権力の視線
秋が、深まっていた。
水江村を包む空気は冷たく、澄んでいる。
湿った土の匂いと、家々のかまどから立ちのぼる薪の燻る匂いが混じり合っていた。
村は静かであった。
先日の沢西村との諍いが嘘のように、静かであった。
だが、その静けさは、薄い氷のようなものだった。誰もが、氷の下に澱む黒い水を感じていた。
弥平が、痩せた畑に鍬を入れていた。
その手が、ふと、止まる。
顔を上げた。
何か、聞き慣れぬ音がする。
土を打つ鍬の音でもなければ、風が竹藪を揺らす音でもない。
規則的で、硬質な音であった。
それは、複数の足音に混じる、鎧が擦れ、槍の石突が地を打つ音だった。
村の入り口に続く道の向こうから、それが近づいてくる。
繕い物をしていた女房たちが、家の戸口から不安げに顔をのぞかせた。
泥にまみれて遊んでいた童たちが、ぴたりと動きを止め、母親の裳に隠れる。
村の空気が、張りつめていく。
やがて、姿が見えた。
五、六人の足軽。
日に焼けた顔に、表情はない。
槍の穂先が、午後の陽光を鈍く反射している。
そのうしろに、馬に乗った男が一人。
年は三十半ばか。痩せた頬に、落ち着きなく動く目が、ねっとりと村全体をなめ回すように見ている。
伊丹城に仕える役人、相沢玄蕃であった。
◇◇◇◇
朔は、共同井戸の端で、その光景を見ていた。
隣には、朽木玄斎が、いつもと同じように膝を抱えている。
朔の腹の底に、冷たいものがじわりと広がった。
(来たか……)
恐れていたことが、ついに現実となった。
一つの善意が、村人を裂き、諍いを呼び、そしてついに、公儀の人間を引きずり込んでしまった。
「目立つな」
己に課した掟は、完全に破られた。
玄斎は、動かない。
ただ、その鋭い目は足軽たちではなく、馬上の相沢玄蕃という男、その一点に注がれていた。
獲物の値踏みをするような、冷たい光であった。
相沢の行列は、村の中央にある小さな広場で止まった。
彼は馬上から、集まってきた村人たちを見下ろす。
その視線に、慈悲などというものはない。
そこにあるのは、己の利益を勘定する商人の目であった。
やがて、権爺が杖を突きながら、ゆっくりと進み出た。
村の名主として、この場を収めねばならぬ。その責任感が、震える足を前に進ませていた。
「これは、相沢様。ようこそお越しくださり……」
権爺が、かろうじて声を絞り出す。
相沢は、その言葉を遮るように、馬上から言った。
声は、穏やかであった。それがいっそう、不気味であった。
「うむ。……先日、隣村の者どもと刃傷沙汰に及んだそうだな」
権爺の顔から、血の気が引いた。
「め、滅相もございません!あれは沢西村の者どもが一方的に……」
「ほう」
相沢は、権爺の言葉を鼻で笑った。
「して、なぜお上へ訴え出なんだ?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる権爺を、相沢は冷たい目で見下ろす。
「どちらが仕掛けたかなど、些末なことよ。伊丹様の御法度では、理由を問わず私闘に及んだ者は双方成敗、『喧嘩両成敗』と定められておる。それを届けもせず、内々で事を収めようとしたとは、感心できぬな」
相沢の目が、細められる。その言葉は、あの夜の玄斎の警告そのものであった。玄斎の配慮は、この場を内々に収めることで、両村を公儀の介入から守ることにあったはずだ。だが――。
「当方に、密告があった」
相沢が合図をすると、供の足軽が、一つの汚れた壺を掲げた。中から、蓬を煮詰めたような、異様な匂いが漂う。
「見覚えがあろう。密告によれば、この得体の知れぬ薬が、隣村との諍いの種になったとか。虫を追いやる知恵そのものは結構。だが、それを元手に事を構え、お上への届けも怠ったとなれば、話は別だ。言い逃れはできぬぞ」
相沢のねっとりとした視線が、ひれ伏す村人たちの中をさまよい、やがて一点でぴたりと止まった。
人垣の後ろで、ひときわ小さくなっている男。
吉蔵であった。
相沢の口の端に、かすかな笑みが浮かぶ。その視線に促されるように、村人たちの目が、恐る恐る吉蔵へと向いた。
驚き、軽蔑、そして裏切りに対する静かな怒り。
無数の視線に射抜かれ、吉蔵は顔面蒼白となって、さらに深く頭を垂れた。
「法度を破り、届けも怠る。これは大和守様の御威光を蔑ろにするに等しい。許されざる行いよ」
言い放った。
「本来なれば、村一つ潰したところで、誰も文句はいうまいぞ」
ひっ、と誰かが息をのむ音。
村人たちは、まるで嵐の前の草木のように、地にひれ伏した。
額を土にこすりつけ、ただ、息を殺している。
権爺も、もはや言葉を発することができず、杖を握りしめたまま、うなだれるしかなかった。
あの夜、牢人の男が口にした警告が、現実のものとなったのだ。村の自治(地下検断)で事を収めるという、先祖代々守ってきた惣村の最後の砦が、たった一人の密告者によって内側から崩された。その絶望が、権爺から全ての言葉を奪っていた。
相沢の視線が、ひれ伏す村人たちの中から、二人だけを探し出した。
井戸端に立つ、童と、牢人。
「……して、その知恵の主は、そこの童だと、そう聞いておるが」
問いではなかった。
断定であった。
◇◇◇◇
相沢は、馬上から村を見渡した。
(なるほど……)
心の中で、算盤を弾く。
数日前、あの吉蔵という男が城に駆け込んできた時、はじめは百姓の戯言と一笑に付した。
だが、男が差し出した蓬の煮汁。試しに虫の湧いた菜に垂らすと、虫どもが明らかにそれを避けて逃げ出した。そして、部下に命じて遠見させたこの村の畑は、周囲の村々が長雨と虫害に喘ぐ中、確かに青々とした活気を保っていた。
(まこと、この村には何かがある)
手っ取り早く、あの童だけを城へ連れ帰るか?
いや、待て。この「秘術」とやら、その正体が見えぬ。もし、この土地、この村人あっての術であったなら? この童を無理に引き剥がし、口を割らねば、あるいは怯えて術を忘れたなどとぬかしおれば、それこそ元も子もない。
銭を生む鳥は、その巣ごと手に入れるのが一番よ。
童を城へ移すのではない。この村そのものを、わしの城とするのだ。
(これは、またとない手柄になる)
主家である伊丹家は、急速に力をつける三好の若造どもに圧迫され、常に戦支度を怠れぬ状況。飢饉で他の村からの年貢が当てにならぬ中、この村の「秘術」は、まさに干天の慈雨。
これを己が管理し、安定した財源を確保したとなれば、城での己の立場も安泰となろう。
相沢の口元が、また歪んだ。
(面白い村よ)
罰するのではない。
支配するのだ。
生かぬよう、殺さぬよう……飼うてみるか。
◇◇◇◇
相沢は、一つ咳払いをした。
ひれ伏す村人たちに、慈悲深い主君のような声で語りかける。
「……なれど、大和守様は慈悲深い。この度のこと、特別に許しを与える」
村人たちの背中が、わずかに揺れた。
安堵と、それ以上の不信が入り混じった空気。
相沢は、そこで言葉を切ると、井戸端に立つ朔をまっすぐに見据えた。
「童。そちが、この虫除けの薬を作ったと聞いた。まことか」
朔は、黙ってうなずいた。
相沢は、満足げに頷くと、今度は村人たちに向かって声を張り上げた。
「聞け!この童の知恵は、まこと見事なものよ!飢饉に喘ぐ領内において、これほどの宝はない!本来なれば、賞賛こそすれ、咎め立てする筋合いのものではない!」
村人たちの間に、当惑が広がった。
「だが!」
相沢の声が、再び厳しさを帯びる。
「この名主をはじめ、村の大人どもは、この宝を私し、あまつさえ諍いの種とした!童の知恵を正しく導けなんだは、長老たちの罪よ!」
権爺が、はっと顔を上げた。その顔は、驚愕と屈辱に歪んでいた。
相沢は、言葉を続ける。
「よって、この村の差配、追って沙汰あるまで、わし、相沢玄蕃が直々に預かることとする。この童の知恵を、村のため、ひいてはお家のために、正しく使わせるためにな」
差配。
その言葉が、冷たい刃のように朔の胸に突き刺さった。
だが、それ以上に、朔の腹の底に広がったのは、鉛を飲まされたような、重く、冷たい屈辱であった。
(……やられた)
この男の狙いは、最初からこれだったのだ。
俺を褒めそやす。それは、甘い毒。
俺一人をことさらに持ち上げることで、村の大人たち、とりわけ名主である権爺の権威を、村人たちの目の前で叩き潰した。
俺の知恵が、村の自治を内側から破壊するための、槌として使われたのだ。
罰せられるよりも、はるかにたちが悪い。
俺は、この男の支配の道具として、完璧に組み込まれてしまった。
朔は、唇を噛んだ。
忸怩たる思いが、胸を焼く。
相沢は、満足げにうなずくと、馬首を巡らせた。
去り際に、最後の言葉を投げつける。
その視線は、井戸端に立つ童、朔ただ一人を射抜いていた。
「追って沙汰を出す。それまで、その童……」
彼は、言い放った。
「村より一歩も出ることは、相成らん」
返事をする者はいなかった。
相沢は、それに構うことなく、足軽たちを促して去っていく。
カツン、カツン、という馬の蹄鉄の音が、次第に遠ざかっていく。
やがて、音は聞こえなくなった。
あとに残されたのは、墓場のような静寂だけであった。
村人たちが、おそるおそる顔を上げる。
その顔には、助かったという安堵はなかった。
ただ、これから始まるであろう、先の見えぬ日々にたいする、深い絶望の色が浮かんでいるだけだった。
一つの善意から始まった連鎖は、ついに公権力の直接的かつ持続的な監視という、最悪の事態を招いた。
朔の「目立つな」という掟は、完全に破られた。
彼は否応なく、村の存亡を賭けた戦いの当事者となった。
もはや、観客席にいることは許されない。
盤上へと、引きずり出されたのだ。




