第三十五話 ある少女の反乱
物語は少し前に遡る──。
ロシア太平洋艦隊所属の原子力潜水艦K-583は、ある極秘の特殊任務を帯びてウラジオストックを出港した。艦は静かに日本近海を通過し、やがて太平洋へ進出。その背後には、海上自衛隊のたいげい型潜水艦「げいげい」が音もなく張り付いていた。
ロシア原潜は一旦南に進路を取るが、日本の排他的経済水域から外れたあたりで、不自然にも進路を大きく変更。そこから突然、謎の迷走運動を始める。まるで何かに取り憑かれたような軌道。予測不能の挙動に、追跡していた海自側は緊張を強いられた。
やがてK-583は、警戒中の「げいげい」の目の前で突如浮上。艦橋では艦長以下、乗組員たちがフル稼働でその理由を解析しようと試みたが、核心には至らない。そして浮上後わずかの間に、K-583は再び潜行。今度は進路を北へ。全てが不可解だった。──その異常の原因を、海上自衛隊も、米海軍の高性能分析網も、突き止めることはできなかった。
K-583の真の任務。それは、ある“積み荷”を極秘裏に運ぶことにあった。その積み荷とは、ロシア製の最新鋭女性型サイボーグ。コードネーム《クークラ(人形)》。とある中近東国家からの発注によって特別調整が施された、いわば「外貨獲得用」精鋭機体。
冷戦期より改良を重ねてきたロシアのサイボーグ開発技術は、今や世界でも群を抜いている。その中でもこの“個体”は、戦闘性能において一個大隊を相手取れるワンマンアーミー。そして同時に、造形美においても国宝レベルの完成度を誇る芸術作品だった。
カプセルの中で眠る彼女は、まるで精緻な彫像のように静かだった。わずかにあどけなさの残るその顔立ちは、見た者の心を揺さぶる。艦内の一室──限られた数名の上級士官しか立ち入りを許されぬ密閉空間。誰もが、その存在を「ただの荷物」として扱っていた。
だが、事件は起きる。
出港から5日目、太平洋上──本来なら起動コードを外部から打ち込まねば目覚めぬはずのクークラが、自律的に“覚醒”したのだ。次の瞬間、彼女はカプセルを破壊し、自らの意思で艦内を徘徊し始める。隔離区画であったことが幸いし、外部からの対応が遅れる。だが逆に、彼女が外へ出る障壁はなかった。誰も“人形”が動き出すとは思っていなかったのだ。甘すぎた。
起動したクークラは、眼前の壁を、扉を、兵士を、次々と打ち砕いていく。機械の精密さと人間の獰猛さを併せ持った破壊が、冷たい鋼鉄の艦内を阿鼻叫喚の戦場へ変えていった。艦内はパニックに包まれる。保安要員の発砲もまるで通用せず、銃弾を物ともせず彼女は艦橋へ突入する。そして──艦長を、あまりにも容易く人質に取った。
「私はもうお前たちの思うようにはならない。この艦を浮上させろ。さもなくば艦長の首をねじ切って、物理的にこの艦を沈没させる。私はこの艦が沈もうと、生き残る自信がある。だがお前たちはどうだ? 一緒に海底散歩としゃれこもうか?」
艦橋の空気が一瞬で凍りついた。副長以下、乗組員たちは戦慄した。この“人形”は、その存在自体がこの原潜をも沈没させかねない。そして艦内で、誰一人としてこいつを止められる者はいない。しかも本気で、次に何をしでかすか誰にも予測できない──。K-583は、交渉など挟む余地もなく、すべての要求を受け入れた。
波間を割って緊急浮上。無人の洋上に、彼女が求めた救命ボートや各種装備が手際よく揃えられる。その間、誰一人として彼女に目を合わせようとしなかった。武装など許されるはずもないが、誰も、誰一人、彼女に武器を向けようとする勇気を持たなかった。彼女は、ボートに乗り込む間際、艦を振り返ると、静かに──だが容赦なく言い放つ。
「艦内のどこかに起爆装置を仕掛けた。もし再び私に近づけば直ちに発動する。生きて母港へ帰りたかったら、私を追うな」
言葉の最後の一音が波に飲まれたとき、すでに彼女の姿は水平線の彼方に向かっていた。こうして──人形として運ばれていた少女は、太平洋上で消息を絶った。
◇◆◇
数日後の夜。広島県呉市の安芸灘とびしま海道──。
しとしとと降る雨の中を、一人の少女がとぼとぼと歩いていた。全身を包む黒のレインコートは、真夏のこの時期にはあまりに季節外れで異質。だが幸か不幸か、接近中の台風が彼女の存在感を風景に埋没させていた。
(この方向で……間違いないはず……)
少女は、すでに身体の限界を超えていた。肉体的な疲労はピーク。機械部の稼働も不安定。膝はガクガクと揺れ、視界は周期的に明滅する。そんな状態でも、彼女は歩くことをやめなかった。
(日本にいる……世界最高の科学者の一人……白岳康太郎……この人だったら……私の中にある“首輪”を、外してくれる……)
それだけを信じて、ここまで来た。希望は──それしかなかった。下蒲刈島を抜け、安芸灘大橋を渡る頃には、夜の帳がすっかり下りていた。海風が吹き荒れ、橋の電燈が軋むような音を立てる。その中で、少女の存在はますます薄れてゆく。雨と夜に塗りつぶされるように、ただ歩く。
そして──ついに、目的の場所にたどり着く。
そこは、一見すると町外れの山中にあるポツンと一軒家。だが門に掲げられたプレートには、確かに「白岳康太郎研究所兼自宅」と書かれていた。彼女は最後の力を振り絞って、玄関の呼び鈴を押す。一度。二度。──そして、ゆっくりとドアが開いた。
そこに立っていたのは──白岳靖章だった。Tシャツ姿の、少年。彼女が予想していた「科学者」とはまったく異なる印象。だが彼の瞳には、どこか、不思議と抗いがたい吸引力があった。少女は、かすれた声で名を名乗る。それだけを伝えると──ふっと意識が途切れた。膝が崩れ、重力に身を委ねる自分を、誰かの腕がしっかりと受け止めたことだけは分かった。温かく、確かな手だった。
(……ここまで来られて、よかった……)
そんな安心とともに、全システムがついにシャットダウン。視界が深い闇に包まれてゆく。──少女は静かに、完全に意識を失った。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
もし「面白い!」と思っていただけたら、評価(☆)をぽちっと押していただけると励みになります。
星は何個でも構いません!(むしろ盛ってもらえると作者が元気になります)
そしてよろしければ、ブックマーク登録もお願いします。
更新時に通知が届くので、続きもすぐ追えます!
今後の展開にもどうぞご期待ください。 感想も大歓迎です!




