第74話 東和園の秘密
──話は少し遡る。
原宮高校のSF超常現象研究会に、黄幡麗が正式に入部届を提出したその日の夜。呉市中通り商店街の一角にある、どこか年季の入った町中華「東和園」では、営業時間を終え、ひっそりと灯りが消えかけた店内に、麗と彼女の父──とされる男の姿があった。
実はこの「東和園」、ただの町中華ではない。中国の情報機関『中華人民共和国国家安全部(MSS)』が、日本国内における諜報活動の前線拠点として設けた出先基地の一つ。その屋号を継ぐ黄幡一族は、戦後すぐに引揚者として日本へ渡り、地元民に溶け込む形で活動を続けてきた、いわば“草”──忍者的スパイである。
呉市に根を張り、海上自衛隊や在日米軍の動向を陰で監視しながら、決して表に出ることなく、静かに情報を送り続けてきた。誰もが善良な日本人店主と思っていたが、彼らはまさしく国家の影として生きていたのだ。そんな彼らに、ついに“思いもよらぬ”特殊任務が下される。
──『白岳康太郎の最高傑作・白岳靖章の情報を奪取せよ』。
ターゲットは、国家機密級のサイボーグ少年・白岳靖章。その周囲は公安警察に加え、CIAまでもが監視する鉄壁の体制。そんな人物に正面から接近することなど、到底不可能に思われた。だが、中国諜報機関は、常に現実的かつ非情な選択をする。
──高校入学前の春休み。黄幡の娘である麗を香港に行かせ、そこで中華人民共和国国家安全部(MSS)が用意した特殊工作員と入れ替わらせる。MSSが極秘裏に育成した特殊工作員と、黄幡麗の人生が“すり替え”られたのだ。代わりに帰国したのは、王麗玲──人体強化技術を極限まで施された、中華五千年の叡智が詰まった強化人間。
本物の黄幡麗──彼女は、春休みのある日を境に消息を絶った。知らされることもなく、抗うこともなく、おそらくそのまま大陸本土へ送られたのだろう。誰にも知られないまま、一人の少女の人生が書き換えられた。
そして今、原宮高校の制服に身を包むこの「黄幡麗」は、東和園の店主・黄幡遼と親子を演じる、ただの任務遂行者──派遣工作員だった。
「ようやくSF超常現象研究会に潜り込めたか?」
男の低い声が響く。
「ええ。夏のストーカー事件から徐々に関係を深め、誰にも気づかれず入部という形で接近に成功しました」
麗は淡々と報告を続ける。
「引き続き、情報収集をしつつ在籍するメンバーとの関係づくりを続けろ」
「はい。指令が下るその日まで、精々仲良くしておきます」
すべては任務のため。そこに感情など不要──だったはずだ。
麗の潜入によって得られた内部情報をもとに、計画は練られた。 ──白岳靖章の心を折るには、彼が最も守ろうとする存在を奪うのが最善。
こうして決行されたのが、長谷光葉の誘拐による機密データの強奪作戦だ。本来であれば秋祭り当日、靖章やジェシカもその場にいるはずだった。その場合、より強力な武器を用いてジェシカを排除し、靖章、マリナ、古新開をも一網打尽にする予定だった。
──だが、事前の動きに狂いが生じた。
護衛の要となる靖章とジェシカが、作戦当日に現場から離脱。光葉の身柄を確保する過程で、麗が倒したのは古新開一人という想定外の展開に終わる。
「光葉さん……運がいいのか、悪いのか……。いや……SF研は古新開くんしか死んでない……これって……」
麗は呟き、そっと目を伏せた。
◇◆◇
中通り商店街を少し外れた、静まり返った住宅街の一角。
そこに佇む黄幡が管理する老朽化したビルと駐車場があった。何の変哲もない鉄筋三階建て、上部は従業員の寮で一階は倉庫だ。けれども、その地下には──想像を絶する秘密空間が隠されていた。それは、外部から完全に遮断された特殊シェルター。厚い鉛と鋼鉄の壁に囲まれ、外界から一切の電波を遮断する。まさに“牢獄”と呼ぶに相応しい密室だった。
その空間の中央に、長谷光葉は囚われていた。ただし、両手足を縛られもせず、苦悶の表情もない。天井に張り付く監視カメラのレンズが、じっと彼女を見つめていた。彼女は爆薬付きの首輪を着けられた状態で、テーブルに向かい、スプーンを動かしていた。表向きは「誘拐事件の被害者」──だが、実際にはこのシェルター内で、もう一人の“誘拐されたはずの少女”と二人きりで過ごしていた。
──誰も気づいていない。公安も、CIAも。「二人とも誘拐された」というカバーストーリーのもと、ここに光葉が監禁されていることなど、誰一人想像もできない。この地下空間には、霊術の心得を持つ特殊工作員によって結界が張られている。光葉の存在を示す“気配”も“霊力”も、完璧に遮断されていた。
そして、その監視を担うのは──黄幡麗。最強の切り札である彼女を現場に張りつかせておく。それが、指揮官が選んだ最善手だった。麗は、食事の配膳を終え、椅子に座る光葉を見つめながら呟く。
「ごめんね光葉ちゃん……。白岳くんの設計データが手に入ったら、すぐに解放してあげるから……」
その言葉に、光葉は一瞬だけスプーンを止め──次の瞬間にはもう、にっこり笑ってチャーハンを頬張っていた。頬をふくらませたまま、口を開く。
「うーん……さすが東和園の愛娘の手作りだね。このチャーハン、めちゃ美味しい~!」
誘拐されているという自覚があるのか疑わしくなるほど、彼女は幸せそうに口を動かしている。──緊張感? 恐怖? そんなもの、ここには存在しない。
麗は椅子に寄りかかり、呆れ混じりの吐息をもらした。
「なんというか……誘拐された感が全くないんだけど……。もう少し……しおらしくしてくれないかなぁ……」
光葉は悪びれる様子もなく、スプーンを止めずに笑う。
「たはは~、まあまあ……腹が減ってはなんとやら、だし!」
麗は岡持ちから、冷たく冷やされた白い小鉢を取り出し、光葉の目の前にそっと置いた。
「はい、デザート」
その瞬間、光葉の瞳がぱあっと輝く。
「うわぁぁ! 杏仁豆腐だ! ありがとう麗ちゃん、大好物なんだ!」
彼女の素直な喜びように、麗は思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、静かに微笑んだ。
「喜んでいただけて何よりですわ」
敵同士という立場を忘れそうになる。その笑顔に触れるたび、どこか胸の奥がチクリと痛んだ。
時間がゆっくりと流れる中、光葉は手を合わせて「ごちそうさまでした」と言い、麗は黙って食器を片付け始める。チャーハンの匂いも、杏仁豆腐の甘い後味も、今や消えつつある。
そして麗は、冷たい声色で言い放った。
「翌朝までには決着つくと思うから、もう少し寛いでて。ただし、この場所から外に出たら、首が無くなるわよ」
その言葉に、光葉は両手をブンブン振りながら大げさに叫ぶ。
「ええぇー! それは嫌だなぁ!」
麗は、わずかに口元を緩めながらも、視線を鋭くする。
「少しはビビった?」
しかし──光葉の返答は想定の斜め上だった。
「凄いよね、わたし! 国際的な秘密組織に誘拐されて、主人公の脅迫のネタにされるって……このシチュエーションだけで、チャーハンおかわりできるよ!」
その発想力、そして脅威のポジティブ思考に、麗はまたしても頭を抱えたくなる。
「もうないわよ。それに、ダイエットしてたんじゃなかったの?」
光葉は烏龍茶の紙パックを握ったまま固まり、目を見開いて叫ぶ。
「はっ! そうだった!」
麗は肩をすくめながら、ゆっくりと立ち上がる。
「ふふふふ……やはり光葉ちゃんには敵わないわ」
──ただの敵なら、こんな感情は生まれない。どこか切なげに、どこか名残惜しげに、麗は視線をそらした。
そして、光葉の言葉が、再び現実へと引き戻す。
「麗ちゃん。もしヤスくんのデータを手に入れても、この国から脱出できるかわからないよ。データ自体も上手く手に入るかどうか……。わたしにヤスくんのデータの身代わりが出来るかわからないし」
その真っ直ぐな声に、麗の手がピタリと止まる。
「そうかもね。でも、我々は指令があればそれに従うしかない……。それに、もう私は古新開くんを殺めてしまったから……誰からも許されないの……」
ぽつりと、地の底から搾り出すように麗が言った。
その背中を見つめながら、光葉は微笑んだまま、そっと心の中でつぶやく。
(麗ちゃん……古新開くんが死ぬようなら、きっと事前に霊感があったはず……たぶんピンピンしてると思うけどなぁ)
(まあ、ヤスくんがいるし、あの人たちは絶対諦めないし、なんとかなるかぁ!)
──この楽観は、もはや才能である。絶望を跳ね返す力に満ちたその笑顔は、地下の密室ですら、明るく照らしていた。
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