第1話
「……おなか、痛ぇ……」
寮の硬いベッドに寝転んだまま、主人公リオンは腹を押さえて呻いた。
「またそれ? 胃薬より先に魔導書を読み込めっての」
同室の相棒カイルが、枕元から分厚い『召喚士基礎典』を投げて寄越す。
リオンは本を受け止め損ねて額にぶつけ、「痛っ!」と叫んだ。
「だからだよ。俺は失敗ばっかで、明日の卒業試験も絶対やらかす……」
「はいはい。“なんでこうなるんだ!”の時間だな」
カイルが呆れ顔で指を鳴らすと、寮のランプが魔法で灯り、部屋が明るくなった。
外は春の夜。学院の高い尖塔を渡る風の音がかすかに聞こえる。窓の外では境界召喚陣の光が、試験前の点検で青白く脈動していた。
食堂に下りれば、明日試験を控えた学生たちで賑わっていた。誰もが不安を笑いでごまかし、契約魔獣との未来を夢見ている。
「リオン、お前はどんな魔獣を呼ぶつもりなんだ?」
「え、そ、そりゃ……普通の狼とか……犬系とか……」
「“普通”って、召喚にないからな。おまえ、ほんとに勉強してんの?」
友人らの冷やかしに、リオンは笑うしかなかった。スープを口に運んでも味が薄い。胃の奥がきゅうっと縮む。
――契約魔獣。
召喚士の一生を左右する相棒。成功すれば一人前、失敗すれば追放。
彼の家族は街の小さなパン屋だ。息子が学院に受かった時、父は店の看板を磨き直し、母は涙を流した。だからこそ、落第は許されない。
「俺が一人前になれば、家にも誇れる。絶対に、絶対に……」
心で繰り返すたびに、背中を汗がつたった。
「リオン」
カイルが横に座り、真剣な顔で囁いた。
「お前の弱点は焦りだ。召喚陣は心の鏡だぞ。自分を信じろ」
「……信じられりゃ苦労しねぇよ」
「まあな。でも俺は信じてる。だから、お前がやらかしたら俺が片付ける」
「おい!」
思わず声を荒げ、まわりの笑い声がまた起きる。
それでも少しだけ、胃の痛みが和らいだ気がした。
寮に戻る道すがら、境界召喚陣の青白い光が夜道を照らしていた。
石畳の上に浮かぶ幾何学模様。そこに立てば、明日、自分の魔獣が現れる――はずだ。
「……俺にだってできるよな?」
呟きは夜に溶け、誰も答えない。
それでも、その問いは彼の胸に重く残った。
**
「受験番号二七三番、リオン=フェルディナンド」
試験官の声が響くと、会場のざわめきがすっと消えた。
リオンは手のひらの汗を制服でぬぐい、境界召喚陣の中央に立った。
まわりを取り囲むのは教授陣と数百人の学生。青白い光を放つ円陣の中、息が詰まりそうになる。
「……大丈夫、大丈夫だ。俺にだってできる」
小声でつぶやき、魔導書を開く。
「いざとなったら俺が掃除するからな」
客席からカイルの声。リオンはこめかみを引きつらせ、深呼吸を一つ。
両手を掲げ、呪文を唱え始める。境界召喚陣がじわりと熱を帯び、光が増してゆく。
「……来い、俺の契約魔獣!」
叫んだ瞬間、轟音。光柱が天井を突き破る勢いで立ち昇り、観客席が悲鳴をあげた。
次の瞬間、どすん、と重たい音。
「わあああああっ!?」
陣の真ん中に現れたのは――小さな毛玉。
いや、毛玉……?
黒い毛並み、ちょこんとした足。丸っこい体がごろんと転がり、
「くぅーん……」
と鳴いた。
……が。
むくりと頭が三つ、順番に起き上がった。
「ぎゃあああ!」「みぎゃあ!」「ふぎゃあああん!」
三方向にずれた調子外れの泣き声。
会場が凍りつく。
「――――ケルベロスだッ!!!」
教授の一人が絶叫した。
「災厄指定の魔獣!」「封印を!」「いや、まだ赤ん坊……?」
怒号と悲鳴が入り混じり、会場は大混乱。
リオンは呆然と立ち尽くす。
「え、ええぇぇぇ!? なんで赤ちゃん!? しかも三つ首!?」
毛玉ケルベロスはよろよろと立ち上がり、三つの首をぐるりと振り回した。
一つはくしゃみをし、一つは床を噛み、一つはリオンのマントをがぶり。
「いだだだだ! 噛むな! 俺はお前のごはんじゃない!」
教授が杖を振り上げた。
「今すぐ討伐を――」
「待ってください! まだ何も悪さしてません!」
リオンが叫んで飛び出す。抱きかかえようとした瞬間、毛玉ケルベロスは「ひゃっ」としゃっくりをし、口から小さな火花を吐いた。
ぽふっ。
観客席のカーテンが燃え上がる。
「火ぃ吐いたあああ!」「やっぱり災厄だ!」
消火魔法の光と悲鳴が交錯し、試験場は戦場さながら。
リオンは必死で子ケルベロスを抱え、ばたばたと走り回る。三つ首は好き勝手に鳴き、よだれを垂らし、尻尾を振る。
「ぎゃあああん!」「ぶえええ!」「ばぶぅー!」
「おい泣くな! 頼むから静かにしてくれええ!」
カイルが駆け下りてきた。
「リオン! お前、災厄指定だぞ! やっちまったな!」
「なんでこうなるんだああああ!!」
子ケルベロスはリオンの胸にすり寄り、三つの頭で同時に「ふにゃー」とあくびをした。
その無防備さに、一瞬だけ会場が静まり返る。
「…………赤ちゃん、なのか?」
誰かの呟き。
だが次の瞬間、学院中に非常鐘が鳴り響いた。
「全学生に告ぐ! 災厄指定、出現!」
「討伐隊を編成せよ!」
リオンは硬直する。腕の中で、三つ首はすやすや眠り始めていた。
**
「繰り返す、討伐一択だ!」
学院大講堂に響き渡る声は、白髭をたくわえた老教授のものだった。
壇上に集う教授陣。客席には生徒代表や見習い召喚士たち。非常鐘の余韻がまだ耳を震わせる。
中央の檻に収められたのは――赤ん坊ケルベロス。
三つの頭を左右にぐらんぐらん揺らし、檻の鉄棒をガジガジ噛んでいる。
「がぅっ」「あむっ」「ばぶっ」
鉄棒はあっという間に歯形だらけだ。
「災厄指定を見逃すなど正気の沙汰ではない!」
「だが、見よ。まだ赤子にすぎぬ!」
「赤子でもケルベロスはケルベロス。成長すれば学院ごと食い尽くすぞ!」
「……」
罵声と怒号が飛び交う中、リオンはうなだれていた。
(俺のせいだ。召喚失敗して……こんなの呼び出して……)
腕の中では、さっき授乳したばかりのケルベロスが「くー……すぴー……」と三重奏の寝息。
会議の騒音をものともせず、尻尾をふりふり夢の中。
「なぁリオン」
隣のカイルが小声でささやく。
「この空気、やばいぞ。完全に討伐派優勢だ」
「だよなぁ……」
「お前、どうする?」
「どうするって……俺が決められることじゃ――」
そのとき。
「――飼育案を提示する」
冷徹な声が壇上に響いた。
魔導生態学の教授が広げたのは、長大なパーチメント。そこにはびっしりと数字が並んでいる。
「一日のミルク消費、二十四リットル。肉類、三十キロ相当。睡眠時間は不規則、夜泣きあり。さらに三つ首それぞれに精神的刺激が必要」
ざわめき。教授は淡々と続ける。
「飼育には“保育結界”の設置が必須。防火、消臭、防音、さらには暴走封じ。結界維持に必要な魔力は、毎日上級召喚士三名分に相当する」
「三名分!?」「無理だろそんなもん!」
学生たちがざわつく。
教授は最後に一言。
「飼育を望む者は――相応の犠牲を背負うことになる」
討伐派の教授がにやりと笑った。
「つまり、現実的ではないということだな。リオン=フェルディナンド、貴様の責任をどう取る?」
リオンは立ち上がる。頭が真っ白だ。
(責任……俺が……?)
カイルが袖を引いた。
「いいから黙ってろ。下手に答えるな」
「……でも」
眠るケルベロスの重みが腕に伝わる。小さな体はあったかく、尻尾はまだ夢の中でゆるやかに揺れている。
(この子を……俺が呼んだんだ)
気づけば、声が出ていた。
「――俺が、育てます!」
会場が爆発した。
「正気か!?」「無謀だ!」「愚か者め!」
討伐派が怒鳴り、存続派が口を押さえて目を見開く。
カイルが「お前なぁぁ!」と絶叫。
リオンは震える声を張り上げる。
「俺が責任を取ります! この子は……俺の魔獣です!」
教授たちが一斉にざわめいた。
老教授が杖を叩く。
「ならば、学院の監督下で試すがいい。失敗すれば討伐。それが条件だ!」
こうしてリオンは――唯一の“飼育者”に指名された。
夜。保育結界で覆われた一室。
ケルベロスの寝床には藁と布団。三つ首はそれぞれ違う夢を見ているのか、片方は舌を出し、片方は寝言で「わふ」と鳴き、もう一方は鼻をぶーぶー鳴らす。
リオンはその前で崩れるように座り込んだ。
「……なんでこうなるんだ……」
「決めたのお前だろ」
カイルが呆れ顔で肩を叩く。
寝息と、二人のため息。保育結界の光が、夜通し静かに瞬いていた。
**
「ぎゃあああ!」「ばぶばぶ!」「がぶっ!」
朝から保育結界はカオスだった。
「ちょ、待て! 同時に噛むな! 腕は二本しかないんだぞ!」
リオンが叫んでも、赤ちゃんケルベロスは聞いちゃいない。
左の頭は甘噛みでリオンの袖をひっぱり、真ん中はミルク瓶をがじがじ、右の頭は勝手にカーテンに飛びついて引きちぎる。
「……すでに部屋が廃墟なんだけど」
カイルがため息をつき、消火用の水魔法で焦げかけの布を消す。
「こいつら、俺より魔力消費してないか?」
「まあ“災厄指定”だからな」
「赤ちゃんなのに!?」
授乳タイム。
リオンは両手にミルク瓶を二本持ち、さらに口で一本を支える。
「よし、同時にいけ……いけるか……? せーの!」
三つ首が一斉にごくごく飲む。リオンはバランスを崩し、尻もち。
ミルクは半分こぼれ、床はべちゃべちゃ、子ケルは大喜びでじゃぶじゃぶ。
「もう風呂入れと変わらん!」
「毎回これなら、三頭覚醒する前にお前が倒れるな」
「三頭覚醒って何だよ!」
「生態学の講義にあっただろ。三つ首がそれぞれ性格を確立して、同時に行動する段階だ」
「そんなの覚えてねぇよ!」
午後の散歩。
保育結界の庭で、子ケルベロスをロープにつないで歩かせる。
「よし、順番に歩けよ。右、左、右――」
「わふ!」「がぅ!」「きゃう!」
三つ首はバラバラの方向へ突進。リオンはロープに引きずられ、芝生を転がる。
「ぎゃああ! 服が草まみれ!」
「……もはや犬の散歩じゃなくて三頭竜の調教だな」
カイルは木陰でメモを取りながら冷静に分析。
転がりながらリオンは、必死に声を張る。
「落ち着け! 順番に! 俺の声を聞け!」
その瞬間、三つ首がぴたりと動きを止め、こちらを見た。
「……え?」
わずかな一拍。三つの瞳に、同じ光が宿った気がした。
だが次の瞬間――くしゃみ、くしゃみ、くしゃみ。
「へくちっ!」「ふしゅっ!」「ぶしゅん!」
三連発の小火炎で庭木が燃え上がる。
「おおおいぃぃぃ!!」
夜。
保育結界の中で、リオンは寝不足でふらふら。
子ケルベロスは夜泣き三重奏を披露中だ。
「うぇーん!」「ぎゃー!」「ひぃー!」
「うああああ! 俺に休みをくれええ!」
頭を抱えたリオンの背に、カイルの声が落ちる。
「……お前、ちょっと笑ってるぞ」
「は?」
「疲れすぎて壊れたんじゃなくてさ。嬉しそうなんだよ」
リオンは子ケルベロスを抱き上げ、三つの頭を順に撫でる。
「……だってさ。こいつら、俺を頼って泣いてるんだ」
「……」
三つ首は泣き止み、ひとつはリオンの指を甘噛み、ひとつは胸に顔をうずめ、もうひとつはうとうとし始めた。
「な? こいつら、俺の声を覚えてきてる」
「……三頭覚醒は近いかもな」
カイルの声は、少しだけ優しかった。
**
夕暮れの保育結界。
リオンは子ケルベロスを撫でながらため息をついた。
「最近、ちょっと落ち着いてきたよな……?」
「きゃぅ」「ばぶ」「ふにゃ」
三つ首はごきげんに返事をし、尻尾を振る。
カイルも隣でノートをめくりながら頷いた。
「確かに。夜泣きも減ったし、声で指示を聞くようになった」
「だろ? もう災厄指定なんかじゃなくて、ただの……」
その瞬間だった。
「――ぎゃうっ!」
三つ首が同時に吠え、口から炎と風と衝撃波をぶちまけた。
結界がきしみ、床が揺れる。
天井の一部が崩れ、外の廊下に火が回った。
「な、なんで今!?」
「三頭覚醒の兆候だ……!」
カイルの顔が青ざめる。
非常鐘。
学生たちの悲鳴。結界の外で教授たちが呪文を唱え、鎮火に奔走する。
「リオン! お前のケルベロスが!」
「違う! こいつはただ――!」
弁解はかき消される。赤ん坊の泣き声が、災厄の合図に聞こえてしまう。
ケルベロスは火の粉に驚き、自分でまた火を吐いた。
「ばぶぅぅぅ!!」
爆発。窓が割れ、教室がひとつ黒煙に包まれた。
「……まずい。これはもう言い訳できん」
カイルが頭を抱える。
数日後。学院評議会。
壇上の教授が宣告した。
「リオン=フェルディナンド。貴様の召喚は取り返しのつかぬ被害をもたらした。学院は貴様を追放とする」
ざわめきが広がる。
「そんな……!」
リオンの抗議は短く断ち切られた。
「災厄指定を飼育する余地は、もはやない」
カイルが立ち上がった。
「待てよ! あれは事故だ! 赤子が驚いただけで――」
「黙れ、監督責任者。決定は覆らぬ」
リオンは呆然としながら腕の中の子ケルを見た。
三つ首は不安そうに小さく鳴き、しがみついてくる。
(……手放せって? 俺に?)
教授が命じた。
「ケルベロスは没収、封印処分とする」
リオンは叫んでいた。
「絶対に渡さない!!」
会場が凍りついた。
「俺が呼んだ! 俺が育てる! 追放でも何でもいい! こいつは……俺の子だ!」
三つ首が同時に「わふっ!」と吠え、リオンの胸に顔をうずめた。
老教授は杖を突きながら低く言う。
「……ならば去れ。学院の庇護も、仲間も、資格も失って」
その瞬間、リオンの居場所は消えた。
夜。
学院の門の外。リオンは小さな荷物を背負い、子ケルベロスを抱いて歩き出す。
門の上からカイルが叫んだ。
「バカ野郎! どこへ行く気だ!」
「さあな。でも……俺の腕から離さない。それだけだ!」
三つ首が小さく鳴く。
「くぅん……」「ふにゃ……」「ばぶ……」
門が閉ざされ、重い鉄の音が響く。
リオンの胸に残ったのは、ぬくもりと責任だけだった。
**
冷たい夜風が吹き抜ける路地裏。
リオンはマントにくるんだ三つ首を抱き、古びた木箱に腰を下ろした。
「……金もねぇ、食料もねぇ、宿からは追い出されるし」
「ふにゃ?」「わふぅ?」「ばぶっ?」
三つ首が同時に顔を上げ、リオンの顔を覗き込む。
「……いや、責めてないよ。俺が未熟なせいだ」
腹の虫が鳴く音と、子ケルベロスの鳴き声が混じり合う。
どこか哀しい三重奏だった。
日中、町で起きた出来事が頭をよぎる。
市場に立ち寄った時、子ケルが突如暴れて肉屋の台をひっくり返した。
「ぎゃうぅ!」と炎を吐き、鶏肉を焦がした。
「ひいい! 災厄指定だ!」
町人たちの悲鳴、石を投げる声。
リオンは必死で抱えて逃げた。
(俺には止められないのか……? この子の力を……!)
背中に冷たい絶望が広がっていく。
夜更け。
廃墟の屋根の下、三つ首はそろって泣き始めた。
「ぎゃー!」「うぎゃ!」「ぶぇぇ!」
「……もう勘弁してくれよ」
リオンは膝を抱え、頭をかきむしる。
「俺じゃダメなのか? 結局……学院が正しかったのか?」
その時だった。
三つ首の一つが涙まみれの顔で、リオンの手を甘噛みした。
もう一つが胸に顔を押し付け、もう一つが彼の頬をぺろりと舐めた。
「……っ」
リオンの胸に熱いものが込み上げる。
(この子たちが暴れるのは……俺に名前を呼んでほしいから? “お前たち”じゃなくて、“お前”でいてほしいから……?)
リオンは立ち上がり、震える声で言った。
「聞け! お前は……お前の名前は――《トリス》だ!」
三つ首が同時に反応した。
瞳が輝き、鳴き声が重なり合って響く。
「わふっ!」「わふっ!」「わふっ!」
保育結界もない廃墟の空気が、柔らかい光に包まれる。
リオンの胸に、熱い契約の刻印が浮かび上がった。
――命名契約。
呼び名を与えることで、魔獣と召喚士の心が結びつく。
トリス(三つ首)はリオンの膝に飛び込み、三つの顔を同時にすり寄せてきた。
リオンは涙をこらえながら抱きしめる。
「……これからは、お前は災厄なんかじゃない。俺の相棒だ」
「きゃぅ!」「ばぶ!」「がぅ!」
三重奏の鳴き声が夜空に響き、星を震わせた。
その様子を遠目に見ていた影があった。
討伐派の使者。
「……名を与えたか。いずれ“覚醒”するぞ」
リオンはまだ気づかない。
命名が祝福と同時に、新たな戦いの序章であることに。
**
夜の草原に、たいまつの列が迫ってくる。
鎧に身を固めた討伐隊。学院から派遣された魔導兵たちが、光の波となってリオンの野営地を取り囲んだ。
「リオン=フェルディナンド!」
討伐派の代表が声を張り上げる。
「災厄指定ケルベロスを即刻引き渡せ!」
リオンは抱きかかえるトリスを見下ろし、小さく息をついた。
「……やっぱ来たか」
三つ首は同時に吠える。
「がぅ!」「ばぶ!」「きゃぅ!」
もう赤子の鳴き声ではなかった。
カイルが横に立つ。
「相変わらず馬鹿なタイミングだな。だが……やるんだろ?」
「ああ」
リオンは頷く。
「俺たちの作戦名は――《三頭覚醒作戦》!」
その瞬間、トリスの三つの頭が一斉に輝きを放ち、影が大地を覆った。
討伐隊が呪文を放つ。炎の矢、雷の鎖、封印結界。
トリスは正面から受け止める。
左の首が風を吸い込み、結界を吹き飛ばす。
右の首が水を吐き、炎を呑み込む。
中央の首が吠え、雷を逆流させた。
「な、なんだこの制御……!」
討伐隊が怯む。
リオンは叫ぶ。
「俺とトリスは一つだ! 災厄じゃない、絆の証明だ!」
討伐代表が杖を振り下ろす。
「ならば力で証明してみせろ!」
魔力の奔流がトリスを直撃する。
リオンは必死にしがみつき、声を張り上げた。
「トリス! 俺の声を聞け! 同じリズムで! 三つの心を合わせろ!」
三つ首が同時に吠える。
響き合う声が大地を揺らし、空の星々を震わせた。
――三頭覚醒。
三つ首の動きが完全に同期し、一つの生き物として駆け出す。
突進。
炎と風と水が混じり合い、虹のような奔流となって討伐陣を包む。
兵たちは武器を落とし、結界が霧散した。
しかし、誰一人傷ついてはいなかった。
光の渦は彼らを優しく押し返しただけだったのだ。
「……な、何だ、この温かさは……」
討伐代表が呆然とつぶやく。
リオンは声を張る。
「これが“災厄”の正体だ! 名を与えれば、力は破壊じゃなくて守るために使える! これが三頭覚醒作戦だ!」
トリスは三つの頭を下げ、兵たちを見つめる。
「わふっ……」
その無邪気な鳴き声に、重苦しい空気がふっとほどけた。
カイルが肩をすくめる。
「証明終了、ってとこだな」
「まだ完全に認められたわけじゃない。でも……第一歩だ」
リオンはトリスの背を撫でながら、草原に立ち尽くした。
**
朝の光が差し込む草原。
リオンは伸びをして、となりの影を見やった。
そこにいたのは――もう赤ん坊ではないトリス。
丸っこい毛玉はすでになく、三つ首それぞれが凛々しく伸び、背丈はリオンの肩に届くほどに。
「おはよう……」
リオンがつぶやくと、三つの声が重なる。
「おはよう、リオン」「おはよー!」「……おは」
リオンは目を丸くする。
「しゃ、喋った……!」
カイルがパンをかじりながら苦笑した。
「三頭覚醒したんだから当然だろ。次は授業で“ディベート”させたらどうだ?」
「俺はもう十分に頭痛い……」
町に戻ると、人々の視線が集まった。
「あれが災厄指定……?」「いや、子どもたちが撫でてるぞ……」
実際、トリスは広場で子供たちに囲まれ、三つ首それぞれが順番に遊んでやっている。
左の首は鬼ごっこ、右の首はなでられてうっとり、中央の首は子供の落としたパンを器用に拾って返す。
「……お前、完全に保育士だな」
リオンが呆れると、トリスは三つ首同時に得意げに胸を張った。
「わふん!」
その日の夕方。
学院から使者がやってきた。かつて追放を宣告した老教授だ。
「……ケルベロスの名を呼んで歩く姿を、町の者から聞いた」
リオンは身構えた。だが教授は杖を地につき、深く息をついた。
「災厄ではなく、共存の形を示した。それはお前の功績だ」
「……じゃあ、俺を戻すのか?」
「学院に戻るかどうかは、お前次第だ。ただし――」
教授はリオンとトリスを見据えた。
「今度は“継承契約”を結ぶ番だ。召喚士と魔獣の絆を、次代へ伝える覚悟があるならな」
リオンは頷いた。
「もちろんだ。俺とトリスは、これからも一緒に生きる」
三つ首が同時に吠える。
「わふっ!」「がぅ!」「きゃぅ!」
夜。
焚き火のそばで、リオンはトリスの三つ首を順に撫でた。
「思えば、最初はただの泣き虫で、よだれだらけで……」
「ばぶ?」と真ん中の首が首をかしげ、他の二つが笑うように鳴く。
カイルが火を見ながら言った。
「育児は終わったんだな。これからは相棒だ」
「……ああ。俺はやっと“一人前”になれた気がする」
リオンは静かに呟いた。
「大丈夫だ。もう、なんでこうなるんだなんて言わない」
トリスは三つの頭を同時に彼の肩に寄せた。
その温もりは、もう災厄ではなく、祝福そのものだった