第三十七話 マリナは勉強中
マリナが白岳家に来て、一週間が経った。
緊急手術を終えた後、彼女は三日ほどベッドで眠り続けていた。だが、それを過ぎると驚くほどのスピードで回復していった。父・康太郎による適切な治療、そしてサイボーグとしての高い自己修復能力──そのどちらもが彼女を支えたのだろう。
目覚めた当初のマリナは、表情も乏しく、感情の読み取りにくい無機質な雰囲気だった。だが今では、ふとした瞬間にはにかむような笑顔を見せることもある。その笑みのたびに、僕は少しだけ胸が温かくなるのだった。
彼女は白岳家の一室を、自分の部屋として使うことを許された。生まれて初めて手に入れた「自分だけの空間」に、マリナは戸惑いつつも静かな喜びを感じているようだった。部屋の内装──明るめの壁紙に、ピンクを基調とした家具──は、康太郎が「年頃の女の子用っぽくしてみた」と得意げに言っていたやつだ。あの父のセンスとは思えないほど、妙にまとまっていて、それもまた意外だった。
(……父さん、本気でこの子を“家族”にするつもりなのかな)
僕はそう思いつつ、部屋の雰囲気を見て安心した。少なくとも、父が彼女をしばらくこの家で保護するつもりなのは確かだ。夏休み中で特に用事のない僕は、毎日マリナの勉強の相手をしていた。教える──というよりは、彼女の学習ペースに合わせて傍らで見守っているだけだが。
マリナは、非常に頭のいい子だった。補助AIの助けもあるのだろうが、日本語の習得はめざましく、今では僕の部屋にある本──小中学校の教科書から古い百科事典まで──を片っ端から読んでいくようになった。その姿は、まるで知識に飢えたスポンジのようだった。
ある日の昼下がり。僕の部屋の一角、静かに本を読んでいたマリナが顔を上げ、こちらを見た。
「あのー、ヤスアキ。新しい本が読みたいです」
その言い回しはまだどこかぎこちなくて、だけど、明らかに通じる日本語だった。
「すごいな、マリナ。もうそれだけの本を読んだのか」
「はい。学習するのは楽しいです」
(……やっぱり、話し方はまだちょっと硬いな。完全には打ち解けてない感じ)
僕はそう思いつつ、本棚を一通り見回してみる。
「うーん、僕の本はもう全部読んじゃったか。じゃあ親父に何か借りてこようか?」
「はい。お願いします」
「うん、じゃあ聞いてみるけど……マリナはどんな本が読みたい? リクエストある?」
「はい。どのような本でも大丈夫です。ですが、もし白岳博士がおすすめしてくれる本があれば、それを読んでみたいです」
素直な返答に、僕は少し意外なものを感じた。
「そう? まあ親父は読書好きだから、色々と面白い本もあると思うよ」
「期待しています。よろしくお願いいたします」
「もう少し普通に話していいよ。マリナと僕は同じ学年なんだし、仲良くしよう。同じサイボーグ同士だしさ」
その一言に、マリナはわずかに眉を伏せ、視線を落とすのだった。
「はい。そうするように、心がけます」
その小さな声は、彼女の戸惑いや不安を隠しきれていなかった。
「うん。頼むよ」
僕はできるだけ優しく微笑みかけ、彼女の不安を少しでも和らげようとした──
◇◆◇
マリナの部屋を出た僕は、そのまま父の書斎へと足を運んだ。ドアの向こうからは、低く落ち着いた父の声が聞こえる。相手は誰なのかはわからないが、マリナの件に関係しているのは間違いない。日本国内なのか、それとも国外の政府・機関か──父の奔走している声を聞いて少し頼もしく思う。書斎の中では、父が難しい顔でタブレットを操作しながら、通信相手とやり取りを続けていた。その目にはいつになく真剣な光が宿っていて、僕は少しだけ緊張する。
(父さん……やっぱり、本気なんだ)
父なりに、マリナを「安全な自由の身」にする方法を模索しているのだろう。それはすごく嬉しいし、安心もする。タイミングを見計らいながら、僕は声をかけた。
「父さん、ちょっといい?」
通話が終わったタイミングを見て、そっと声をかけると、父はふっと顔を上げた。
「おう、靖章か。いいぞ、どうした?」
僕の顔を見ると、少しだけ表情を緩める。きっと疲れているだろうに、それでもどこか軽さを見せるあたりは、さすがの胆力だ。
「マリナの件で色々と大変なんだろ? 忙しいところごめん」
「なんだよー、気にするなよ。あの子のことは一度守るって決めたからには、とことんやるから心配すんな」
そのまっすぐな言葉に、僕は内心で少しだけ父を見直した。
「ありがとう、父さん。それで、マリナが僕の部屋の本を全部読んじゃって。父さんの書斎から本を借りようと思って……」
話の本題を切り出すと、父はわずかに目を丸くして口元を綻ばせた。
「そうなのか? マリナちゃんすごいな。素であの子は頭がいいんだな」
驚いたような声だったが、それはどこか嬉しそうでもあった。すると父は、手元のタブレットに目を落とし、操作を始める。
「俺の部屋からいちいち本を持って行くのも大変だし、これを使え。このタブレットで電子書籍を読んだらいい。サブスクで雑誌やら小説やら色々と読めるようになってるから、心ゆくまで読むといいさ」
「なるほど! それはナイスアイデア!」
思わず声が弾んだ。父のアイデアに感謝しつつ、僕は大事そうにタブレットを受け取った。それから、再びマリナの部屋へと戻る。タブレットの使い方を丁寧に教えてから、部屋を後にした僕は、その足取りもどこか軽くなっていた。
◇◆◇
そして――翌朝。
目覚めの瞬間、僕は自分の体にのしかかる異様な重みを感じた。布団がやけに圧し掛かってくる感触に、眠気を引きずりながら顔をしかめる。
「ううーん……なんだよー、重いって……」
寝ぼけた声でつぶやき、まぶたを開けた僕の視界に飛び込んできたのは――僕にぴったりとくっついて、添い寝しているマリナだった。
「え? どうしてマリナが僕の部屋に!?」
一瞬で眠気が吹き飛び、脳内AIが緊急アラートを鳴らす。パニック寸前の僕に、マリナはとろんとした瞳を向け、にっこりと微笑んだ。
「おほよう~、お兄ちゃん」
その破壊力抜群のセリフに、僕の思考回路は一瞬でフリーズした。
「お兄ちゃん!?」
耳を疑った。いや、正確には脳全体がバグを起こした。僕の目の前で微笑むマリナは、完全に"あまえんぼ系妹キャラ"に化けていた。
「マリナ……どうしたの?」
おそるおそる問いかけると、彼女はいたずらっぽく、でもどこか誇らしげにこう答えた。
「えへ。わたし、学習したから。ヤスアキはわたしのお兄ちゃんだよね?」
さらに深まる混乱。僕の脳内AIはフル稼働して、昨夜の行動記録を急ピッチで検索開始。やがて、一つのあり得べからざる仮説にたどり着く。
(……待て。昨夜、マリナに渡したのは……父さんのタブレットだ。そして、あのサブスクには……)
ぞっとする記憶が蘇る。父のサブスクリプション・ライブラリにあった、数々の問題作。特に一冊――あるラノベのタイトルが脳内で赤く点滅する。
『新しくできた義妹がお兄ちゃんを大好きすぎて、あまあまなんです』
まさか……まさかそれを読んで――
「いやー、意地悪言わないで。マリナはいい子にするから……ね?」
甘え声でささやきながら、マリナは僕にぎゅうっとしがみついてくる。その密着感に耐えかねて、僕はジタバタと体をよじった。
「マリナ……ちょっと落ち着こう。少し離れて!」
「いやいやいや……」
潤んだ瞳で僕を見つめるその様子は、まさにラノベのヒロインそのもの。けれどこれは小説ではなく、紛れもない現実だ。
「うう……どうしたらいいんだ……」
頭を抱える僕に、さらなる災厄が降りかかる。バタン、と勢いよくドアが開き、父が乱入してきた。
「こらーいつまで寝てるんだ? って・・・は? 靖章……お前何やってるんだ!」
ベッド上の異様な構図に、一瞬目を見開く父。僕は反射的に弁解を始める。
「いや……ちょっと待って……僕にも何が何だか……」
「口答えするんじゃない! こんな破廉恥な息子に育てた覚えはないぞ!」
「いや……本当に誤解だから!」
焦りまくる僕をよそに、父の指がタブレットを操作し始めた。
「言いたいことはそれだけか? 起動するぞ……自爆装置」
「やめろー!!」
僕は全身全霊で叫んだ。……いや、ちょっと待て。
(って、僕にもあるのか? 自爆装置とか?)
パニックの渦に飲まれながら、ふと冷静に疑問を抱く僕。しかしそんな理性も吹き飛ぶくらいに、マリナはにっこりと微笑み、僕に頬を寄せてくる。
「お兄ちゃん……マリナはずっと側にいるからね」
「どうしてこうなったー!?」
僕の魂の叫びが、大空山に建つ白岳家にこだました。
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