第81話 江田島の夜明け
少女は夢を見ていた。
暗く、無味乾燥な空気だけが漂う鉄格子付きの部屋。そこに何日も、何週間も、いつの間にか何年も、時の感覚もないまま詰め込まれていた日々。漆黒の闇の中、眠りかけたところで無造作に叩き起こされる。 ガチャリ―― 錆びた鍵が外れる重い音。薄明かりの廊下に追い立てられ、同じ境遇の仲間たちと無言で列を作って歩く。延々と続く廊下の先は、荒涼とした砂漠に囲まれた巨大な研究施設。そこで夜明け前から厳しい鍛錬が始まる。
体は命じられるままに動く。だが心は凍りついていた。何も感じない。何も思わない。決められたカリキュラムを、ただ淡々とこなすだけ――。あの頃の自分は、きっと心が死んでいた。ふっと、まぶたが開く。目尻から温かい涙が一筋、頬を伝っていた。
◇◆◇
黄幡麗は今、古新開の恩師であり、防衛省お抱えの科学者・両谷強一郎の計らいで、江田島の次期特殊戦隊隊員候補として訓練を受けている。ここは江田島市某所、海上自衛隊の秘密基地。その女子寮の一室だった。
麗に与えられた部屋は一人用で、白い壁も床も清潔そのもの。整ったベッドに、艶やかに磨かれた机。きちんと畳まれた予備の制服が、無駄のない秩序を物語っている。外の冷気を寄せつけない室内は、肌をやわらかく包む温もりに満ちていた。机の時計は、まだ夜明け前を指している。起床時間まではたっぷりと余裕があった。
彼女は正規の海自隊員ではないため、ある程度の自由がある。布団から抜け出し、迷いなく着替えを済ませると、部屋を出て当直の女性自衛官に軽く会釈し、そのまま外へ。吐く息は白く、空の端からわずかに紅が滲み始め、水平線の向こうで朝日が夜を追い払っていく。
(あいつ、今日もあそこにいるはず)
胸の奥が微かにざわめき、自然と足が動く。江田島は海と山に抱かれ、都会の喧騒から程よく距離を置いた育成の地。走り出すと、潮の匂いとひんやりした空気が頬を撫でる。山間を抜け、長い下り坂を風を切って駆け下り、やがていつもの浜辺へ――そこに、やはり彼はいた。体力には自信がある。けれど、その背中を目にしただけで、なぜか心臓が早鐘を打つ。彼は私の命の恩人。そして……初恋の相手でもあった。
「おはよう、古新開くん。調子はどう?」
声をかけると、彼が振り返り、眩しい笑顔を見せた。
「おはよう! 黄幡さん。まあ、控えめに言って絶好調だぜ!」
あまりの勢いに、思わず吹き出してしまう。
「プッ! 思い切り言ってるじゃない」
「ハハハハハ! まあ、俺の場合は絶好調か、すこぶる絶好調か、どっちかだからなぁ」
胸を張って言うその様子は、まるで少年のように無邪気だ。
「はいはい。よくわかりましたわ」
呆れたように返しながらも、口元が緩む。
二人は笑い合い、波の音を背に砂浜で向かい合った。
「じゃあ今日も手合わせお願いできるか?」
彼が期待に満ちた瞳を向けてくる。
「ふふっ、いいわよ。今日も軽く揉んであげるわ」
言葉と同時に、すっと足を滑らせ太極拳の構えに移る。彼もすぐに同じ構えを取った。互いの腕がそっと触れ合う。「推手」――相手の力を感じ取り、流し、操るための太極拳の稽古法。相手の動きを感じ取る「聴勁」(ちょうけい)と力を伝える「掤勁」(ほうけい)、体の奥から湧き出る感覚を研ぎ澄ましながら、波打ち際の空気がぴんと張り詰めていく。
◇◆◇
まだ夜も明けきらない砂浜で向かい合う二人。物心つく頃から特殊施設で鍛えられた麗には、古新開はまだ敵わない。ほんの一瞬、意識が逸れただけで、容易く体勢を崩されてしまう――そんな差が、まだ二人の間にはあった。
「古新開くん……せっかくだから、何か賭けない?」
推手の合間、麗がふっと目を細める。頬にかかった髪が潮風で揺れ、笑みにわずかな挑発が混じる。
「え? なんだよ? デザートのプリンか何かか?」
古新開は額の汗をぬぐいながら、わざと軽い口調で返す。
「違うわよ!」
小さく鼻で笑うその声に、やる気がにじむ。
「じゃあ学食を奢るとか?」
「違うって……私が勝ったら、君のこと――『ヒロ』って呼ぶから」
その言葉には、不思議な熱があった。二人の間の空気が、わずかに近くなる。
「ハハハ……いいぜ! じゃあ俺が勝ったら学食奢りな」
彼は笑って応じたが、心のどこかで『ヒロ』と呼ばれる響きを想像してしまう。
「いいわよ。じゃあ勝負!」
再び、二人の腕が触れ合い、呼吸と体温が交わる。ここ数日で古新開は確実に成長していた。しかし麗の手は鋭く、その呼吸のリズムも読みづらい。波音が遠のく中、攻防は長く続くかと思われたが、麗の妙手が一瞬の隙をとらえ、古新開のバランスを崩した。
「くそっ! やられたぜ!」
「ふふっ、勝ったわよ。じゃあ、『ヒロ』! もう一本勝負する?」
『ヒロ』と呼びかける声に、さっきまでの勝ち誇った笑みとは別の柔らかさが宿る。
「いいぜ! 望むところだ!」
彼もすぐに笑顔を返す。
「じゃあ今度、わたしが勝ったら、これからは『麗』って呼び捨てにすること。……いいかしら?」
「ええーと……それでいいのか?」
「そうよ! じゃあ行くわよ!」
その瞬間、麗の目が真剣な光を帯びた。
潮の香り、足元で崩れる砂の感触、張り詰めた空気。二人の推手は、起床点呼の時間ぎりぎりまで途切れることなく続いた。
◇◆◇
江田島市・小用港。
秋の朝特有の爽やかな空気の中、原宮高校の制服を着た二人が、呉港行きフェリー「古鷹」に乗り込んでいく。船内は通勤・通学客で混み合い、足早に席を探す人、デッキに出る人、それぞれの朝が動き出していた。その中で、上甲板の最前部――海風を正面から受ける位置に、古新開は立っていた。頬を刺す潮風も、彼にとってはただの舞台効果だ。
そして、朝の静けさを破る大声。
「ハハハハハ! 待ってろよ、原宮高校! 今日もまた俺が伝説を作りに行ってやるぜ!」
周囲にいた同じ制服の生徒たちは、反射的に目を逸らし、そっと距離を取る。まるで『自分は関係ありません』と言わんばかりに。
(ホントに……どうしてこんな奴を好きになっちゃったんだろ……)
麗は呆れ半分、困惑半分でため息をつく。
「『ヒロ』! 恥ずかしいから止めなさい! もう~大人しくできないの?」
声を潜めながらも、しっかりとした叱責の響き。
「ええぇー? 海に向かって叫ぶのは男の本懐だぜ!」
両手を広げ、海原に向けて胸を張る古新開。
「ちょっと迷惑だから……メッ!」
人差し指を立てて軽く額を突くような仕草に、彼はわざとらしく肩を落とす。
「ちぇ……麗は厳しいよな」
「はい! 隣に来て座る! 呉に着くまで予習しよ?」
指先で隣の席をトントンと叩く。
「はいはい。真面目だよな、麗は」
しぶしぶ腰を下ろす古新開だが、その口元には小さな笑みが残っていた。
波は朝日を反射しながらきらめき、船首は水を切って進んでいく。フェリーは静かに、だが確かに――新しい一日の波乱を乗せて、呉へ向かっていた。
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