第四十五話 デート戦線異常アリ
僕が自宅を飛び出して向かった先は、いつものバス停だった。お盆を挟んで、夏合宿以来しばらく会っていなかった光葉ちゃんとの久しぶりのデート。その言葉だけで心が躍る僕は、胸の高鳴りを抑えきれずに、思わず足早にバス停へと向かっていた。
薄曇りの空から差す陽射しは柔らかく、照りつけるような暑さも今日はほんの少しだけ和らいでいる。通りを渡る風に夏の匂いが混ざる中、そこには──いつもの笑顔、いや今日はいつも以上に嬉しそうな顔の長谷光葉が待っていた。
白のブラウスに淡い青のスカートという夏らしい装い。頬はほんのり紅潮し、目元には緊張とも期待ともつかないきらめきが宿っている。その横には、近くのスーパーにでも向かうのか、買い物袋を手にした年配の女性が一人ぽつんと立っている。
──人目もあるし、朝イチで飛んできたあのLINEの内容を口にするのは、さすがに憚られる。
「光葉ちゃん! 待った?」
声をかけると、光葉ちゃんは嬉しそうに小さく首を振った。
「ううん、今来たところ」
控えめに笑って目を伏せたその頬が、ほんのり赤い。火照っているというより、嬉しさと照れが混ざり合ったような温度だ。言葉を交わすたびに、僕の胸がドクンと音を立てる。自然と視線が──彼女の、健康的でみずみずしい唇へと向かってしまう。
……そんな時だった。僕の補助頭脳的AIがいつものように「ぴこーん」と通知音を鳴らした。
『彼女に嫌がられない初キッスのお誘い文句10選』
あまりに気の利いたチョイスに、僕の脳裏には「おいおい……それでいいのか?」というツッコミが響く。
しかしその時──光葉ちゃんがそっと僕の腕に手を添えてきた。柔らかなぬくもりが肌を通して伝わってくる。距離が、ぐっと縮まる。
「ヤスくん……来てくれてありがとう。早く二人きりになりたいね」
小さな声でそう囁いた光葉ちゃんは、どこか緊張しながらも、全身から“覚悟”が伝わってくるようだった。僕はシミュレーションを強制終了して、うんうんと頷くしかなかった。
ほどなくして呉駅前行きの広電バスがやってきて、僕たちは並んで乗り込んだ。後を追うように、あの年配女性──先ほどの老婆も乗ってきて、前方の優先席へと腰を下ろす。老婆は背筋を伸ばしたまま、視線は前方の一点から微動だにしない。まるで居眠りでもしているかのように穏やかな表情を浮かべたまま、指先だけが沈黙の中を滑るように動いた。簡単スマホの画面に映るのは、暗号化された通信アプリ。音もなく、迷いもなく、数秒で短い報告文を入力し終えると、画面は即座にブラックアウトした。
「アルファワンよりベータツーへ。ターゲットはバスに乗車。このまま追跡を続けます」
老婆の目線はまっすぐ前を向いたまま。手元だけが冷静に動いている。市内某所の地下通信拠点。そのモニターの前で、別の諜報員が即座に応答した。
「こちらベータツー……了解した。クィーンビー(女王蜂)より厳命あり。過度のいちゃつきを察知した場合はすぐさま妨害してよしとのこと」
「アルファーワン了解した」
情報が交錯するなか──その背後で、僕と光葉ちゃんはお気楽にバスに揺られながら、ここ数日のお互いの出来事や、進捗の怪しい夏休みの宿題について語り合っていた。
◇◆◇
バスは呉越え峠を抜け、市街地へと滑り込む。目的地である本通り五丁目バス停で降り、市役所を目指して歩き出す僕ら。通りの騒がしさとは対照的に、二人の間にはふわっと柔らかい空気が流れていた。
振り返れば──50メートルほど後ろを、先ほどの老婆が一定の距離を保って歩いている。だが、僕らはまるで気にする様子もなく、まるでこの街に二人だけしかいないような気分でいた。
光葉ちゃんが少し大きめのエコバッグを肩にかけていて、そこから白い日傘を取り出してパッと開く。その影に僕も入り込むと、自然と身体の距離が縮まる。日差しが遮られる分だけ、互いの気配が濃密に感じられる。歩きながら、ふと手と手が触れ合った瞬間──彼女の方から、そっと僕の手を握ってきた。しかも、恋人繋ぎで。
「ヤスくん、あのね、大事な話があるの」
静かな口調。けれど、その目は真剣そのものだった。
「改まってなにかな?」
「覚えてる? 日美子ちゃんがヤスくんに言った、私がご褒美キスをするっていう約束」
僕は少し首をかしげる。
「えーと、一応覚えてるよ。でも無理だったら、それはそれで構わないし」
そう答えると、光葉ちゃんは眉を少し下げて、申し訳なさそうに俯いた。
「ありがとう。でもね、話はそんなに単純じゃないんだよ。実は日美子ちゃんの発言や約束には『言霊』が籠ってるんだって」
「言霊? それって、発した言葉に魂が宿って、言ったことが本当になるとかっていうやつ?」
「そうなの。特に日美子ちゃんクラスの発した約束には強い力があって、それに逆らったり、やるべきことを先延ばしにしすぎると、逆に災いが起きたりすることもあるみたい」
僕は目を見開いて息を呑んだ。
「なんだって!?」
「それじゃあ、あの約束からもう一か月以上経ってるけど、何かあったの?」
「うん……それで、ヤスくんと早く約束を果たそうと思って」
光葉ちゃんが真っ直ぐに僕を見つめてくる。澄んだ瞳が、曇りひとつなく僕を射抜く。
「わかった。そういうことなら早く済ませよう。光葉ちゃんが恥ずかしいなら、ほっぺかおでこに『チュ』でいいからね」
優しく気遣うように言ったつもりだったけれど──その言葉に、彼女は顔を真っ赤に染めて声を上げた。
「ヤスくん! わたし、君とのキスは全然嫌じゃないし、むしろ興味があるっていうか……ファーストキスなの!」
思わずこちらも赤面して固まる。鼓動がうるさいくらいに高鳴る。
「実は毎晩毎晩……日美子ちゃんが夢枕に立って『早くキスしろー』って急かすのよ。それだけじゃなくて、今では1時間ごとに頭の中で『ほれほれ……いっぺんチュッチュしたらもう慣れっこじゃよ。いいぞー好きな彼氏とチュッチュするのは~』なんて声が……そのたびに君を意識して、宿題も手につかないのよー(涙)」
光葉ちゃんが半泣きになって訴えるその姿は、愛らしくて、切なくて、なんとも言えず……。
──(日美子様ナイス! これはもうご期待に添うしかない!)
僕らは呉市役所裏手の、広々とした中央公園に到着した。真夏の陽射しは容赦なく地面を照りつけているが、公園の端の木陰にあるベンチだけは、ほんの少しだけ涼しさを保っていた。静まり返った木陰のベンチに二人で腰掛け、慎重に周囲を見回す僕。──物陰には、あの老婆の姿があった。目の奥がギラリと光る。そして何かを連絡する。
それには気づかず、顔と顔が、徐々に近づいていく……あとほんの数センチ。
その瞬間──
ポス!
風を裂いて何かが僕らの顔の間をかすめ、すぐ後ろの木の幹に弾痕が刻まれた。AIが悲鳴のような対狙撃の警告音を鳴らす。次の瞬間、スマホにLINEの通知が届いた。
「ダーリン! 浮気はダメよ。ちゃんと見てるからね」
──送り主は、ジェシカだった。
「やはり一筋縄じゃ行かないみたいね、ヤスくん! 逃げるわよ!」
声が震えているけれど、目は真剣そのものだ。
「ああ ここは危ない!」
僕も表情を引き締め、彼女の手を握り返す。次の瞬間、僕たちは反射的に立ち上がり、その場から一気に跳ねるように飛び出した。ベンチを蹴って木陰を抜け、足音を押し殺すようにして舗装路に駆け出す。夏の蝉の声さえも遠く感じるほど、意識は一点に集中していた。
──灼熱の真昼。木々がざわめく音の中を、僕と光葉ちゃんは手に手を取って、繁華街の中通りへと走り出した。まるで映画のワンシーンのように。僕らのデートは、灼熱の“戦場”だった──。
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