第五話『風、徐州に吹き荒れて』
建安元年(196年)冬。天を衝くかのような土砂降りの夜雨が、出陣した呂布軍数千の足音を、まるで最初から存在しなかったかのようにかき消していた。鎧は雨に濡れ、馬は泥濘に足を取られながらも、兵士たちは黙々と前へ進む。目指すは、南東に位置する劉備玄徳の本拠地・下邳の城。主君・劉備が袁術討伐のため、遠征で城を留守にしているとは知らず、城内は今頃、平穏な夜を迎えているはずであった。呂布の兵たちは、これから行う裏切り行為への、無意識の戸惑いや、あるいは略奪への期待を胸に抱いている。
呂布は、雨に濡れた赤兎馬に跨り、稲光に照らされるたびに、その顔に勝利への渇望と、獲物を狩る獣のような鋭い光を宿らせていた。先頭で逸る心を抑えきれない様子が、その荒い息遣いからも伝わってくる。その後ろに続く陳宮の表情は、夜の闇よりも硬く、これから行われる非道への苦渋と、抗えぬ運命への諦念が滲んでいた。そして勝頼は、後方部隊のただ中にあって、雨に打たれる泥濘の道を、鎧に雨粒が打ち付ける音を聞きながら、ただ黙々と馬を進めていた。彼の心は、空を覆う重い雨雲のように、黒く、重く垂れ込めていた。故郷を裏切った敗軍の将が、今、異郷で、新たな主君の裏切りに加担しようとしている。その事実が、彼の胸を押し潰しそうになっていた。
夜明けが、灰色の空の向こうでうっすらと白み始める頃、呂布軍は下邳城下に到達した。物音一つ立てず、城壁の影に潜む数千の軍勢。張り詰めた静寂の中、緊張感が肌を刺す。冷たい雨が、兵士たちの頬を伝う。そして、計画通り、城壁の上から、一本の松明が上がる。それが、内応の合図であった。
劉備配下の将、曹豹が、主君を裏切り、呂布に城門を開く手引きをしたのだ。彼は、かねてより劉備配下の張飛翼徳との間に激しい確執があり、また、呂布からの莫大な賄賂と、「徐州を得た暁には、お前を太守として遇する」という甘言に乗せられ、己の野心のために主君を裏切るという、最も忌まわしい道を選んだのであった。
「開門!」
曹豹の、震え声ながらも確かな指示一下、固く閉ざされていたはずの下邳城の巨大な城門が、重々しい金属音と木材の軋む音を立てながら、ゆっくりと内側へ開かれていく。その向こうには、城内の静寂が広がっている。
「突撃ぃ! 呂布奉先、まかり通る!」
呂布は、待ってましたとばかりに方天画戟を振り上げ、狂気にも似た高揚と共に咆哮した。呂布軍の兵士たちが、堰を切った怒涛の如く、開かれた城門から、鬨の声を上げながら城内へとなだれ込む! 泥と雨にまみれた鎧の波が、城内へとなだれ込む。
城内を守っていたのは、張飛翼徳。彼は、その夜、城下の酒楼で少々酒を過ごし、酩酊していた。劉備の留守中にも関わらず、警戒を怠っていたのだ。劉備が危険を冒してまで荊州へ袁術を討伐しに行ったというのに…。酒に酔い、深く眠り込んでいた張飛であったが、城門からの異様な轟音と、遠くから聞こえる呂布軍の鬨の声に、酒が一気に醒めた。兄から預かった城と家族。裏切られたという現実。激しい怒りと、致命的な油断をしてしまったことへの自責の念が、彼の心を打ち砕いた。
「何事だ! 敵襲か! 馬鹿め、何をしている!」
張飛は、寝台から飛び起き、慌てて鎧兜を身に着ける。血走った眼で、部屋の隅に立てかけられた愛用の蛇矛を手に取る。その冷たい金属の感触に、ようやく事態の深刻さを悟った。しかし、時すでに遅し。城内は、なだれ込んできた呂布軍の兵士たちで溢れかえり、あちこちで混乱と凄惨な戦闘が始まっていた。民衆の悲鳴、怒号、そして兵士たちの叫び声が、雨音を切り裂いて響き渡る。
「くそっ…! 曹豹め、やはり裏切りおったか…!」
張飛は、内応者の存在を確信し、怒りに全身を震わせた。劉備の恩を仇で返した裏切り者への激しい憎悪。しかし、それ以上に、兄から預かった城と家族の危機に、焦燥が彼の心を焼き尽くした。彼は、まず劉備の家族――甘夫人と糜夫人――が避難している館へと駆けつけようとした。彼らは、劉備にとって、そして張飛自身にとって、最も大切な宝であった。しかし、行く手には、呂布軍の兵士たちが波のように立ちはだかる。
「どけぇい! 目障りな奴らめ!」
張飛は、愛用の蛇矛を怒濤の勢いで振るい、鬼神の如き強さで敵兵を文字通り蹴散らしていく! 一撃で鎧ごと兵士を吹き飛ばし、地面に叩きつける。その驚異的な武勇は、数の利で攻め込む呂布軍の兵士たちをも一瞬怯ませ、道を譲らせるほどの威圧感を持っていた。彼の周りだけ、血飛沫が舞い、敵兵の死体が積み上がる。
しかし、多勢に無勢は覆しがたい。さらに、城内の混乱の中、どこからか卑劣にも、味方を装った曹豹の配下の兵士によって矢が射掛けられ、張飛は左腕に深手を負う。
「ぐっ…! この…!」
彼は、歯を食いしばり、血を流しながら必死に夫人たちの館を目指すが、内応者である曹豹の配下が巧みに道を塞ぎ、あるいは偽の情報を流して、張飛の到着を妨害する。その間に、甘夫人と糜夫人が避難している館は、呂布軍の兵士に取り囲まれてしまった。
張飛は、遠巻きに館を取り囲む兵士たちの姿を認め、もはや夫人たちを守りきれないことを悟った。無念と自責の念が、彼の猛々しい顔を歪ませる。兄から預かった大切な家族。それを守りきれなかった自分自身の油断。彼は、空を見上げ、涙ながらに「兄者…! 張飛、不覚を取りました…! 申し訳ござらぬ!」と絶叫した。そして、少数の手勢と共に、夫人たちを救う望みを断ち切り、辛うじて城の一角を突破し、血路を開いて、降りしきる雨の中へと、泥まみれになりながら落ち延びていった。彼の愛用の蛇矛が、行く手を阻む敵兵をなぎ倒し、屍の山を築く。その壮絶な敗走劇の背中には、敗北の影と、深い絶望が張り付いていた。泥まみれの手に握られた蛇矛の刃が、鈍く月光を反射し、彼の無念さを物語るかのようだった。
下邳城は、こうしてわずか一夜で、完全に呂布軍の手に落ちた。しかし、勝利したはずの呂布軍の内部では、早くも新たな混乱と、醜い欲望が噴出していた。呂布の指揮は、城を奪ったことで目的を果たしたかのように行き届かず、統制を失った一部の兵士たちが、勝利の勢いと野蛮な本能に任せて、城内の民家へ押し入り、略奪や暴行を働き始めたのである。財宝を漁り、食料を奪い、女子供に手にかける。悲鳴と怒号、泣き叫ぶ子供の声…阿鼻叫喚の声が、城のあちこちから、雨音に混じって木霊のように聞こえてくる。それは、天目山で勝頼が見た、戦乱に苦しむ民の姿そのものであった。
「やめろ! 貴様ら、何をしている! それ以上、民を苦しめるな!」
後方から城内に入った勝頼は、その目を覆うべき惨状を目の当たりにし、全身の血が沸騰するような激しい怒りに駆られた。故郷で見た、戦乱に苦しむ民の姿が、そのまま眼前に広がっていたのだ。彼は、傍らにいた自らの配下(先の黄巾賊討伐で加わった元賊や、彼の「仁」に心を動かされた呂布軍の兵士たち)に、鬼気迫る声で命じた。
「これより、我が隊は城内の略奪を一切禁ずる! 我らに下らぬ民を苦しめる者は、たとえ呂布様の兵であろうと、我が太刀にかけて斬り捨てる! 心得たか! 行くぞ!」
勝頼は、自ら愛用の日本の太刀を抜き放ち、馬を駆り、略奪を行っている兵士たちを見つけると、容赦なくこれを制止し、打ち払った。「武器を持たぬ民に刃を向けるは、武人の恥と知れ!」言葉は拙くとも、その凄まじい気迫と、振り下ろされる刃の威圧感に、略奪に狂奔していた兵士たちは怯み、一時的にではあるが手を止めた。勝頼の行動に、一部の呂布軍兵士からは「なんだあの異邦人は」「俺たちの獲物を横取りする気か」「面倒な真似しやがって」といった罵声や、命令を無視しようとするような、嘲るような視線が向けられた。彼らの目つきには、略奪の興奮と、異邦の将への反感が混じり合っていた。しかし、勝頼の圧倒的な気迫と、彼の配下たちの「勝頼様のためなら」「略奪など許せぬ」という、勝頼への信頼と略奪への嫌悪が入り混じった眼差しに、彼らはそれ以上の抵抗はできなかった。一方、地下壕や物陰に隠れて怯えていた民衆からは、救いの手を見出したかのような、感謝と安堵の声が上がった。
その最中、勝頼は、城内の一角で、恐怖に顔を引きつらせ、兵士たちに囲まれ、今にも辱められようとしている数人の女性たちを発見した。纏っている衣装や気品からして、尋常な身分ではないことは明らか。彼女たちが、劉備の夫人であると推測できるような、高貴で洗練された衣装、そして彼女たちが身を隠そうとしていた場所が、劉備の館であったことを示す痕跡。勝頼は、それらの情報と、以前陳宮から劉備が「仁徳の士」であると聞いた噂、そして劉備に徐州の一部を使わせてもらった恩義、何よりも故郷で弱き者が戦乱に苦しむ惨状を見てきたことへの義憤が結びつき、彼女たちが劉備の夫人たちであると確信し、助けねばならぬと決意した。
「下がれ! そこな者ども! その方々に指一本でも触れることは許さぬ! 無礼を働く者は、このわしが許さんぞ!」
勝頼は、猛然と駆けつけ、夫人たちを辱めようとしていた兵士たちを一喝し、太刀を突きつけて追い払った。彼は、馬から降り、震えながら身を寄せ合っている夫人たちに、できるだけ穏やかな声で語りかけた。言葉はまだ辿々しいが、その哀しみを湛えた眼差しと、敵意のない態度は、彼女たちの心を少しだけ解きほぐした。
傍らに駆けつけた陳宮が、勝頼の意図を瞬時に理解し、夫人の恐怖を和らげるように言葉をかけた。
「ご婦人方、ご安心くだされ。この方は、東瀛の武人、武田勝頼殿と申される。今は、呂布将軍の下におられますが、民や弱き者を慈しむ御仁。某の命ある限り、貴女がたをお守りいたします」
勝頼は、陳宮の助けを借りながら、重ねて彼女たちを安心させた。そして、後から駆けつけた呂布配下の有力な将である張遼に対し、夫人たちを安全な館へ移し、丁重に保護することを強く要請した。人質としての価値、そして後々の交渉に使えると考えた陳宮もまた、勝頼の強い意志と、その場で略奪兵士を打ち払った行動を見て、これを了承した。
「勝頼殿、貴殿の責任において、厳重に、しかし丁重にお扱いくだされ。丁重に、だ」
陳宮は念を押した。張遼もまた、勝頼の、この乱世においては珍しい義侠心ある行動に、静かに感銘を受けたかのように頷いた。
下邳城は、こうして一夜にして、完全に呂布の手に落ちた。呂布は、自らが徐州の新たな主となったことを高らかに宣言し、血の匂いがまだ残る城内で、盛大な祝宴を開いた。略奪で得た財宝、劉備から奪った食料、献上された美酒。勝利の美酒に酔いしれる呂布とその側近たちからは、下品な笑い声と、欲望の臭いが立ち込めていた。
しかし、その華やかな宴の喧騒から離れた、月の光に照らされる城壁の上で、勝頼は一人、遠い故郷の空を思って夜空を見上げていた。隣には、いつの間にか静かに陳宮が立っている。夜風が、二人を静かに包む。
「陳宮殿…これが…これが…乱世の…戦か…」
勝頼の声は、雨に濡れた地面のように重く、やるせない響きがあった。
「…左様…勝頼殿…勝つためには…時に…道を踏み外すことも…厭わぬ…それが…この中原では…生き残る術…」
陳宮は、勝頼の苦悩を理解するかのように、言葉を探しながら静かに答えた。そして、その横顔を見つめ、確かな響きをもって言葉を続けた。
「しかし…勝頼殿…貴殿が本日…あの惨状の中で…示された『仁』…そして…劉備殿の奥方たちを…お守りした心根…決して…決して…忘れてはなりませぬぞ…某は…あの祝宴で酔い痴れる者たちには…見えぬ光を…貴殿に…見ました…」
陳宮は、ゆっくりと、しかし力強く語った。
「力だけでは…人は…真についてこぬ…力で奪ったものは…力で奪い返される…しかし…『仁』は…人の心を繋ぎ止める…それこそが…いつかこの乱世に…真の泰平をもたらし…真の天下を掴むための…最も…最も大切なものやもしれませぬからな…」
陳宮の言葉は、非情な現実の嵐に打ちのめされ、己の存在理由を見失いかけていた勝頼の心に、小さな、しかし確かな灯火を灯した。この乱世にあって、己の信じる道は間違ってはいない。陳宮という理解者がいる。その事実が、彼に再び立ち上がる勇気を与えた。
徐州に吹き荒れた嵐は、一夜にして下邳城を呂布の支配下に置いた。しかし、それは血と裏切りによって手に入れた歪んだ基盤の上に築かれた支配であり、早くも呂布政権は、内部に大きな亀裂と、将来への深い不安を抱え込むことになったのである。嵐が去った城に、不穏な風が吹き始めていた。長江の川面を、月の光が静かに照らし出している。しかし、その光の向こうには、燃え尽きた呂布軍の船団の残骸が、黒い影となって浮かんでいた。それは、力で奪い取ったものの、燃え尽きてしまう脆さを示唆しているかのようだった。一方、勝頼と陳宮の心に灯った小さな希望の炎は、この闇の中を、遠い未来まで照らし続けるかのように、静かに、しかし確かな光を放っていた。