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第3話 三つ首思春期で大暴走!?

朝いちばんのオーブンが息を吐くたび、蜂蜜と小麦の匂いが店先に押し出される。

「いらっしゃいませー!」

カランと鐘を鳴らすリオンの脇で、三つの頭に三色の小さな帽子をのっけたトリス――いや、近ごろ本人は“クロ”と呼ばれると少し胸を張る――が、うやうやしくお辞儀した……つもりで、客の手を三方向から同時にぺろり。


「わあ、かわ……ちょ、くすぐったい!」

「クロ、ほどほど!」

「おれは歓迎を尽くしただけ」「尽くした!」「じんこうこきゅう、いる?」

「最後のは違う! 落ち着け!」


笑いが起こる。いつもの朝だ。

だが、リオンは気づいていた。最近のクロは、指示に従う前に“自分の流儀”を挟む。

「お座り」よりも「ここでは握手」。

「待て」よりも「見よ、俺の速さ」。

……そして、言い返す言葉が、ちょっとだけ大人びてきた。


「おいで、クロ」

「いまは持ち場」「ぼく受付」「ぼくは見張り」

三つ首が連携して、ぴたりとカウンターの横で座り込む。帽子がずれて片目が隠れ、客の子どもが直してくれると、三つとも順番に「ありがと」と頬を寄せた。


(悪さじゃない。けど、もう俺の“言う通り”じゃ動かない)

リオンは焼きたてのトングを握り直した。小さな誇りと、同じサイズの不安が胸でぶつかる。


昼前、店がひと段落すると、広場で軽い訓練をするのが日課だ。

「今日は合図の再確認。――はい、クロ、座れ」

「座る?」「座る……かな」「すわ……あ、鳥」

「鳥は後だ!」

ひょいと中央の首が上を見た瞬間、左が尻尾で砂をはね、右がぴたりと視線だけリオンに合わせる。座ってないのに“目は合う”。


「おい、それ新手の反抗だろ」

ベンチでメモ帳を開いていたカイルが笑う。

「観察メモ:『指示の語尾より、声の揺れに反応』。思春期、来てるな」

「……来てるって、どれくらい?」

「身体は育った。あとは心。“思春期覚醒”は個体差があるが、兆候は“自分の判断を入れたがる”“呼び名より共鳴に寄る”」

「共鳴?」

「声量や言葉じゃなく、息づかいと間合い、視線のタイミング。――ほら、今、お前がちょっと息を飲んだ瞬間、右の首だけ耳が動いたろ」


たしかに。

「……座れ」

「うん……」「う……」「うーん」

三つ首は同時に腰を落としかけ、わざと半分浮かせた。

「半座りってなんだよ!」

「新技」「新しつけ」「新時代」

「最後のやつ、偉そうすぎ!」


子どもたちが笑い、拍手が起こる。クロは得意げに胸を張り、リオンは額を押さえた。

(可愛い。だが、可愛いの中に“意地”がある。俺が“父親っぽく”迫るほど、わざと外してくる)


「一回、役を替えてみろ」

カイルが立ち上がって言う。

「命令じゃなく依頼。“俺を手伝ってくれ”、だ」

「……クロ、手伝ってくれ。俺、今日、すこし疲れてる」

「疲れてる?」

三つ首が同時に鼻を鳴らす。中央が砂をならし、右が水をほんの一滴ふわりと散らし、左が影に入って日差しを遮った。

「……やさしさ三種盛り?」

「三種守り」「三主ぬし守り」「三首守り!」

「語呂の暴力だな」カイルが肩をすくめたが、リオンの胸はふっと軽くなった。


午後、配達の道すがら。

クロは屋根伝いに並走するのが好きだ。

「危ないって!」

「高いと風が気持ち」「はやい」「見晴らし!」

瓦が一枚、カタンと鳴る。リオンの足もとで、通りのおばあさんが目を丸くした。

「やだよもう、心臓に悪い」

「す、すみません! クロ、下り――」

「――いや、いい」

カイルが手をかざす。

「下りろじゃなく、『一緒に回る道を決めたい』って言え」

「……クロ、相談。ここは下を回って、角で合流しよう。俺、落とし物拾うから」

三つ首が同時に屋根の縁に腹ばいになり、片目ずつ細める。

「相談」「合流」「おやつ?」

「最後に食い気を混ぜるな!」

しかし、三つの影はするりと雨樋を滑って、角でちゃんと待っていた。


夕刻、店仕舞い。

クロは看板の下で子どもたちに囲まれ、帽子をひとつずつ貸してまわす。

「一日一善」「一日三善」「三日で九善」

「九九の覚え方みたいに言うな」

笑いながら戸締まりをしていると、通りを学院の使いの若者が走っていった。紋章入りの封筒が手にある。

(……学院? いや、今は気にしない。第2話の終わりにやっと“居場所”を得たばかりだ)

胸の奥の小骨のような不安を、リオンはパンくずと一緒に払った。


夜、屋根の上。

風が少し冷たい。三つの月影が重なって伸びる。

「クロ、今日は……よく頑張ったな」

「がんばった」「がんば……った」「まあね」

最後の一声だけ、少しだけ突き放す温度。

(来たな、思春期の“まあね”)


「なあ、クロ。お前が“自分で決めたい”時、俺の役目は何だ?」

「危ないとき、どなって」「危なくないとき、見て」「どっちでもないとき、となりで息する」

「息する?」

「同じはやさ」「同じ音」「同じ見えかた」

カイルが昼に言っていた“共鳴契約”という言葉が、遅れて胸の内側に落ちた。


「……共鳴、か。合図じゃなく、呼吸」

リオンは深く吸い、三拍で吐く。

クロの三つの喉が、同じ三拍で鳴った。

「――なあ、明日もいけるか?」

「いける」「いける!」「いく……けど、たまに一人で走る」

「それは……相談してくれ」

「相談」「相談!」「そう、なん?」

「最後の疑問形やめなさい」


ふいに、遠くの鐘が一つ。屋根の下から母の声がした。

「冷えるよー、上がっておいでー!」

「はーい!」

リオンが返事をしかけると、クロの三つ首がぴたりとリオンの肩に乗った。

「だいじょうぶ?」

「だいじょうぶだ」

胃のどこかがきゅっとする日でも、その言葉は嘘にならない気がした。呼吸が合っている。


(守るだけじゃない。並んで歩く。それが“相棒”の――)

「……クロ。俺の声、明日も届く?」

「声は届く」「息も届く」「パンの匂いも届く」

「最後のは余計だ」

笑い合って、屋根からゆっくり下りた。夜気は少し冷えたが、足どりは不思議と軽かった。


「明日も息を合わせられるか」――その小さな問いが、二人の“共鳴”の始まりになった。


**


昼下がりの広場。

パン屋の看板の下でクロは子供たちに帽子を乗せられて遊んでいたが、鐘の音に耳を立てた。


「学院の使者が来るぞー!」

町人の声に人垣がざわつき、通りの奥から馬車が現れた。学院の紋章旗が翻り、きらびやかな制服姿の少年が降り立つ。


「ぼくはレオン=アーベント。学院より派遣された“共生モデル監査官”だ」

腰には剣、背後には白銀の狼が従う。その毛並みは陽光を跳ね返し、群衆から感嘆の声が漏れた。


「わぁ……すごい」「かっこいい!」


クロの三つ首が同時に「ぐるるる……」と唸った。

「強そう」「かっこつけ」「毛並み負けない!」

リオンは慌てて首を押さえる。

「クロ、やめろ、比べるな!」


だがもう遅い。三対の瞳は燃え始めていた。


町長が壇上に立ち、手を広げた。

「本日は学院の要請により、両召喚士の“共生”を披露いただく!」


レオンが一歩前に出て、狼に目配せした。

「シルヴァ、どうぞ」

白銀の狼は静かに伏せ、尻尾をゆっくり振る。

「……ほら、お手本。飼い主の言葉を聞き、落ち着きを保つ。これが“信頼”」

拍手が起こる。


リオンは胃を押さえながらクロを見た。

「な、な? 落ち着いて――」

「落ち着く……」「落ちつく……?」「落ちつけるかぁぁ!」


三つ首が同時に咆哮し、風・火・水が噴き出した。

観客が悲鳴を上げて散り散りに逃げる。


「ちょ、クロォォォ!」

リオンは必死で抱きつくが、三方向の力に振り回されて転倒。帽子もバンダナも宙を舞った。


レオンが冷ややかに笑った。

「これが……町で“騒乱指定”と呼ばれる所以か」

「ち、違う! クロは――!」

「違わないだろう。君の声はもう届いていない」


観客の間に不安のざわめきが広がる。


クロがさらに吠え、三つの声が重なって叫ぶ。

「負けない!」「比べないで!」「三首独立宣言!」


その言葉が空気を裂き、広場の掲示板を吹き飛ばした。


リオンは地面に手をつき、頭を抱える。

(やばい……これ、学院と町に最悪の印象を与えた……!)


夕方。

広場は修繕のため閉鎖され、リオンとクロは役場の前でうなだれていた。

カイルがため息をつく。

「完全にやっちまったな。あれはもう“思春期覚醒”の暴走だ」

「俺……止められなかった……」

リオンの声は震えていた。


クロはその足もとで尻尾を振りながらも、三つ首そろって言う。

「勝ちたかった」「負けたくなかった」「お前を守りたかった」


リオンはその瞳を見て、言葉を失った。

守りたいのは自分も同じなのに、方向がすれ違う。

(どうすれば……クロの心に届くんだ……?)


町に鳴り響いた「三首独立宣言」は、リオンとクロの間に決定的な亀裂を残した。


**


昼の鐘が三つ鳴ると、町役場の大会議室は人であふれた。窓から射す光が木の床を真四角に切り取り、その上にパン粉が一粒、二粒。休憩のたびにリオンが落としてしまう癖は直らない。

壇上には町長、学院からの使者レオン=アーベント、その背後に白銀の狼シルヴァ。対する側にはパン屋の母とカイル、そしてクロ――三つ首は柵の内側で尻尾を揺らし、時々あくびを三方向へ配っていた。


「本題に入ろう」

レオンが巻物を広げる。

「学院は“共生モデル”の外部公開デモを一週間後に実施する。代表は一組のみ。成功すれば、町のモデルは正式採択。失敗すれば――」

「――町は監督下強化、予算は学院主導に移る」

町長が背もたれを軋ませた。


ざわつく会場の中央で、カイルが手を上げる。

「条件、出してくれ。情緒じゃなく、数字で」

「望むところだ」

レオンはすらすらと読み上げる。


【公開デモ/コスト表(提示案)】

1) 訓練時間:一日あたり6時間×7日=計42時間(代表ペアは他業務を停止)

2) 安全対策:結界石の増設費 金貨3枚/臨時医師待機費 銀貨20枚

3) 賠償上限:破損時の町側負担 上限 金貨8枚(学院負担は超過分のみ)

4) 評価指標:従順度ではなく“共鳴度”(呼吸同期・視線追従・衝動抑制の三項目)

5) 失敗時ペナルティ:町モデル“凍結”/クロの管理権の一時返納(学院預かり)


「ちょ、最後が重すぎないか」

リオンの胃がきゅっと鳴る。

「しかも三項目とも、うちの三つ首が一番苦手なやつだぞ」

カイルが眉をしかめる。


レオンは肩をすくめた。

「共生とは、可愛い披露ではないからね。管理できるか、共鳴できるか。見られるのはそこだ」

「共鳴……」

リオンはクロの背に手を置く。三つの喉が同時に小さく鳴り、指先に微かな震えが伝わった。


「代表候補は二組」

町長が短く告げる。

「リオン=フェルディナンド&クロ。レオン=アーベント&シルヴァ。学院側は後者を推すが、町としては前者に期待する声もある」

「わたしたちはリオンを見てきたものね」

客席の端で、常連の老婦人が小さく頷いた。

しかし別の声が飛ぶ。

「けど昨日みたいに暴れたら? 賠償はどうする!」


レオンが追い打ちを掛けるように巻物を跳ね上げる。

「では練習段階の負担も示そう。代表に選ばれた組は――」


【練習段階/追加コスト】

A) 睡眠制限対応:夜間吠え抑制のための共鳴訓練(夜1時間×4回)

B) 食費増:高エネルギー期の調整食 肉類20kg/週(町負担)

C) 評判リスク:練習公開のため、失敗は即SNS掲示板(掲示板係による記録)


「はいストップストップ!」

リオンは思わず両手を振った。

「Cの掲示板はやめよう! 町のSNS掲示板は地味に効くんだって!」

「情報は透明に」

レオンの笑顔は涼しい。


クロが三つ首で左右非対称にうなった。

「おやつ減る……」「眠いのきらい……」「掲示板こわい!」

「最後の共感力だけやたら人間ぽいな!」


会場の空気は重く、でもどこか苦笑が混じる。

リオンは柵に寄りかかり、深呼吸を一つ。

(失敗したら、クロは学院預かり……。それだけは絶対に、二度と)

喉の奥が乾いて、呼び名がうまく出てこない。代わりに、昼練で覚えた三拍の呼吸を刻む。吸って、吐いて、吐いて。クロの三つの喉が同じリズムで鳴った。


「質問を許可する」

町長の声が落ちる。

リオンは手を上げ、そして自分の声が思ったより大きく響くのを感じた。

「――俺たちがやる。俺とクロが、代表になる」

「リオン!」

カイルが小声で制止する。

「数字、見たろ。胃じゃ消化できない量だ」

「わかってる。でも、俺しかできない。クロは……俺の呼吸でしか落ち着かない」


「ふむ。言い切るのだな」

レオンが目を細める。

「では簡易試験をしよう。今、この場で“共鳴度”を示してくれ。言葉でなく、呼吸で」

ざわめきが一段深くなる。観客席でパンの袋がカサリと鳴り、誰かが息を呑む音までもが聞こえた。


リオンは柵の中に入り、クロと向き合った。三つの瞳がそれぞれ違う癇癪を抱えている――左は食べたい、右は撫でてほしい、中央は走りたい。

(それでも、同じにできる。俺たちは練習した)

鼻腔にパンと灰の匂い、床板の温度、窓からの風。リオンはひとつ、二つ、三つ。

「――吸って」

囁くほどの声。

「――吐いて」

クロの胸が三方向にふくらみ、しぼむ。尻尾の振りが同調し、爪先の力みが解ける。

「――見て」

リオンの視線が右から左へ、そして中央に戻る。三つの瞳が遅れなく追従する。

会場の気配が変わった。怒号の成分が薄まり、息を合わせるように静まっていく。


「合図は三つ。声量は抑え、間合いは一歩。今はこれが限界だけど――」

「――十分だ」

カイルが先に言った。

「今、数字で言えば“呼吸同期”は8/10、“視線追従”は7/10。“衝動抑制”は……4/10」

中央の首がその場で小さく跳ね、尻尾がバタバタと床を叩いた。

「な? 最後が課題だ」

リオンは苦笑して頭を撫でる。

「そこは、俺が責任持って伸ばす」


レオンは沈黙ののち、無感情に見える拍手を二度、三度。

「宣言は勇気、数字は責任。よろしい。代表は――リオン=フェルディナンド&クロ」

会場の空気が爆ぜ、安堵と不安の入り混じった声が渦を巻いた。


町長が杖を鳴らす。

「では町は予算案Bで支援する。だが賠償上限は守れ。リオン、これを持て」

差し出されたのは、町印の入った小さな皮袋と、練習スケジュール表。

「金貨三枚の前渡し、銀貨二十。足りぬなら自腹だ」

「自腹ぁ」

リオンの膝が笑い、クロの三つ首が同時に覗き込む。

「だいじょうぶ?」「財布、だいじょうぶ?」「パンで払う?」

「最後のは物々交換すぎる!」


解散の声がかかると、人の群れは蜂の巣を出るようにざわざわと散っていった。窓から夕光が斜めに差し、床のパン粉が金色に光る。

リオンは柵の鍵を外し、クロの額を三つ分、こつんと合わせた。

「やるぞ。息で、目で、衝動で。三つとも、合わせる」

「合わせる」「合わ……せる」「あわせる!」

三つの声が珍しく同じ高さで重なり、空気がひとつ鳴った気がした。


外へ出ると、石畳は昼の熱をまだ少し抱いていた。

「なあ、カイル」

「ん」

「もし失敗したら、クロは――」

「失敗しないために、今選んだ。お前、さっき自分で言っただろ。『俺しかできない』って」

「……言ったな」

息を吸って、三拍で吐く。隣でクロの喉も三拍で鳴る。

(明日も合わせられるか――じゃない。明日合わせるために、今日を合わせる)

リオンは自分の靴の先を見て、そして顔を上げた。夕暮れの空は蜂蜜色で、どこかパンの匂いがした。


「明日も息を合わせられるか」という問いは、「今日、ここで合わせる」という誓いに変わった。


**


町の外れに建てられた臨時訓練場。

石畳の中央には魔法陣が刻まれ、結界石がぐるりと囲んでいる。学院から持ち込まれた最新型で、暴走時の安全を確保するためだ。


「じゃ、今日から“公開デモ”に向けた訓練を始めるぞ」

カイルがノートを開き、指示を飛ばす。

「目標は三項目――呼吸同期、視線追従、衝動抑制。数字で示してもらう」


「数字ばっかり……」

リオンは胃を押さえた。

「……まあ、やるしかないな。クロ、準備は――」

「してる!」「ばっちり!」「おやつ持った?」

「最後の確認項目おかしい!」


まずは呼吸同期。

リオンは深く吸って三拍で吐く。

「……すぅ、はぁ、はぁ」

クロの三つ首も呼応し、胸が同じリズムで上下した。


「いいぞ、そのまま――」

だが、中央の首が突然くしゃみをした。

「へっくしょん!」

炎が噴き出し、カイルのノートが半分焦げた。

「記録中止ー!」


「クロ!」

「わざとじゃない!」「ちょっと粉塵!」「炎の練習!」

「今は練習するなぁ!」


次は視線追従。

リオンは手を左右に振り、クロに目で追わせる。


「……よし、こっち見て……次こっち!」

三つ首が同時に動き、目線が合う。

「できてる……!」

リオンの声が震えた。


その瞬間、観客席で見ていたレオンが冷笑を漏らす。

「単純訓練だな。真の共生は、戦場での判断だ」


クロの瞳が燃え上がった。

「俺もできる!」「できる!」「できる!!」

三つ首が一斉に跳び上がり、リオンの指示より早く飛びかかった。


「ちょ、待てクロ! まだ合図してな――」


結界石が光り、衝撃波を抑え込む。

観客がどよめき、レオンは肩をすくめた。


休憩時間。

リオンはベンチに腰を下ろし、クロの頭を順に撫でた。

「お前……俺の声、もういらないのか?」

「声はいる」「でも、比べられると悔しい」「ぼくも強いって見せたい!」

「それで暴れてたら、また“災厄”だって……」


クロが三つ同時に唸る。

「守られるだけは、いやだ」

「……」

リオンの喉がつまった。


(俺は守りたい。けど、クロはもう守られるだけじゃいやなんだ)

すれ違う思いが、同じ胸の奥で熱を帯びる。


夕刻。

訓練の最後にもう一度、呼吸を合わせた。

リオンが三拍で吸い、吐く。

クロも同じ三拍で鳴き、目を細める。

わずかに重なった一瞬――会場が静まり返った。


カイルが小声で言う。

「数字にすれば、呼吸同期は9/10。視線追従も7/10。衝動抑制は……やっぱり4/10」

「まだ足りない……でも、確かに重なった」

リオンは小さく笑った。


クロも三つ首で息を合わせる。

「すぅ」「はぁ」「はぁ」


ほんの一拍だけ、同じ呼吸。同じ音。同じ時間。

でも、その直後、中央の首がふいっとそっぽを向いた。

「でも、ぼくだけでもできる」

「クロ……!」


理解しかけてはすれ違う――それが、思春期の共鳴訓練の現実だった。


**


朝の広場は、祭りの匂いがした。

屋台の油、焼けた砂糖、冷えた金具の金属臭。掲示板には大きく「共生モデル公開デモ」の張り紙、脇には手描きの似顔絵――リオンと、三つ首のクロ。

「……似てる?」

「似てる!」「にてる?」「似“せた”!」

「最後のやつ、作者本人かよ」

笑いが少しこぼれて、緊張は一度だけ薄くなる。


壇上で町長が開会を告げ、学院旗が風をはらんだ。

「まずは呼吸同期の披露だ」

レオンが手を挙げると、広場の周囲に並んだ結界石が低く唸りを上げる。

リオンはクロと向かい合った。

「吸って――吐く」

「すぅ」「はぁ」「はぁ」

三つの喉が、美しく重なる。

「……できてる」

胸のどこかが温かい。観衆のざわめきが小さくまとまり、拍手の粒がぱらぱらと落ちた。

カイルが掲示ボードに数字を掲げる。

「呼吸同期、8/10」

「上出来だ!」

「じょうでき!」「じょーでき!」「上出来どや!」

三つ首の内、中央だけが少しだけ高い鼻を鳴らす。それでも、いい流れだ。


続いて視線追従。

リオンが視線で右→左→中央と道筋を描くと、三つの瞳が遅れなく追う。

「視線追従、7/10」

拍手が厚みを増した。子どもたちが背伸びし、屋台の親父が腕を組んで頷く。

(いける。あとひとつ――衝動抑制)

リオンは唾を飲みこむ。胃がきゅっと縮む音まで聞こえそうだ。


「最後の課題は“衝動”だ」

レオンが白銀の狼シルヴァを進ませた。

「外乱を加える。落ち着きと判断を見せてくれ」

広場の端から、太鼓の音。反対側から、紙風船がふわふわと舞い込む。屋台の匂い、子どもの笑い声、太陽が雲から顔を出し、影が鋭くなる。

クロの三つ首が揃って呼吸を合わせ――次の瞬間、中央の首がピクリと跳ねた。

「つかまえたい!」

「だめ、まだだ」

「でも!」

リオンが手を開き、息で合図を刻む。

「吸って、吐いて、目は俺に」

「……すぅ」「はぁ」「は……」


紙風船がふわりと下がり、子どもの手から離れた。

「あっ!」

小さな声。

反射が走る。クロの右が子どもを、左が風船を、中央がシルヴァを睨んだ。三方向に意志が分かれる。

「クロ、待て!」

「待つ!」「ま……つ?」「待てない!」


瞬間、中央の首が踏み出した。三拍のリズムが崩れ、三つの喉が別々の歌を歌い出す。

風が巻き、火が跳ね、水が弾ける。

結界石が唸り、光の壁が広がる――が、太鼓の衝撃で微細なひびが走った。

「下がれ!」

カイルの声が飛ぶ。屋台の布が揺れ、看板の釘が抜けかけ、危うい角度でこちらに傾いた。

(まずい――!)

リオンは駆け出す。子どもの前に身を滑り込ませ、腕を広げ――

「クロ!」

三つ首が同時に咆哮し、炎と風と水を自分の体の内側へ巻き込むように収束した。

その反動で、首輪の金具に走る微かな音。

「――ぱきん」

軽い、しかし決定的な破断音だった。


看板は結界外へ落ち、地面に刺さった。

子どもは無事。シルヴァは体を伏せて衝撃を逃し、レオンが舌打ちした。

広場に重たい沈黙が降りる。

「……今の音、何?」

誰かの呟き。

リオンが視線を落とすと、クロの首輪――トリスの頃から使ってきた赤い革の輪が、真っ二つに割れて足もとに転がっていた。


「……クロ」

「だいじょうぶ」「だいじょうぶ!」「だいじょ……ぶ」

最後の声だけがやけに細い。

喉元には、契約の刻印。名“トリス”、二つ名“クロ”。刻みはそこにあるのに、形のない“温度”がすり抜けていく。

(戻らない。もう“首輪で繋ぐ”段階じゃない――)

胸が、じんと痛んだ。


「デモ、ここまで!」

レオンの宣告は切り捨てるように速かった。

町長が顔をしかめ、結界石がゆっくり沈黙する。

「評議会、臨時にて協議。町モデルは――」

「凍結だ」

短い一言が、場の空気を冷やす。

「看板犬の掲示は一時撤去、広場利用の許可も取り消す」

「そんな……!」

リオンの声はどこに落ちていったのか、自分でもわからない。


「加えて」

レオンの声は冷ややかだった。

「契約の安定が損なわれた。管理権は学院が一時預かる。次回審査まで、クロは学院の保護下に」

「待ってくれ! 今のは俺の判断ミスで――」

「そう。君のミスだ。だからこそ、預かる」

シルヴァが一歩前に出て、クロと目を合わせる。

「……だいじょうぶ?」

クロの三つ首が同時にかすかに頷き、しかし尻尾は一度も振らなかった。


人垣がざわめく。

「子どもは無事だし……」「でも危なかった」

「首輪、割れたの見たか?」

囁き声の矢が、背中に刺さる。

カイルが肩に手を置いた。

「リオン、まずは後始末を。謝罪、修繕、数字を出す。痛いけど、それが筋だ」

「わかってる……けど……」

喉の奥が熱く、言葉が出ない。


片づけのあいだ、クロは簡易の柵の奥に移された。

鉄ではない、柔らかい光の格子。離れていても、そこにいることだけはわかる仕組み。

リオンは格子の外に立ち、手のひらをそっと当てた。

「クロ」

「……おこってる?」

「怒ってない。怖かっただけだ」

「ぼくも、こわかった」「まもれた」「でも、まもれなかった気もした」

「守ったよ。すごく」

言いながら、胸の中で別の音が鳴る。――“首輪が落ちた”。

もう一度、拾い上げても、元の穴には戻らない。


薄暮。

掲示板から看板犬の紙が剥がされる音が、するりと風に紛れた。

代わりに貼られた紙は、簡潔で冷たかった。

《町モデル凍結/広場の利用制限/学院預かり通知》

文字は正しい。だから余計に、胸が痛い。


「リオン」

背に、母の声。

「帰っておいで。パンを焼こう。焼いて、配って、謝る。できることから」

「……うん」

足もとで、割れた首輪の片割れが、月の色を吸っていた。

リオンはそれを拾い、掌の中で握りしめる。縫い目の跡、歯形、古い焦げ。全部が自分たちの日々だ。

(もう“首輪”じゃ繋げない。じゃあ、何で繋ぐ?)

答えはまだない。けれど、穴のあいた革の輪は、もう問うてくる。――お前たちは何者で、どう在るのか。


夜、学院の小さな厩舎のような施設。

クロは光の柵の内側、藁の上に丸くなった。

「にがて」「きらい」「きょうは……ねむい」

三つの声が順にほどけ、眠りは浅く、時々、首だけが別の方向を見た。

リオンは外のベンチに腰をおろし、破れた首輪を膝の上で転がす。

カイルが温かいミルクを差し出した。

「飲め」

「……ありがとう。カイル」

「お前がぜんぶ悪いわけじゃない。だが、ぜんぶ背負うのは、お前の役目だ」

「うん」

「守るだけの契約は、今日で終わり。――次は、“並ぶための契約”だ」

「……わかってる。わかりたい。……わからせろ、って言われてる気もする」

破れた輪を握る手に、ゆっくり力がこもる。


柵の向こうで、クロが身じろぎした。

「リオン」

「いるよ」

「息、きこえる」

「吸って、吐いて、ここにいる」

「……すぅ」「はぁ」「はぁ」

三つの喉が、小さく、ずれながら、しかし確かに返してくる。

完璧じゃない。もう、あの首輪の時のようには揃わない。

(それでも――)

リオンは目を閉じる。

「明日は、話そう。怒らずに。……頼むから、聞いてくれ」

「きく」「きく……かも」「きく!(たぶん)」

「“たぶん”が増えたな」

少しだけ笑い合って、夜風がふっと甘くなる。遠くでオーブンの余熱が冷え、パンの匂いが遅れてやってきた。


首輪が割れて落ちた夜、二人は“守る契約”を失い、次に結ぶべき“並ぶ契約”の前に立たされた。


**


夜の厩舎。

光の柵の向こうで、クロはうずくまり、三つの頭がそれぞれ別方向を見ていた。

「ひとりでできる」「ひとりで……できる?」「ひとり……は、こわい」

声が合わない。呼吸も合わない。


リオンは柵に額を押し当てていた。

(首輪は壊れた。町の信頼も凍った。……残ってるのは、この声だけだ)

「クロ。聞こえるか」

「きこえる」「きこえる……でも」「ききたくない」


その夜、柵は開かれた。学院の監査官が一時的に外での休息を認めたのだ。

クロは小さな身をひらりと翻し、町の灯を背に森へ駆けていった。


「クロ!」

リオンも飛び出した。

背中でカイルの声が飛ぶ。

「行け。今は追うしかない!」


森は湿っていた。雨が通ったあと、葉の一枚ごとに水滴が揺れる。

クロは三つ首で咆哮し、炎と水と風をばらばらに放った。

木々が焼け、泥が跳ね、枝が舞う。


「やめろ! クロ!」

「やめない!」「やめたくない!」「やめられない!」

衝動が暴れ、三拍の呼吸は完全に崩れた。


リオンは心臓が破れそうな勢いで叫んだ。

「もう“守る”だけじゃない! 俺は――お前と並びたい!」


一瞬、三つ首が振り返る。

「なら、なまえを」

「なまえ!」「新しいなまえ!」


リオンは握りしめていた赤い首輪の破片を投げ捨て、胸に手を当てた。

(親子の名“トリス”。幼獣の名“クロ”。……そして今は――)


「お前の三つ目の名は、《リュカ》だ!」


光が走った。

三つ首が同時に瞬きをし、炎・風・水の暴走が霧のように消えていく。


「リュカ……?」

「リュカ……!」「リュカぁぁ!」

三方向から重なった声は初めて一つに聴こえた。


リオンは一歩近づき、両腕を広げる。

「“リュカ”は並ぶ者の名だ。俺と、お前と。――守るでも、従うでもなく、並んで歩く相棒の名!」


刻印が新たに輝き、リオンとクロの胸の間に光の環が浮かんだ。

《共鳴契約》――呼吸と視線、そして意志の同調によって結ばれる第三段階の契約。


「すぅ――はぁ――」

リオンの息に、三つの喉が遅れなく重なる。

瞳が同じ方向を見、尾が同じ速度で振れる。


「……できた。今度こそ」

リオンは涙をこぼしながら笑った。


クロ――いやリュカが三つ首で吠える。

「いっしょに!」「ならんで!」「これから!」


風が、炎が、水が――しかし今度は互いを打ち消すのではなく、螺旋のように絡み合って、森の空気を澄ませた。


夜明け。

森を抜け、町に戻る二つの影。

リオンは肩で息をしながらも、胸は軽かった。

リュカは三つ首同時に口笛のような音を立て、朝焼けに響かせた。


「お前……ほんと、手のかかる相棒だ」

「相棒!」「あいぼー!」「あいぼぉぉぉ!」

リオンは笑って頭を撫で、肩を並べた。


“リュカ”と呼ぶ声が、三つ首を親子から相棒へと変え、共鳴契約の光を生んだ。


**


朝の広場に、湿ったパン屑の甘い匂いと、昨夜の雨の金属の匂いが残っていた。

結界石は磨かれ、屋台の布は張り直され、掲示板には太い字で《再公開デモ 本日》――凍結の判を上から白で塗りつぶした跡がまだ透けている。鐘楼の金が低く鳴り、空気の膜が一枚震えた。


「やるのか、本当に」

カイルが手帖を閉じ、リオンの肩を軽く叩く。

「やる。昨日、森で決めた」

リオンは深く息を吸う。胸の内側で、三拍のリズムが静かに起動する。

隣では三つ首の相棒――リュカが、いつもの三色帽子をやめ、首に赤い布切れを結んでいた。割れた首輪の破片からほどいた糸で、母が夜のうちに縫い直した粗い飾りだ。


学院旗が揺れ、レオン=アーベントが壇上へ出る。白銀の狼シルヴァは静かに伏せ、銀糸のような毛並みが朝陽を弾く。

「学院監査、再開する。条件は昨日と同じ――呼吸、視線、衝動。ただし今回は、僕らも同じ場で示す」

「ありがと」

リオンは小さく礼をした。腹の底に残っていた苦い塊が、朝の空気で少し溶ける。


町長が杖を鳴らす。

「では、開始――」

「待ってください!」

リオンは一歩、前へ。

「今回は勝ち負けじゃない。俺たちは《思春期対話作戦》で臨む。勝利条件は“討伐”でも“従順”でもなく、全員の息を鐘に合わせることだ」

ざわめき。

「鐘……?」

「全員……って狼も?」

「もちろん。シルヴァも、観客も、町も学院もだ」


レオンが片眉を上げた。

「大胆だね。もし合わせられなければ?」

「俺たちの負けだ。管理権の話も、甘んじて受ける」

声は震えず、しかし喉の奥はよく知る痛みでじくじくした。(失敗すれば離れる。だからこそ、今日ここで繋ぐ)


結界内に入ると、石の温度が靴底から指先へ伝わった。リュカの三つの鼻が同時にひくつき、耳が鐘楼を向く。

「リュカ、作戦、確認するぞ」

「対話」「たいわ!」「タイ(ミング)わ!」

三つ首の掛け声がかぶり、笑いが起きた。緊張の角がわずかに丸くなる。


第一段――呼吸。

リオンは観客に向かって手を広げた。

「みんな、三拍で吸って吐いて。鐘の音に合わせる」

「やってみるか」「せーの?」

リュカが三つ首で指揮者のように首を上下させる。

「すぅ」「はぁ」「はぁ」

円の内と外、町と学院、子どもも老人も狼も三つ首も、空気の出入りをゆっくり共有する。鐘楼が一つ、また一つと鳴り、金属の揺れが胸郭の奥で丸い波になる。

(届いてる。昨日、森で光った輪は、ここでも消えない)


第二段――視線。

リオンは右手をレオンへ、左手を町長へと開き、最後にカイルへ目を戻した。

「誰を見て、どう渡すか。俺が目を渡す。――受け取って、返してくれ」

レオンが微笑をわずかに崩し、目を受けて、シルヴァへと橋渡した。

シルヴァの冷たい灰色の瞳に、すっと揺らぎが走る。

リュカの三つの瞳が、遅れず三方向に散り、最後に中央で合流した。

「視線、追従、7.5!」

カイルの声に、広場の笑いがひとつ増える。


第三段――衝動。

太鼓が打たれ、紙風船が舞い、子どもが走る。昨日、崩れた場面だ。

リュカの中央の首が反射で前に出かけ――

「待って。発散じゃなくて翻訳だ」

リオンが短く言う。

「炎は合図、風は距離、水は終わり。――三拍で“やめる”を“届く”に変えろ」

「合図」「距離」「終わり」

三つ首がそれぞれ役割を取る。

中央が足もとに小さな炎輪を灯し、観客の注意をこちらに引き、左が柔らかい風で紙風船の軌道を子どもへ返し、右が水滴で太鼓の最後の打音を優しく落とした。

太鼓の青年が目を丸くし、紙風船を受け取った子どもが「ありがとう!」と笑う。

衝動は暴れず、役目になった。


「――これが《思春期対話作戦》。反射を叱るんじゃなく、意味に置き換えて社会へ渡す」

リオンは声を張らず、しかし遠くまで届くように言った。胸の深いところから出した音が、鐘の余韻に重なる。


レオンが一歩進み、口元を指でなぞる。

「理屈はいい。では――僕らも合わせよう」

シルヴァが立ち上がる。白銀の背毛に朝の光が縫いこまれ、爪が石を軽く叩く。

「狼さんも、いっしょ?」

観客の子の声に、レオンがわずかに笑った。

「もちろん。――シルヴァ、呼吸」

狼の胸が大きく膨らみ、吐く息が白く光る。鐘の二拍目に少し遅れて、三拍目できっちり合った。

「視線」

レオンの指が空に道を作り、狼の瞳がすべてを追い、最後にリュカと結ぶ。

「衝動」

太鼓がひとつ跳ねる。狼は前に出ない。代わりに、地面を一度だけ軽く蹴って、音だけで合図を返した。


ふいに、リュカの中央の首が狼へ小さく吠えた。

「もう一回、いっしょ」

狼は目を細め、無言で頷いたように見えた。


レオンがリオンを見た。勝負の光ではなく、試す光でもなく、ただ“問う”光。

「最後の条件――鐘合わせをやろう。町の鐘に、双方と観客、全員の呼吸を合わせる。二十拍、乱れたら負け」

「よし、受ける」

カイルがぱんと手を鳴らし、数え板を掲げる。

「合図は鐘だ。三、二、一――」


金。

空気が波打つ。リオンは吸い、吐く。

リュカの三つの喉が、同じ三拍で鳴り、観客の胸がそれに追いつく。

金。

子どもが笑い、老人が肩を落とし、屋台の油の匂いがひとつ深くなった。

金。

三拍目でシルヴァが静かに息を落とす。レオンの肩の力が一分だけ抜けたのが、遠目にもわかった。

金。

四拍目、紙風船が風に揺れた。リュカの右の首が視線だけ追い、体は動かない。

金。

五拍目、太鼓の青年が思わず叩きたくなる手を押さえ、笑って深呼吸した。

(いける。みんな、同じ音で生きてる)


十拍、十五拍――

十八拍目、リュカの中央の首がほんの少しだけ前に出た。

「いきたい」

「いこう。――二十で」

リオンが目で言い、リュカが目で頷く。

十九。

町長が杖を胸に当て、小さな息を重ねた。

二十。

鐘の余韻が広場に降り、拍手の粒が雨みたいに弾けた。


「成功――全員、鐘合わせ達成!」

カイルの声が、誰よりも最初に笑いへ崩れた。

リュカが三つ首で一斉に「わふっ!」と吠え、場の空気がふっと軽くなる。

子どもが太鼓を一度だけ叩き、狼がそれに尻尾で答え、リュカが水滴をひとつ飛ばして音の終わりを柔らかくした。


レオンが静かに拍手した。

「認めよう。勝者は“共鳴”だ。敗者は……いや、敗者はいない。僕も、学んだよ」

彼はシルヴァの首元を掻き、少し照れくさそうに続けた。

「君の“翻訳”の考え方――衝動を意味へ。学院でも取り入れる。報告書の題にするなら……《思春期対話作戦・現場実証》かな」

「題名が堅い」

「学院だからね」

二人の苦笑に、周囲の笑いが重なる。


町長が杖を掲げた。

「暫定――凍結解除。広場の看板も、戻そう」

「やったー!」

子どもたちが跳ね、屋台の親父が「お祝いパンは半額だ!」と叫ぶ。

リオンは肩を落とし、次の瞬間には肩を上げた。胸の奥にある輪は、首輪ではない。息で繋がる輪だ。


「リュカ」

「いる」「きいてる」「おやつ!」

「最後、そればっか」

笑いながら、三つの額にこつんと触れる。そこへ、レオンが一枚の紙を差し出した。

「学院の次の提案。“協定”を結ぶかどうか、明日返事を。――競うだけでなく、並ぶための枠組みだ」

紙には小さく《共鳴契約協定(案)》の文字。

(明日だ。今日の作戦が終わってから考えよう)


日が傾き、鐘楼が長い影を落とす。

リュカが中央の首で、鐘の影を噛むふりをして、すぐやめた。

「きょうは、やめる」

「偉い」

「えらい!」「えらい(どや)」

リオンは声を立てて笑った。笑いが息になり、息が輪になる。


倒す代わりに、合わせる――《思春期対話作戦》が町と学院の鐘を一つにした。


**


パン屋の朝。

「いらっしゃいませー!」

カランと鐘が鳴るたび、リュカの三つ首が胸を上下させ、三拍で「すぅ」「はぁ」「はぁ」と呼吸を合わせる。

客の子どもが真似をして息を吸い、吐く。

「ほら、同じだ!」

「すごーい!」

拍手がわき、パンの香りに重なるように笑い声が広がった。


かつて“看板犬”と呼ばれたその姿は、今や《共鳴契約》の象徴だった。


昼の広場。

リュカは子どもたちの遊び相手になり、三つ首を指揮棒代わりにして即席の合唱隊をまとめていた。

「すぅ!」「はぁ!」「はぁ!」

子どもたちがそれに合わせて合唱し、最後に「ぱん!」と手を叩いて締める。

町長が目を細め、杖を軽く叩いた。

「騒乱指定から、よくここまで……。まさに“共鳴の町”だ」


学院の監査官も、掲示板に新しい紙を貼る。

《共鳴契約協定(案)》――町と学院が協力し、共生モデルを未来へ広げるための協定案だ。


レオンがリオンに手を差し伸べる。

「ライバルから、協力者へ。……どうかな?」

リオンは苦笑して、その手を取った。

「まだ胃は痛いけどな」

「僕もだ」

二人の握手に、シルヴァとリュカが鼻を合わせた。


夕暮れ。

屋根の上に並ぶ二つの影。

リオンとリュカは、鐘楼の音を聞きながら呼吸を揃えていた。

「吸って」「はぁ」「はぁ」

三つの声が重なるたびに、胸の奥に静かな輪が生まれる。


「なあリュカ。俺たちの契約って……次の世代に渡せると思うか?」

「わたせる」「わたす」「わたそう!」

「誰に?」

「こども」「あたらしい召喚士」「まだ見ぬ……友だち」


リオンは頷き、鐘楼の影に目をやった。そこでは町の子どもたちが、小さな石を並べて三拍のリズムを刻んでいた。


(ああ、もう始まってるんだな。俺たちのあとを歩くやつらが)


リュカの三つ首が肩に寄り添う。

「リオン」

「ん?」

「おやつ」

「最後は結局それか!」


二人の笑い声が鐘の音に重なり、町全体に温かく響いた。


看板犬の首輪はなくとも、《共鳴契約》の輪が町と学院をつなぎ、未来へと受け継がれていった。


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