第三十八話 追う者と追われる者
モスクワ郊外、ロシア科学アカデミー……。
遅い春の名残を感じさせる鈍色の雲が、厚く空を覆っていた。冷え込んだ空気に、無機質な研究棟の壁面がどこまでも沈黙を保っている。その地下深く──冷徹なセキュリティと、沈黙を義務づけられた職員たちの目をかいくぐるようにして、ある秘密会議が開かれていた。
かつて国家の影で、数々の禁忌に手を染めた非公然の研究機関──そこで、静かに椅子に腰かけているのは、スヴェトラーナ・クルチャトフ女史、3x歳。知的で整った顔立ちに疲れの色が浮かんでいる。だが、その眼光には鋭さと覚悟が宿っていた。彼女は、太平洋上で消息を絶った一体のサイボーグ──クークラ、ことマリナを設計した中心人物の一人であり、ロシア連邦軍参謀本部情報総局、通称GRUから呼び出されたその理由は明白だった。
──尋問である。
鉄の椅子に背筋を伸ばして座る彼女の前に、GRUの尋問官が冷たい視線を注いでいた。その空気は、凍てついたコンクリートの壁よりも冷たく、そして厳しかった。当然のことだった。クークラは、絶対に自律起動するはずのない兵器。あれは人間の命令によってのみ動き、プログラム上の逸脱は厳しく制御されていた……はずだった。
だが、実際には起きてしまった。制御の崩壊、そして脱走。しかも、原子力潜水艦の艦内で、武装兵と激しい交戦を交えた末の逃亡だという。詳細は最高機密として握り潰されたが、内部の一部にはすでに噂が広がっている。
なぜ、どうして、誰が?──GRUはその答えを欲した。
スヴェトラーナは沈黙を貫いた。彼女自身、クークラがそこまでの自我を獲得していたとは知らなかったからだ。クークラは、人形ではなく、「少女」として目覚めていたのだ。開発者の一人として、スヴェトラーナは──どこかでそのことを誇りに思っている自分を否定できなかった。
GRUはやがて判断する。スヴェトラーナに責任を負わせて罰するよりも、彼女を任務に活用するほうが合理的だと。
ロシア対外情報庁SVR──ソ連KGBの後継機関──からの情報により、マリナが日本に潜伏している可能性が高いことが判明した。GRUは回収作戦を立案。エリート工作員による特殊部隊を編成し、その補佐官としてスヴェトラーナを任命する。理由は明確だった。マリナの構造を誰よりも知る彼女にしか、停止コードの操作権限がなかったからだ。
作戦の成功は、スヴェトラーナにとっても「生き延びるための最後のチャンス」であった。失敗は許されない。失敗すれば──彼女の行き先は、シベリアの強制収容所か、ベーリング海でタラバガニの餌になるだけだ。
「ううっ……つらい……一生シベリアで過ごすなんて絶対無理よぉー」
沈んだ声で呟くスヴェトラーナに、隣に立つ特殊部隊の指揮官は表情一つ動かさず返した。
「クルチャトフ女史。与えられた任務を全うするだけです。我々もこの任務は命がけ。国際的な大事件になる前に人形を回収し、日本を離れるのです」
その口調は冷静で無感情。だが、その背後には任務失敗が何を意味するかを誰よりも理解している男の冷徹さがあった。スヴェトラーナは、つとめて明るく応じる。
「わかっていますわ。あの子への命令権を持つ私ならば、きっと言うことを聞いてくれるはずです」
指揮官はあくまで慎重だった。
「しかし、危険な戦闘兵器を通常の軍人や文官では命令できないとは、なんとも厄介ですな」
「そうですか? そもそも自律戦闘できる人間なのですから、強制執行が誰でも出来ては、あらゆる分野で支障が出るでしょう。私たち研究者と最高指揮官のみ許されたコード……これを使えば、私がクークラを従わせますわ。ご安心を」
その口調は淡々としていたが、彼女の中に宿る焦りと不安は、隠しきれない本音となって滲んでいた。
「まあ実戦で取り押さえても問題ないですが、期待半分で聞いておきますよ」
その一言に、スヴェトラーナは薄く微笑む──だが、その瞳の奥には警戒心と、かすかな恐怖が混じっていた。
(彼らは何もわかっていない……あの子の恐ろしさを……原潜の内部で起きた戦闘を知らされてないのかしら)
自分が生み出した「人形」の進化と暴走。スヴェトラーナは──母としての罪悪感と、科学者としての畏怖の入り混じった複雑な感情を胸に、日本へと向かう。選び抜かれた精鋭部隊は、世界各地を経由して、日本国内へと静かに潜入する。 彼らの目的地は──広島県呉市。 そこにある、一人の科学者の研究所。ロシア大使館が手配した特別車両に揺られながら、部隊は目的の地へと向かっていた。
◇◆◇
その頃、白岳家では、深刻な家族会議?が開かれていた。朝の陽光がキッチンの窓から差し込み、テーブルの上には焼き立てのトーストと、湯気の立つコーヒー、そして目玉焼き。何気ない朝の光景のはずだったが、食卓に並ぶ三人のテンションは、ある一点をめぐって尋常でなかった。
靖章、康太郎、そして問題のマリナ──。
靖章は、あまあま妹化したマリナを父に協力してもらい、なんとかベッドから引き剥がして食卓にたどり着いたのだが──まるで磁石のように、今度はその隣にぴたりと身体を寄せて座られてしまった。しかも今回は、甲斐甲斐しいどころではない。完全に“新妻ムーブ”に入っている。ちぎったトーストを、フォークに刺して差し出してくる。
「お兄ちゃん……あーんして」
「マリナ……気持ちは嬉しいけど、一人で食べられるから」
僕は苦笑しながら言葉を選ぶが、マリナは全く動じない。
「いいじゃない~、私のトースト食べて……ね?」
その上目遣い。完全に計算された破壊力。防御力ゼロの朝に撃ち込まれては、抵抗力も崩壊寸前である。僕はチラリと父の方を見やった。助けを求める無言のサイン。しかし父・康太郎は、コーヒーをゆっくり啜りながら、腕を組んでまるで他人事のように状況を眺めていた。
「うーん……マリナちゃんがこうなったのは、仕方ないのかもしれんな」
「えーと、どういうこと?」
マリナが差し出したトーストを、観念したようにパクっと咥えながら問い返す。
「医者として言わせてもらうとだ。彼女の精神的なストレスは、その心を保つのにもう限界だった。その一方で靖章……お前に出会って救われた想い……お前を愛したい気持ち……お前の側にいたい願望……色々な気持ちが不具合もなく最適化した自己設定が、『兄ラブあまあま義妹』だったんだろう」
と、今度は目玉焼きがフォークに刺されて、当然のように口元へ向かってくる。
「お兄ちゃん……次は目玉焼き食べて……あーん」
「はむっ……もぐもぐ……それってどういうこと?」
混乱の中でも口だけは勝手に食べているあたり、身体は正直すぎた。
「自分の心が壊れないための自己防衛機能みたいなものだ」
康太郎の静かな説明に、僕の脳内では一つの仮説が浮かんでいた。
「なんとなくわかった気がするよ。でも、この設定どうしたらいいんだよ? 僕も困ってるけど、マリナもこのままじゃ将来彼氏もできないんじゃ?」
フォークに刺されたレタスがふわっと靖章の口元に。
「わたしは将来はお兄ちゃんのお嫁さんになるから……キャー、恥ずかしい……けど言っちゃう!」
満面の笑顔で言い切るマリナ。もう、完全に“その世界”の住人である。
「マリナ……ちょっと落ち着こう。僕ら知り合ってまだ一週間だしさ」
僕の苦悶の声がテーブルを震わせる。だが──マリナは悲しそうに俯き、今度は康太郎に、子犬のようなうるんだ目で問いかける。
「康太郎パパ……マリナじゃ、お嫁さんになれない?」
その無垢すぎる上目遣いに──父は一瞬で撃沈した。
「まあー、マリナちゃんならパパはオッケーだよー」
まるで政治的判断など吹き飛ばすかのような即答。そして次の瞬間、マリナはぴかーっと晴れやかな笑顔を浮かべた。僕の心の中に、ひとすじの葛藤が走る。
(ちょっと……待てよ。……いや、マリナは確かに可愛いし、いい子だと思う。それに同じサイボーグだ。一般人と交際なんて、僕には荷が重いかもしれないし……アリっちゃアリなのか……?)
そんな思考に脳内AIも沈黙していた。
「嬉しいー! パパありがとう! お兄ちゃん、わたし結婚できる歳までは妹として側にいるから、よろしくお願いね!」
「いや……まだ結論を出すには早いんじゃ!?」
僕が慌てて異議を唱えるが──父・康太郎の視線がピシリと刺さってきた。
(とりあえず今はマリナに付き合おう。じゃないと彼女の精神が壊れかねない。おいおい俺も善処するから、今はお兄ちゃんになってやってくれ!)
目で語る父。医者の眼差しで訴えてくるそれを前にして、僕は無言でうなだれる。そう、もはや逃げ場はなかった。
◇◆◇
それから二日後──。
僕は原宮高校SF超常現象研究会のメンバーと共に、夏合宿へと向かっていた。向かう先は、呉市の南東部、瀬戸内の島々を連ねる“とびしま海道”にある上蒲刈島。目的地は「県民の浜」という、レジャー施設と研修センターが一体となった総合リゾート施設だ。
研修とは名ばかりの、UFO探索と降霊会のスケジュールは相変わらずだったが──美しいビーチに温泉、瀬戸内海の絶品グルメまで付いてくる。まあ、文句のつけようもない合宿である。
しかも今回は、顧問の青山先生が甲子園から強制送還され、僕たちの運転と引率を担当するという、謎の手厚い待遇付きだった。どうやら、僕と古新開へのご褒美らしい。いつもの超常研メンバーに加えて──マリナも当然のように参加していた。 父も気分転換が必要と彼女を送り出したのだ。
当然ながら、お兄ちゃんあまあまモードを維持したままで、車内は早くも修羅場化していた。ダイエット成功で輝きを取り戻した光葉。パワーアップして帰国したジェシカ。そして新たに加わった最終兵器・マリナ。この三者三様の美少女たちに囲まれた僕の、灼熱と修羅の夏合宿が──いま、幕を開けようとしていた。
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