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第八話『曹操の脅威、迫りくる影』

下邳かひ徐州牧じょしゅうぼくとして君臨する呂布りょふ政権が、内部に深い亀裂と腐敗を抱えながらも、かろうじてその形を保っていた頃、中原の情勢は、まるで濁流のように刻一刻と変化していた。西の長安ちょうあんでは、董卓とうたく亡き後の権力闘争が続き、李傕りかく郭汜かくしらが血みどろの争いを繰り広げ、漢王朝の朝廷は嘲笑の的となり、その権威は地に落ちていた。


しかし、東の兗州えんしゅうにおいては、一人の英傑が、嵐の中で確固たる地盤を築きつつあった。その男の名は、曹操そうそう孟徳もうとく。彼は、黄巾の乱で頭角を現した後、反董卓連合にも名を連ね、知略と武略をもって混乱する兗州を平定した。さらに、建安元年(196年)、廃墟と化していた洛陽らくようから、流浪の身となっていた献帝けんていを自らの本拠地であるきょ(後の許昌)へと迎え入れた。これにより、「天子を奉じ、不義を討つ」という揺るぎない大義名分を手に入れ、中原における群雄割拠の覇権争いにおいて、他の追随を許さぬ、一歩も二歩も抜きん出た存在となっていたのである。


その曹操にとって、東に位置する徐州は、まさに喉元に突きつけられた刃であった。呂布個人の武勇は天下に鳴り響いており、まともに当たれば多大な犠牲を強いられるだろう。また、その背後には、かつて己の陣営にもいた、知略に長けた陳宮ちんきゅうがいる。そして何より、劉備から徐州を奪ったという、義を欠いたその経緯は、曹操に討伐の絶好の大義名分を与えている。放置しておけば、いつ自らの背後を脅かす存在になるやも知れぬ。曹操は、許都の広大な丞相府じょうしょうふにあって、知性に満ちた腹心の謀臣たちを左右に従え、対呂布策を練っていた。


「呂布は、確かに一騎当千の武勇を有しますが、所詮は匹夫の勇に過ぎませぬ。思慮が浅く、人の心が読めぬ。徐州の民心も得られておりません。また、劉備殿を裏切ったことで、周囲の諸侯からも孤立無援。今こそ、これを討伐し、徐州を平定する絶好の好機かと存じます」


そう進言したのは、王佐の才と謳われる荀彧じゅんいくであった。彼の言葉には、冷徹な分析が宿っていた。


「しかし、油断は禁物です、丞相」と、若き天才軍師・郭嘉かくかが、扇子を静かに動かしながら言葉を継ぐ。「呂布自身の武もさることながら、陳宮の知略は侮れませぬ。彼は乱世の行く末を見通す慧眼を持ち、主君に恵まれぬのが難ですが、その策は時に予測を超えます」


郭嘉は、わずかに眉をひそめた。「加えて、最近、奇妙な噂が耳に入っております。東瀛とうえいから来たという、武田勝頼たけだかつよりなる武将が、呂布軍にあって頭角を現しているとか。なんでも、武勇だけでなく、民政や戦術にも独特の才があり、陳宮と組んで徐州の立て直しを図り、兵士や民の間で静かに人望を集めているとか。その戦ぶり、これまでの呂布軍には見られぬ連携と、尋常ではない武技であるとの噂も…」


「ふむ…東瀛の武将とな?」


曹操は、それまでの無表情を崩し、興味深げに眉を動かした。その瞳に、好奇心と、そして新たな獲物を見つけたかのような輝きが宿る。


「陳宮に、異邦の、しかも武勇と治世に長ける武将か。確かに、一筋縄ではいかぬやもしれんな。容易く大軍を動かすのは、危険を伴う」


程昱ていいくが、顎鬚を撫でながら、さらに付け加える。


「丞相の仰せの通り。まともに攻めれば、呂布の牙城は手強いでしょう。幸い、呂布は猜疑心が強く、賢臣である陳宮をも完全に信用しておりませぬ。内部は既に一枚岩ではございません。まずは調略を仕掛け、その亀裂をさらに深くし、内部から切り崩し、弱体化させてから、頃合いを見計らって、大軍をもって一気に叩くのが上策かと存じまする」


曹操は、謀臣たちの意見を注意深く聞き終えると、満足げに頷いた。彼らの意見は、曹操自身の考えと寸分違わなかった。


「うむ。皆の意見、大いに参考になった。程昱の言う通りじゃ。正面から戦う前に、まずは呂布の足元を徹底的に揺さぶることから始めよう。満寵まんちょう、そちに密命を与える。徐州へ潜入し、呂布配下で、特に陳宮や勝頼と対立し、不満を持つ将や役人を探し出し、巧妙にこちらへ寝返るよう調略せよ。策謀は、力よりも遥かに効果的だ」


「ははっ! この満寵、命に代えても務めを果たしてまいります!」


満寵は、恭しく命を受けた。こうして、天下を覆い隠さんとする曹操という巨大な影による、呂布政権への静かで、しかし確実に内部を蝕む侵食が開始されたのである。


一方、下邳城の陳宮もまた、遠方からの曹操の動きを、肌で感じるかのように警戒していた。彼は、かつて短期間ながら曹操の下にいた経験があり、その冷徹な合理性、底知れぬ知略、そして天下統一への執念の恐ろしさを、誰よりも身をもって知っていた。曹操の用兵術の巧みさ、そして何より、荀彧、郭嘉、程昱、満寵といった優れた人材を次々と集め、適材適所で使いこなすその器の大きさは、今の主君・呂布とは、あまりにも対照的であった。


(曹操が…許都に天子を迎え入れたとなれば…天下に大義名分を得たことになり、次なる狙いは…必ずやこの豊穣な徐州…)


陳宮は、自身が築き上げた独自の、しかし貧弱な情報網(かつての知人、買収した商人、密かに放った間者など)を通じて、曹操軍の動向、特にその動きが徐州へ向かっていることを察知していた。それは、もはや疑いようのない、現実の脅威であった。彼は、一刻も早く備えねばと、何度も呂布の元へ赴き、その差し迫った危険性を訴えた。


「呂布様! 曹操は、今や天子を擁し、大義名分を手にし、名実ともに天下の盟主となりつつあります! 必ずや、この徐州を狙ってまいりますぞ! もはや猶予はありませぬ! 今のうちに、老朽化した城壁の守りを固め、兵糧を最大限に備蓄し、徐州内の諸将との連携を密にして、来るべき曹操の大軍襲来に備えねばなりませぬ!」


しかし、呂布は、相変わらず陳宮の言葉を、耳障りな雑音としか受け止めようとはしなかった。先の黄巾賊討伐や、劉備からの徐州奪取という、比較的容易な成功体験が、彼の慢心をさらに増長させていた。天下無双の武勇を持つ自分が、曹操などに負けるはずがないという、根拠のない過信。


「曹操など、何を恐れることがある! 陳宮、貴様は臆病風に吹かれすぎだ! あの男は、かつてわしに兗州を奪われかけたではないか! 武勇においては、わしの足元にも及ばぬわ! 天下に敵なし、この方天画戟一本あれば十分だ! 来るなら来てみよ! この呂布奉先が、まとめて叩き伏せてくれるわ!」


それどころか、呂布は、自分にとって不都合な真実を突きつける陳宮に対し、前話に増して強い疑いの目を向け始めていた。


「それより陳宮、貴様は最近、あの東瀛の男(勝頼)とばかり、夜遅くまでこそこそと話しておるようだな? しかも張遼まで加わって。一体何を企んでおる? まさか、二人で徒党を組み、わしから徐州を奪うつもりではあるまいな? わしに不安を植え付け、混乱に乗じて…?」


陳宮は、主君からの、根拠のない、そして最も心を痛める不当な疑いに、言葉を失うしかなかった。呂布の猜疑心は、有能な臣下を遠ざけ、滅亡へと近づけているのだ。


この状況に、誰よりも強い不安と、そして故郷の滅亡を重ね合わせた恐怖を覚えていたのは、勝頼も同じであった。彼は、かつて織田信長という、圧倒的な兵力と冷徹な合理性を持つ敵と対峙し、武田家が、慢心と旧態依然とした戦術によって、脆くも敗れ去った、あの長篠の戦いを経験している。そして、その信長にも劣らぬ、あるいはそれ以上の、底知れぬ恐ろしさを、遠方の曹操という男に感じ取っていたのである。


「…陳宮殿…このままでは…この下邳は…長篠に…なりかねぬ…」


勝頼は、故郷での武田家滅亡の記憶と、目の前の呂布軍の惨状を重ね合わせ、言いようのない、吐き気にも似た焦燥感と、そして故郷の悲劇を繰り返させたくないという切迫感に駆られていた。呂布の、現実を見ようとしない盲目的な慢心と、曹操の、全てを見通すかのような周到さ。このままでは、戦わずして勝敗は火を見るより明らかだ。彼には、天目山で見た、武田家最後の悲惨な光景が、徐州の未来と重なって見えた。


結果として、当主である呂布自身の盲目的な慢心と、陳宮や勝頼といった有能な臣下に対する根深い猜疑心、そして政権内部の不和により、曹操軍の侵攻に対する具体的な備えは、遅々として進まなかった。陳宮や勝頼、張遼らが懸命に訴え、僅かな予算を工面して始めた老朽化した城壁の修復は中途半端なまま放置され、冬を越すための兵糧の備蓄も全く十分とは言えない。彼らは、迫りくる巨大な脅威を前に、ただ焦りを募らせるばかりであった。


中原の覇権を握らんとする曹操という巨大な影が、静かに、しかし確実に徐州へと伸びてきていた。それは、やがて全てを飲み込む嵐の前の、不気味な静けさのようでもあった。果たして、内憂外患を抱える呂布政権は、この冷徹で周到な曹操の大軍侵攻を防ぐことができるのであろうか。それとも、かつての武田家のように、時代の波に飲まれ、滅亡の道を辿るのだろうか。徐州の空に、不吉な暗雲が、ますます厚く垂れ込めていた。

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