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第七話『陳宮の苦心、勝頼の献策』

下邳かひ徐州牧じょしゅうぼくとして居座った呂布りょふは、相変わらず連日連夜の酒宴に明け暮れ、民の苦しみにも、政務にも全く無関心であった。城内には側近たちの下卑た笑い声と、彼らが貪り集めた財の匂いが充満し、城外では民の呻きが日増しに大きくなるばかり。この徐州の荒廃を防ぐため、軍師・陳宮ちんきゅうは、文字通り己の血肉を削るように、寝る間も惜しんで政務に励んでいた。机の上には、税を逃れた者の訴状、役人の不正を告発する投書、飢えを訴える村からの報告が山積みになっていた。その疲弊しきった顔には、主君への諦念と、重すぎる責任感が刻まれている。


そんな陳宮にとって、武田勝頼たけだかつよりという、この異郷で出会った予期せぬ協力者の存在は、まさに地獄に差す一筋の光であった。勝頼がもたらす故郷「日ノ本」の知恵は、陳宮にとって驚くほど新鮮であり、そして、中原の、あまりに固定的になった常識にとらわれない発想が、行き詰まりかけていた多くの政務を打開する鍵となることも少なくなかったのである。


「勝頼殿…夜更けに申し訳ない…しかし…先日の…治水工事…貴殿の…助言のおかげで…まことに…見違えるように…進んでおりますぞ…」


陳宮は、目の下のクマを隠すように、疲れた顔にわずかな笑みを浮かべて語りかけた。二人は、夜遅く、陳宮の質素な、しかし散乱した執務室で、油灯を囲み、徐州の地図や木簡を広げ、今後の施策について語り合うことが、日課となっていた。陳宮は、勝頼の辿々しい言葉と、描かれた図、そして身振り手振りから、その意図を汲み取ることに全神経を集中させる。


「いや…某の…故郷の…やり方が…この地に…そのまま…通じるか…分からぬ…陳宮殿の…御実行力と…中原の…事情に…合わせた…応用…あってこそ…」


勝頼は、謙遜するが、彼の提案は常に具体的で、そして何よりも、乱世に苦しむ民の生活に深く根差したものであった。それは、かつて父・信玄が民と共に歩んだ道を、異郷で再現しようとするかのような、勝頼自身の切なる願いでもあった。


例えば、勝頼は、武田領で厳密に行われていた検地――土地の広さだけでなく、その質によって等級を分け、収穫量を予測し、それに基づき四公六民などの公平な税率を定めるという、日本の村社会に根差した精緻な制度――を参考に、徐州内の田畑の正確な測量と、それに伴う、より公平な税率の設定を陳宮に提案した。もちろん、呂布やその側近たちの贅沢な暮らしを支えるためには、税そのものを劇的に軽くすることは不可能である。陳宮は、主君の要求と民の苦しみの狭間で、血を吐くような苦悩を抱えながらも、勝頼の提案を応用し、少なくとも理不尽な不公平感をなくし、民の不満を少しでも和らげようと、文字通り身を削って努めた。


また、勝頼は「目安箱」の設置を提案した。城門の脇、市場の賑わい、そして城下の主要な場所に、誰でも投書できる鍵付きの箱を設置し、民衆が直接、役人の不正や兵士の横暴、あるいは政策への意見や苦情などを、匿名で投書できるようにする、というものである。


「民の…声を聞かずして…良い政治は…できぬ…たとえ…耳の痛い…ことであっても…それに向き合う…ことが…為政者の…務めと…父…信玄は…申して…おりました…」


勝頼の、訥々とした、しかし力強い言葉に、陳宮は深く頷いた。主君は民の声に耳を傾けぬ。ならば、せめて自分が聞こう。早速、目安箱は城下数ヶ所に設置された。最初はおっかなびっくりだった民衆も、やがて箱の存在を知り、匿名で訴えられると分かると、堰を切ったように多くの投書が寄せられた。そこには、役人の名を挙げて不正を告発するもの、兵士の横暴を訴えるもの、そして中には、呂布自身への痛烈な批判や、劉備の治世を懐かしむ悲痛な叫びもあった。


これらの投書に目を通した呂布は、激怒して目安箱を即刻撤去させようとした。


「なんだこれは! わしへの批判だと! 馬鹿な! 民など黙らせておけば良いのだ! 目安箱など、不満の種を撒き散らす愚行だ!」


「呂布様、お待ちくだされ! 民の不満は、蓋をすればするほど内部で煮え滾り、いつか必ず爆発いたします! 今、小さな不満を吸い上げ、対処することが、大きな動乱を防ぐことに繋がるのです! 民の心を知らずして、どうしてこの徐州を治められましょう!」


陳宮は、呂布の激昂を前に、額に脂汗を滲ませながら必死に説得し、何とか目安箱を存続させるのであった。寄せられた情報をもとに、陳宮は悪質な役人を処罰し、兵士の規律を正そうと、地道な改革を進めたが、呂布の寵愛を受ける側近や、彼らと結託した腐敗した者たちには、なかなか手が届かないという、もどかしい現実があった。


こうした陳宮と勝頼の、文字通り血と汗の滲むような地道な努力に、当初は傍観していた呂布軍の中にも、共感し、協力しようとする者たちが現れ始めていた。その筆頭が、涼州りょうしゅう出身の猛将・張遼ちょうりょう文遠ぶんえんであった。彼は、呂布の個人的な武勇には、かつて並ぶ者がないと敬意を払っていたが、その将としての器量、民を治める能力には、深い失望と疑問を感じていた。一方で、勝頼の、異邦から来たにも関わらず見せる揺るぎない武勇と、特に兵や民を思いやる「仁」の心、そして故郷の信義を重んじる実直さに、深い感銘を受けていたのである。彼は、勝頼の中に、自分自身が理想とする将の姿を見ていた。


「勝頼殿、貴殿のやろうとしておられることは、正しい道だ。この徐州を立て直し、民を安んじる。そのために、某も、及ばずながらこの剣、この力、全てを貴殿に貸そう」


張遼は、ある日、勝頼の元を訪れ、静かに、しかし強い意志をもってそう告げた。それは、呂布への忠誠と、自身の求める理想との狭間で苦悩した末の決断であった。彼は、自ら進んで、勝頼が提案した武田流の「組」単位での連携訓練の指導役を買って出た。彼は、呂布軍の、個人の武勇に偏りがちな兵士たちに、仲間と連携し、互いを助け合い、組織として一つの塊となって戦うことの重要性を説き、厳しい、しかし合理的な訓練を施した。


勝頼も、言葉の壁があるため、陳宮を介し、時には自ら訓練に参加し、日本の剣術や槍術、そして武田流の歩兵や騎馬の連携の動きを手ほどきすることもあった。張遼は、その独特の、しかし理に叶った動きに驚き、貪欲に技を学んだ。剣を交わす中で、互いの呼吸を感じ取り、言葉は完全には通じなくとも、武人同士の深い理解と、確かな友情が育まれていった。陳宮は、この二人の武人が心を通わせ、協力し合う姿を、遠巻きに見守りながら、わずかな希望の光を感じていた。


しかし、こうした陳宮、勝頼、張遼による前向きな、しかし地道な努力も、常に呂布という大きな壁に、そして彼の根拠のない猜疑心に突き当たった。呂布は、陳宮や勝頼、そして今や腹心の部下である張遼までもが、自分を差し置いて何かを進めていることに、ますます不快感と、そして抑えきれない猜疑心を募らせていた。彼らが徒党を組み、民心を得て、自分から全てを奪い取るのではないかという強迫観念にも近い恐怖。


彼は、気分次第で訓練を急遽中止させたり、苦労して集めた治水工事の予算を、突如として酒宴や宮殿の改築、あるいは愛妾への褒美に湯水のように流用したりと、彼らの努力を妨害するような、理不尽な行動を繰り返した。


「まったく…呂布様は…いつまでこのようなことを…」


陳宮は、その度に頭を抱え、吐血せんばかりに苦悩した。勝頼や張遼もまた、主君の愚行と妨害に、激しい怒りを抑えるのに苦労した。しかし、彼らは諦めなかった。呂布の目を盗むように、あるいは、表向きは呂布の命令に従うふりをしながら、少しずつでも徐州を立て直し、来るべき、避けられぬ日に備えようと、ただひたすらに、地道な努力を続けるしかなかったのである。


民衆の間では、かつて呂布軍を畏れていた頃とは打って変わって、「徐州を本当に支えているのは、あの陳宮様と東瀛の勝頼様、そして張遼様だ」「呂布様だけでは、とてもこの乱世は生き抜けぬ…」という声が、もはや隠すことなく、公然と囁かれるようになっていた。それは、陳宮たちの苦心が、確実に民の心に届き、実を結びつつある、紛れもない証拠であった。


だが、皮肉なことに、その民衆の高い評判は、同時に、呂布の耳にも届いていた。彼の中で膨れ上がった猜疑心は、さらに彼らを遠ざけ、亀裂を深める。嵐の前触れのように、徐州の空には、不穏な暗雲が、かつてないほど厚く垂れ込め始めていたのである。その内部に生まれた深刻な亀裂を、天下を窺う外敵、特に冷徹な現実主義者である曹操のような男が見逃すはずもなかったのである。

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