を任せた木の葉は、傷つくことなく、ただ運ばれていく。


 そのとき、背後に人の気配がした。朽木玄斎くちきげんさいであった。牢人は、何も言わず、朔の隣に腰を下ろした。


「……くだらん稽古を、始めたそうだな」「……」「文字は、力だ。使い方を誤れば、己の首を絞める刃ともなる」


 玄斎は、それだけ言うと、懐から瓢箪を取り出し、一口、酒をあおった。朔は、増水した川を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「年貢米を積んだ舟も、難儀しよりますな」


 それは、独り言のようでもあった。玄斎は、何も答えなかった。ただ、その口の端に、かすかな笑みが浮かんだのを、朔は見なかった。


 ◇◇◇◇


 数日後。雨は、さらに激しさを増していた。川の水位は、危険な領域に達しつつあった。村の者たちは、不安げに川の様子を見守るばかりだ。


 文吾から遣わされた使いの者が、相沢のもとへ報せをもたらした。伊丹の城に近い宿場で、相沢はその男の言葉を聞いていた。


「……川が増水。このままでは、水江村の田畑に水が溢れるやもしれませぬ、か」


 相沢は、使いの者の言葉を、つまらなそうに繰り返した。百姓が何人か死のうが、田が少しばかり水に浸かろうが、知ったことではない。彼の関心は、秋にどれだけの米が取り立てられるか、その一点にしかなかった。


 そのときだ。彼の脳裏に、文吾が記した報告書にあった、あの童の言葉が、不意によみがえった。


『年貢米を積んだ舟も、難儀しよりますな』


 はっ、と相沢は息をのんだ。そうだ。この川が氾濫すれば、どうなる。田が流される。稲が腐る。つまり、秋の収穫が、ない。七公三民どころか、年貢そのものが、一粒たりとも取れぬやもしれぬ。


 そうなれば、三好との戦を前に、兵糧の確保に躍起になっている主家から、どのような咎めを受けるか。己の役人生命が、この濁った川の流れ一つにかかっている。


 相沢の顔から、血の気が引いた。あの童は、この事態を予見していたというのか。いや、それ以上に。あの言葉は、この事態を、わし自身の問題として認識させるための、巧妙な布石であったのだ。


 あの、十一歳の童に、まんまと操られた。


「……ちっ」


 苦々しい顔で、相沢は舌打ちをした。その鋭い音だけが、降りしきる雨の音を、一瞬だけ、切り裂いた。

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