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泥中の童

 名主の家か。

 いや、蔵もだ。


 炎が、夜を喰らっていた。


 茅葺きの屋根が爆ぜ、火の粉が闇に舞い上がる。

 人の脂が焼ける、甘ったるい匂い。血の匂い。煙が目にしみ、咳き込んでも、その声は鬨の声にかき消された。


 闇の中から、冷たい視線がさくを射抜く。

 堺の商人とも、ただの野盗とも違う、底の知れぬ男の目だ。


 すべて、計算のうちであったはずだ。

 こうなることも、ありうると。

 だが。


(計算は、どこで狂った?)


 燃え落ちる梁の音だけが、確かな現実であった。


 ◇◇◇◇


 摂津国、水江村みずのえむら


 空は、鉛を溶かしたように重い。

 何日も、雨が降り続いている。

 鼻をつくのは、湿った土の匂い。

 腐葉土の、むっとするような匂いだ。


 朔は、鍬を肩に、ぬかるんだ道を歩いていた。

 十歳になったばかりの体には、鍬の柄がまだ重い。


 目の前の、村の田。

 水路は浅く、曲がりくねっている。これでは、少し雨が続けばすぐに水が溢れ、稲の根を腐らせるだろう。

 事実、畦道あぜみちのいくつかの箇所は、すでに崩れかけていた。


 無駄の極みだ。


 水路を真っ直ぐに掘り直し、深くすれば済むこと。

 村の共同井戸の周りもそうだ。


 水汲みの女たちがこぼす水で、あたりは常にぬかるんでいる。いつ疫病が発生してもおかしくはない。

 少し砂利を敷き詰め、排水のための溝を一本掘るだけで、見違えるほど乾くものを。


 家々の裏手からは、糞尿が垂れ流されている。

 あれは、汚物ではない。

 草や藁と混ぜて寝かせれば、土を豊かにする、この上ない肥やしとなる。


 知っている。

 だが、言えない。


 十歳の童の言葉など、戯言たわごとにもならぬ。

 この村では、古くからのやり方こそが、すべてなのだ。

 下手に口を出せば、気味悪がられるのが関の山。


「見られるな、知られるな、目立つな」


 それが、この世界で生きるための、朔が己に課した掟であった。


 前世の記憶。

 国際協力機構の隊員として、発展途上国の村で暮らした日々。

 その知識が、今は重荷でしかない。

 このどうしようもない非効率と、それを甘んじて受け入れている人々の姿が、朔の心を苛む。


 根源的な孤独。

 誰とも、この思いを分かち合えぬということが、鉛のように朔の腹の底に沈んでいた。


 ◇◇◇◇


 家の戸口をくぐると、囲炉裏いろりの柔らかな灯りが迎えた。

 母のタエが、繕い物をしている。

 ちろちろと燃える火が、その横顔を照らしていた。


 朔が守りたいものは、これだ。

 この、何でもない、静かな暮らし。

 ただ、それだけであった。


「おかえり、朔や」


 母が、顔を上げる。

 目元に、細かな皺が寄った。


「腹が減ったろう。いま、あわかゆを温めてやるでな」


 鍋の中身は、水気の多い雑穀の粥。

 具は、塩漬けにした大根の葉を刻んだものだけ。

 それでも、冷えた体にはありがたかった。


 朔は、黙って椀を受け取り、粥をすする。

 土間の隅に置かれたかめに、雨水が満ちていくのをじっと見ている。


(……また、あふれる)


 心の中で呟いた。


 村の家々は、どこも似たようなものだ。雨水を溜める甕は小さく、水路は浅い。この長雨で、村の北側にある田助たすけの畑は、もう半分ほど水に浸かっているはずだった。


 昨日、田助が鍬を片手に、泥水の中で途方に暮れている姿を見た。


「溝を一本、あちらへ切れれば……」


 そこまで口に出かかって、朔はぐっと言葉を飲み込んだ。

 子供の戯言たわごとだ。誰も聞きはしない。下手に口出しをすれば、気味悪がられるだけだ。


「朔や」


 指先で、土間の湿った土にすっと線を引く。水をどう流すれば、最も効率よく畑から抜けるか。前世の記憶が、頭の中に勝手に図面を描き出す。国際協力機構(JICA)の隊員として、アフリカの村で何度もやったことだ。


 だが、ここは戦国の日本。

 その知識は、宝であると同時に、命を脅かす毒にもなりうる。


「朔や」


 母の声に、朔ははっと我に返り、土に描いた線を足で消した。


「寄合が始まる前に、名主様のところへこれを持ってお行き。うちで漬けた青菜だ。ほんの、心ばかりだけれどね」


 母が差し出した小さな壺を受け取る。


「うん」


 短く答え、朔は蓑みのを羽織って土間を出た。


 ◇◇◇◇◇


 村の寄合よりあいは、名主である権爺ごんじいの家の土間で開かれていた。

 他の家よりも少しだけ大きいその家には、すでに村の主だった男たちが十人ほど集まり、重い空気が澱んでいた。


「……おっ母から、これを」


 朔が壺を差し出すと、権爺(ごんじい)の嫁が黙って受け取った。権爺は、集まった男たちの中央で、黒光りする樫の杖を傍らに胡座(あぐら)をかいている。


「うむ。朔か。まあ、そこに控えとれ」


 権爺の許しを得て、朔は土間の隅、男たちの視界に入らぬ場所に小さくなった。

 やがて、権爺がしわがれた声で口を開いた。


「これ以上、雨が続けば、氏神様の怒りに触れる。明日は、雨止めの祈祷をせねばなるまい」


 集まった男たちが、神妙な顔で頷く。

 権爺の隣に座る他の長老衆も、深く頷いてみせた。彼らの顔には、先祖代々のやり方こそが唯一の正しい道だと、固く信じきった表情が浮かんでいる。


 そのとき、田助がおずおずと手を挙げた。


「名主様。祈祷も大事でござんしょうが、わしの畑がもう駄目になりそうだ。あそこの水路を、ちいとばかし深く掘らせてはくれんだろうか」


 その言葉に、場の空気がぴんと張り詰めた。


 権爺は、ゆっくりと首を横に振った。


「ならん」


 一言だった。


「水路の形は、ご先祖様から受け継いで来たもんじゃ。下手にいじれば、水の流れが変わって、他の者の畑に水が流れ込むやもしれん」


「左様、左様」と、別の長老が相槌を打つ。「水の流れは神仏のお指図。人の手でかき乱すなど、とんでもないことよ」


 田助は食い下がった。


「しかし、このままでは……」


「黙れ」


 権爺の声が、低く鋭く響いた。


「わしが若い頃には、もっとひどい雨が降ったこともある。それでも、皆で祈り、耐えてきた。小賢しい人間の知恵でどうこうしようと考えるな。天に任せるのが一番じゃ。村の和を乱すようなことは、許さん」


 権爺の言葉は、有無を言わさぬ響きを持っていた。


 弥平は唇を噛み、うつむいた。他の者たちも、何も言わない。惣村(そうそん)の掟は、絶対であった。

 朔は、土間の隅でその光景をただ見ていた。


(違う……)


 胸の中で、声にならない声が叫ぶ。


(それは思考の停止だ。人事を尽くさずに天命を待つのは、ただの怠慢にすぎん)


 だが、その言葉を口には出せない。


 寄合が終わると、男たちは重い足取りでそれぞれの家へ帰っていく。朔も、その流れに従った。

 降りしきる雨の中、権爺たちの言葉が、冷たく朔の心に響いていた。


 この村は、優しさでできているのではない。変わらないことへの、頑なな執着でできているのだ。そして、それは時として、人をゆっくりと殺していく。


 ◇◇◇◇


 足は、自然と村はずれの川べりへと向いていた。

 ここだけが、村の息苦しさから逃れられる場所だった。


 川の流れは、雨のせいで量を増し、ごうごうと音を立てている。

 岸辺の、朽ちかけた漁師小屋の前に、男が一人、座っていた。


 朽木玄斎。


 どこからか流れ着いた牢人ろうにんだ。


 いつからこの村に流れ着いたのか、誰も知らぬ。村はずれの漁師小屋をねぐらに、日長一日、川を眺めているか、瓢箪(ひょうたん)に入れた安酒(どぶろく)(あお)あおっているかだ。


 ひょろりと高い背丈に、削げた肩。一見すれば、病み上がりの老人のようだ。だが、その眼光だけは、まるで衰えを知らなかった。


 朔は、玄斎から少し離れた場所に腰を下ろした。


 言葉を交わすわけではない。ただ、こうして時折、この男のそばにいるのが常になっていた。

 この男の前でだけは、朔は子供のふりをする必要がなかった。


 玄斎は、朔を子供として見ていないようだった。

 というより、まるで景色の一部のように、ただそこにいるものとして扱っている。それが、朔には心地よかった。


 玄斎も、朔を一瞥いちべつしただけで、何も言わない。

 ただ、濁った川の流れを、じっと見つめている。


 雨が、またぽつり、ぽつりと落ちてきた。


 川面のさざ波。草の匂い。


 二人の間を、静かな時間が流れていく。

 互いの孤独が、水面に落ちた雨粒の輪のように、静かに共鳴しているかのようだった。


 この川の水を、うまく村へ引き込めれば。そして、不要な水は、滞りなく川へ戻すことができれば。それだけで、この村の収穫は倍にはなるだろう。飢えに苦むこともなくなる。


 だが……。


 朔は、また無意識に、指先で地面に図形を描き始めていた。

 複雑な水路の図面。堰せきの位置。勾配の計算。


 前世の記憶が、溢れ出して止まらない。この無力な十歳の体には、あまりにも重すぎる知識だった。


 そのときだった。


 不意に、玄斎が動いた。


 川面から目を離し、ゆっくりと朔の方へ向き直る。

 朔は、はっとして指を止め、顔を上げた。


 玄斎は、朔の顔を覗き込むでもなく、ただ、朔が地面に描いた、雨で崩れかけた線に目をやった。

 雨音と、川の流れる音だけが、二人の間に満ちていた。


 やがて、玄斎が、酒に焼けたしゃがれ声で、ぽつりと言った。


わらべ


 朔は、顔を上げなかった。


「お主、何を見ている」


 それは、子供に対する問いではなかった。

 同じものを見、同じように世の理不尽を憂いている者にだけ向けられる、静かな問いかけであった。

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― 新着の感想 ―
面白い まだまだ初めなのでじっくり読んでいくつもりです。
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