第四十三話 ロシアから愛を込めて
朝食後、青山先生に送ってもらい、僕とマリナは大空山の自宅に戻った。
まだ午前中の爽やかな風が、疲れた僕たちの頬を優しく撫でる。合宿所での騒乱から一転、静けさを取り戻した山道は、どこか幻想めいてすら見えた。家には、スヴェトラーナ博士を「搔っ攫った」父・康太郎が、一足早く帰宅しているはずだ。巨大な岩肌の中腹に潜む、地下要塞のような我が家――ここが白岳家の拠点であり、父の研究室でもある。
父は普段、この大空山の自宅兼研究室に籠もりっきりで、外界との接触を極端に避けている。唯一の社会参加といえば、安芸阿賀駅近くのスーパー藤三での買い出しか、麓のコンビニでの買い食いくらいだ。そんな父が、県民の浜にまで自ら出向いて人を「連れ帰る」など、前代未聞だ。
──あの妙齢のロシア美女と、父がどう接しているのか。正直、想像すらつかない。
一方のマリナは、というと、まるで気にする様子もなく足取り軽やかに玄関を開けている。父には全幅の信頼を寄せているらしいが、それが逆に不安を煽る。僕の知っている康太郎は、偏屈で変態で、まったくもって人付き合いができる男ではないのだから。
「ただいまー」
「博士~どこなの~?」
僕たちが玄関からリビングに向かって廊下を進むと──父の書斎の扉越しに、なにやら男女の声が聞こえてきた。まず最初に飛び込んできたのは、父の含み笑い混じりの声だった。
「ふふふ……ラーナくん、ここはどうかな?」
その声に続くのは、スヴェトラーナ博士の艶っぽい吐息混じりの悲鳴。
「あんっ! そんな所を責めるなんて……ひどい……!」
(……!?)
僕は一瞬、足を止めた。マリナも隣でピタリと動きを止める。ふたりして息を飲み、全神経を耳に集中させる。次の瞬間、父の声が、さらに深いところをえぐるように響いた。
「何を言っても、この手は緩めないよ。ほらほら、ここはどうだい?」
「いやぁ……そんなことするなんて……もう耐えられそうにないわ……」
マリナの顔がみるみる真っ赤になり、僕の脳内では緊急警報が連打される。
(や、やばい! 何やってんだ親父ぃぃぃ!!!)
そして、極めつけに──
「君の困った顔を見ると、俺の手はますます激しくなるよ。ほらほら」
「えぇー……そんな……それを取られたら、もうわたし、どうしたらいいか……」
「諦めて俺のモノになればいいじゃないか? ん?」
「はぁ~……康太郎さん、強すぎます……私もうメロメロですわ……」
「ふふっ。最後まで手は抜きませんよ。ここもこうです!」
「もう……ダメ……許して~」
そのやり取りを一語一句聞き逃さずに拾ってしまう僕とマリナ。高性能集音マイクを内蔵したサイボーグの悲劇である。僕の顔は今、火が出るほど熱い。マリナも限界に達したようで、涙目で震えている。
(──なに!? なにしてんの!? なんで父さんがロシア美女とこんな……!)
思考が追いつかない。いや、追いつく前に叫ばないと危険だ!
「こらぁー! 何やってるんだー! こんな破廉恥な親父に育てられた覚えはないぞー!」
我慢の限界に達した僕は、怒鳴りながらドアノブを掴み、勢いよく書斎のドアを開け放った!マリナも顔を真っ赤にしながら、僕の後ろから飛び込んでくる。
「康太郎パパ~、なにやってるの? 博士をいじめないで~(涙)!」
僕たち二人の怒声と泣き声が、重く静まった空気を切り裂く。 が── その直後、目に飛び込んできた光景に、僕とマリナは二人同時にフリーズする。応接セットで向かい合って座る父とスヴェトラーナ博士。テーブル中央にはチェスボード。そしてその盤面上で、白と黒の駒が静かに配置されていた。博士は軍服ではなく、なぜかふりふりのメイド服姿。しかも──頬を紅潮させて、恥ずかしそうに駒を指先で弄んでいる。
「おう! お帰り!」
「マリナ! おかえりなさい!」
父と博士が、にこやかに同時に手を振った。僕とマリナは、しばし呆然と立ち尽くす。……今のあれ、全部チェスのことだったのか!?
「靖章は何言ってるんだ? 俺はラーナちゃんと楽しくチェスしてただけだぞ?」
「ええーと、そうなのよ。賭けチェスをね」
頬を赤らめながら言う博士。うっすらと羞恥の色が浮かんでいるが、どう見ても誤解を招く声色である。
「負けた方が、一敗につき一個ずつ、自分の最高傑作のブラックボックスを開示する、ドキドキのゲームだ!」
父は満面の笑みを浮かべながら、軽やかに説明してみせた。
「ごめーんマリナ……私、もう三連敗しちゃった~。これで次に負けたら、全部あなたの秘密が丸裸になっちゃうわ。どうしようかしら?」
博士が、まるで乙女のように困った表情でマリナに訴える。その愛らしい仕草に、僕のツッコミが爆発した。
「紛らわしい可愛い声出さないで下さいよー!」
僕は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。マリナはマリナで、もはや勝負や秘密なんかどうでもいいという勢いで、博士の胸に飛び込む。
「そんなのどうでもいい! 博士が無事なら、情報でも何でもあげたらいい! わーん! 心配してたの!」
泣きじゃくる声が、部屋の空気を一変させる。父と僕は、そんなマリナを見て、自然と笑みを浮かべていた。
(……よかった。本当に、よかった)
◇◆◇
書斎での“勘違い事件”が収束したあと、僕たちは場所をリビングへと移した。
深夜の帰宅にも関わらず、父が手際よく淹れてくれたお茶の香りが、部屋にほのかに広がる。テーブルにはいつものお菓子缶──中身は父のお気に入りのドライフルーツとチョコレート──が置かれ、どこかほっとする空気が流れていた。僕が湯呑みを一口すすると、父が静かに口を開いた。
「靖章に改めて紹介しよう。こちらがロシア科学アカデミー・サイボーグ課の開発主任のスヴェトラーナ・クルチャトフさんだ。彼女はマリナの改造に最も携わった科学者だ。そして、実はマリナの母親でもある」
その言葉を聞いて、僕は思わず目を見開いた。
「え? そうなんですか……確かに髪の色に目の色、顔や雰囲気も似てるって思ってたけど……」
どこか腑に落ちたような──納得と驚きが同時に押し寄せる。マリナと博士、どこか血のつながりを感じさせる仕草や言葉の端々が、ずっと気になっていたのだ。
「はじめまして、ヤスアキ。説明すると長くなるから簡単に。マリナは、私が20歳の頃にアカデミーに提供した卵子から生まれた実験体だったの。だから遺伝的には親子になるわ」
博士はやや照れたように笑いながら、マリナの肩に手を添える。彼女の表情には、責任と後悔と、ほんの少しの誇らしさが混ざっていた。
「博士は、開発主任に昇進して初めて人体改造を任されたのがマリナだったそうだ。最初は彼女を実の子とはわからなかった。だが、色々なデータを見たり、実際に接してみて感じたことで、遺伝子検査をすることにしたんだ」
と、補足する父。
「ええ。それで、マリナと私が遺伝的に母娘であることがわかったの。だから……この子を戦闘兵器に、そして権力者の玩具にすることがたまらなく悲しかった」
博士の目が、ふいに潤んだ。決して涙はこぼれないが、その奥に宿る後悔は明らかだった。
「それで博士は、マリナの人工頭脳に、決められた以外の様々な情報を隠してインストールし、出荷される際は時限発動する起動コードを埋め込んだ」
父が話を続けると──マリナの表情が一瞬で変わった。
「だからなのね……目覚めた時にやるべきことがすぐに理解できたのって。この日本の白岳家を目指すように、博士・・・いえお母さんが導いてくれたのね……」
感情が堰を切ったように溢れ出し、マリナはぽつりと呟く。
「ごめんね、マリナ。こんなことくらいしかしてあげられなかった私を許して……」
スヴェトラーナ博士の声が震える。彼女はそっとマリナの髪を撫でる。その手は科学者のものではなく──ただの母親の手だった。
「ううん。恨んでなんてない。お母さんのおかげで、今はもう自由だよ」
マリナが言ったその一言で、僕の胸に溜まっていたものが一気に溶けていく。気づけば、僕の目尻からも、熱い涙が一筋流れていた。
「スヴェトラーナさん……マリナ……よかったね。本当によかった……」
言葉にできない思いが、胸の奥で静かに鳴る。それを見た父が、にやりと笑って言った。
「まあそういう訳だ。ラーナさんにはしばらくここで助手をしてもらいながら、今後の身の振り方を考えていくぞ。マリナ同様に、俺が全力で守るんで安心してくれ」
その口調はいつものふざけた親父そのものなのに、どこか芯の通った力強さがあった。
「父さん……かなり見直したよ。もう救いようのないろくでなしだとばかり思ってたけど(笑)」
つい本音が漏れてしまう。だが父は、むしろ嬉しそうに大げさに肩を落とした。
「えー、もうちょっと評価高いと思ってたのにー!」
僕は、わざとらしいそのリアクションに、思わず吹き出す。
そして、ふと気になっていたことを口にした。
「それより、ラーナさんはなんでメイド服なんて着てるのさ?」
視線を移すと、スヴェトラーナ博士は困ったように肩をすくめ、父はなぜか少し目を逸らして答えた。
「うん……大人の女性の服を探したんだがな。今開発中の家事用アンドロイドに着せようと思って取り寄せた衣装しかなかったんだ」
「それがメイド服……」
僕の呟きには、さすがの自分でもツッコみたくなる呆れが混ざっていた。が、父は目を輝かせてこう続けた。
「明日は女性看護師さん、明後日はバニーガールの予定だ!」
「いいなぁー! マリナも着てみたい! お兄ちゃんも喜んでくれるみたいだし!」
目をキラキラさせて言うマリナ。
「やめろー! ただでさえモデル級の美女が、そんな痛いコスプレして家にいたら、僕のメモリ機能がヤバいことになるわ!」
僕は全力で両手を振って叫んだ。
「あらあら。ちょっと恥ずかしくなってきたわよ~」
博士は、はにかむように笑いながら顔を手で隠した。
「とりあえず通販で普段着を買わんとな」
父が真顔で言ったその言葉に、僕とマリナはまたしても吹き出す。
こうして、ロシアからの亡命科学者であり、マリナの母でもあるスヴェトラーナ・クルチャトフ博士は、白岳家の新たな一員として迎え入れられることになったのだった。──静かな山の中の一軒家に、新しい風が吹いた気がした。
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