第四十四話 好きな子の唇は気になるね
夏休みも残りあと一週間になった日曜日の朝。蝉の鳴き声が少しだけ弱まった気のする、そんな晩夏の空気のなか、朝食を終えたリビングで、僕とマリナは父とラーナさんから思いもよらない重要な決断を聞かされることになった。
木目調のフローリングには涼しげな風が吹き抜け、クーラーの風と相まってどこか静かな緊張感が漂っている。そんな中、向かいのソファに並んで座る父とラーナさんは、もはや何年も連れ添った夫婦のような呼吸で、穏やかながらも確信に満ちた空気を醸し出していた。
そして僕の隣には──自称義妹のマリナが、まるで恋人のようにぴったりと寄り添っている。今朝も、いつの間にか僕のベッドに潜り込んで、無邪気にすやすやと添い寝していた。寝顔は可愛いが、起きてからの行動が油断ならない。
ちなみに、僕は昨夜ちゃんとドアに鍵をかけたはずなんだけど……。
「鍵? 私の装備ならそんな市販の錠前なんて意味ないよ」
そう言ってマリナが人差し指をぴょいっと上げると、指先から細く伸びるワイヤー状の何かがスッと伸びた。その先端が複雑に動き、目にも止まらぬ速さで空中に何かを描いた。 ──それを鍵穴に入れると簡単に解除されるらしい。
(へぇー……って感心してる場合じゃない)
そのハッキング能力にちょっと感心しそうになるけど、今はそれどころじゃなかった。目の前で、父が意気揚々と口を開こうとしていたからだ。
「お父さんから話があります!」
父は妙に上機嫌な調子で切り出した。目がキラキラしている。
「わぁーい! パパぁ~! どこか遊びに連れてってくれるの?」
マリナは声を弾ませて、ソファの上でぴょんぴょんと跳ねる。純粋な笑顔に、まるで小さな女の子みたいな無垢さが宿っていた。
「マリナ、ごめんね~。もっと大事な話なの」
ラーナさんが落ち着いた声で、慈母のように微笑んだ。言葉は優しいけれど、その響きには何かを決意したような力強さがある。
「改まってなんだよー」
僕は思わず眉をひそめて問い返した。リビングの空気がふっと静まり返る。
「まあ聞きなさい。マリナのことだから」
父の表情が引き締まる。威厳を纏った声に、マリナも「なになに?」と小首を傾げて興味津々。
「実はマリナの体内に残ってるロシア由来の制御装置を、この際だから完全に無効化しようと思ってるの」
ラーナさんの声には、どこか誇らしげな安堵がにじんでいた。
「そういうことだ。俺とラーナちゃんが力を合わせれば、マリナの行動制御コードをすべて無効化できる」
父の真剣な表情が、事の重大さを物語る。背筋を伸ばしていた僕も、自然と前のめりになって聞き入っていた。
「例のリモコンもこれで使えなくなるからね」
ラーナさんがさらりと付け加えると、マリナはまるで跳ね上がるように立ち上がり、目をキラキラ輝かせながら喜んだ。
「わーい! それでマリナはお兄ちゃんとすぐに結婚できる?」
その無邪気な言葉に、場の空気が少し和む。ラーナさんは「あらあら、仲いいわね~」と優しく微笑むが──その次の一言で、僕の心拍数は急上昇する。
「でもこれで、マリナを止める者は誰もいなくなるわ」
「え? それって?」
背筋が凍る思いで僕が問い返すと、父は意地悪そうな笑みを浮かべて肩をすくめた。
「お前たちの結婚を妨げるものはなくなるなぁ(笑)」
「いやいや、僕の意志は!?」
思わず頭を抱えてソファに沈む僕。その隣で、マリナが涙ぐんだ瞳で見上げてくる。
「お兄ちゃん……マリナとじゃ嫌なの?」
目に潤んだ光を宿し、かすかに震える声で問いかける姿は、まさに攻撃力MAXの小動物だ。
「そんなことは言ってないけど……」
思わず目を逸らしながら答える僕に、マリナは一転して小悪魔のような笑みを浮かべ、まるでロックオンされた獲物に襲いかかるように抱きついてきた。
「お兄ちゃん! 大好き!」
ふわりとした香りが鼻先をかすめ、柔らかい感触が体に密着する。僕は成すすべなく固まった。
「それでだ、新学期までの一週間で……マリナの改造手術と最終調整をするつもりだ」
父の声が空気を切るように響く。
「ということで、マリナはお母さんと研究所へ行きましょう」
ラーナさんが優しくマリナの手を取る。その姿は、まるで嫁入り前の娘を連れていく母親のようだった。
「靖章は申し訳ないが、しばらく俺たち3人はサイボーグ研究室に籠るから。お前は夏休み最終日までテキトーにやっとけ」
「はいはい。自宅の方は僕が回しとくから。頑張ってきて」
僕は苦笑いしながらも、どこか諦めの色を滲ませた声で答えた。
「一週間もお兄ちゃんと会えないの? 辛すぎるー!」
マリナの声がリビングに響く。哀しみに震える瞳が切なすぎて、ちょっと胸が痛い。
「大丈夫よ。ちょっと眠って目が覚めたら新学期だからね!」
ラーナさんの声はまるで子守唄のように優しい。
「じゃあ我慢する!」
マリナが笑顔に戻る。その変わり身の速さにほっとした。
「ふっふっふっ、腕が鳴るなぁ」
父が楽しげに鼻を鳴らしながら、まるで自慢のプラモデルでも作るかのようなテンションで呟いた。
「もうー、康太郎さんたらやる気満々ね」
ラーナさんも楽しげに肩をすくめて笑った。
三人は並んで地下へのエレベーターへと歩いていく。その背中は妙に温かく、楽しそうにさえ見える。その光景を見送った僕は、ひとりリビングに残されて、なんとも言えない寂しさに包まれていた。静かな部屋に、ただ蝉の声だけが響いていた。
だが──
「はっ!? もしかして僕って今から一週間はフリー!?」
突然、頭に稲妻が走る。そうか、誰にも干渉されない、完全な自由時間……!
「フリーダーム!!!」
拳を突き上げながら、思わず叫んだ。だがすぐに思い至る。──ま、まずは何やって遊ぼう?
◇◆◇
自由って、案外、持て余すな……。 そんな解放感と戸惑いを胸に、自室でぼんやりしていると──スマホが震えた。 着信音とともに表示されたのは、ジェシカからの連続着信と、光葉ちゃんからの一通のメッセージだった。
『ヤスくん……わたしもう我慢できない。一刻も早くヤスくんとキスしたい。今からデートして。会ってくれないと、わたしもう耐えられないの』
添えられたスタンプは、情熱のハートが乱舞するような熱量。画面から火花が飛び出しそうな勢いだった。 ──やばい、これは本気だ。 僕の胸に、ポッと熱が灯る。すぐさま「OK」と返事し、いつものバス停で会う約束をする。服を整え、髪をセットし、少しだけいい香りのボディスプレーもシュッとひと吹き。 準備万端で家を飛び出す僕。しかしその背後には──僕の知らない影が、すでに動き始めていた。
空には、音もなく飛ぶ十機の偵察ドローン。光学迷彩とレーダー無効化処理を施されたそれは、まさに“空飛ぶスパイ”だった。同時刻、呉市内のジェシカ宅──ヨガマットの上でストレッチしていた彼女のスマホが警告音を発する。
「ダーリン……私とのデートを断って光葉と会うなんて……」
モニターに映るのは、バス停で笑顔の光葉と、上機嫌で話す僕の姿。
「いけない子ね……」
ジェシカはそのまま即座に指令を発信。呉市内に潜伏する諜報部員たちへ、追尾・監視・報告の三段構え。
「白岳靖章の動向をマークせよ」
彼女の表情は、完全に“仕事モード”から“ヤンデレ警戒モード”へと切り替わっていた。
一方──事情を何も知らず、バスの中で光葉と笑い合う僕。だけど、なぜか彼女の唇に、さっきから意識が行ってしまってしょうがない。
(……好きな子の唇って、こんなに……気になるものなんだな)
鼓動が、少しずつ早くなっていくのを、自分でもどうしようもなかった。
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