第四話『徐州激震、裏切りの影』
呂布が徐州を奪い、小沛城に居を移して数ヶ月。武田勝頼は客将として呂布に仕え、軍師・陳宮とは深い信頼関係を築きつつあった。陳宮と勝頼は、呂布の暴政と民の苦しみを憂い、密かに徐州の立て直しを図り始めていたが、呂布の猜疑心と無理解は、彼らの努力に常に影を落としていた。城内には、豪華さと同時に、どこか歪んだ、荒んだ空気が漂っていた。
ある日、小沛の城門に、物々しい砂塵と共に、南からの使者の行列が到着した。旗差物には「袁」の文字。使者は、南の揚州に強大な勢力を張る袁術からの使者であり、その名を紀霊、袁術配下でも武勇と知略に長けた上将であった。彼は、山海の珍味を満載した車、陽光にきらめく美しい絹織物、そして数名の妖艶な美女たちを伴い、呂布への貢物として差し出した。その豪華さは、呂布を喜ばせるには十分すぎるほどであった。
謁見の間。豪奢な、しかしどこか下品な玉座に、呂布はふんぞり返っていた。彼の周囲にいる側近たちは、呂布の顔色を窺い、下卑た笑みを浮かべている者も少なくない。差し出された豪華な貢物に、彼は目を細め、浅ましい喜悦を顔に浮かべる。その表情には、天下無双の猛将としての威厳よりも、成り上がりの強欲さが色濃く滲んでいた。紀霊は、流れるような口上で、袁術からの親密な書状を読み上げる。その内容は、呂布の武勇を「古今無双」「天下第一」と持ち上げ、ぜひとも固い同盟を結びたいという申し出であった。そして、さらに呂布の野心を巧みにくすぐる甘言が続いた。
「…呂布将軍こそ、乱れに乱れた今の漢王朝に代わり、新たな泰平の世を開く天子となるに相応しいお方。我が主君・袁術様も、将軍の御覇業を全面的に支援するおつもりでございますれば、この同盟が成れば、天下統一も夢ではございませぬ!」
紀霊は、そう言って深々と頭を下げた。呂布は、その言葉に顔を紅潮させ、野心的な光を目に宿らせていた。彼の頭の中には、自らが天子となり、天下に君臨する栄華の光景が広がった。
だが、話はそれだけでは終わらなかった。紀霊は、周囲の者には聞かれぬよう、声を潜め、呂布に耳打ちするように続けた。その声には、他者を貶めるための巧妙な毒が混じっていた。
「されど、呂布将軍。貴殿の足元には、未だ憂いが残っておりますな。そう、下邳に本拠を置く劉備玄徳のこと。彼は表向きは仁徳者を装い、民の信望を集めておりますが、あれほど人の心を掴む者は、いずれ主君の座を脅かす危険な存在。かつて陶謙殿の下でも、徐州の民はたちまち彼に心服いたしました。あれは全て天下を狙うための演技にございます。内心では、将軍が御貸しくださった徐州の地を奪い返そうと、虎視眈々と機会を窺っておりますぞ。人の好さそうな顔をしておりますが、あれは危険な男。人の心は、兵十万よりも手強い武器となり得ます。今のうちに、この厄介な芽を摘んでおかねば、後々必ずや貴殿の脅威となりましょう」
呂布の眉が、ピクリと激しく動いた。彼は自身、心のどこかで劉備の存在を疎ましく思っていた。自分が恩着せがましく徐州の一角を貸してやったのに、劉備は力で押さえつけるのではなく、民に寄り添うことで、自分よりも民心を得ている。それが不愉快だった。いつかこの貸しを盾に、自分を裏切るのではないかという、彼の根深い猜疑心も、常に胸中に燻っていた。そこへ、天下を共に目指そうという袁術からの甘言と、長年の不安を突く劉備討伐の唆し。呂布の単純な野心と、容易く刺激される猜疑心は、一気に燃え上がった。
「よし! 紀霊殿、よくぞ申してくれた! 劉備め、わしが徐州の一角を使わせてやった恩も忘れ、陰でこそこそと動きおって! まさか、袁術に先を越されるとはな! この際、完全に叩き潰してくれるわ! 袁術殿との同盟、謹んでお受けしよう!」
呂布は、疑念や躊躇など欠片もなく、すっかりその気になっていた。彼の頭の中には、劉備を倒し、徐州全土を完全に手に入れる、その後の栄華の光景しか見えていないようだった。
この動きに、いち早く危険な兆候を察知し、異を唱えたのは、やはり陳宮であった。彼は、劉備が民心をいかに得ているかを知っており、また袁術という男の信の置けなさを誰よりも理解していた。劉備を討つことの戦略的な不利、そして何よりも、曹操に隙を見せる致命的な愚策であることを、彼は見抜いていた。
「呂布様、お待ちくだされ! 袁術は欲深く、信の置けぬ男にございます! その者を頼り、恩人である劉備殿(劉備が徐州を貸してくれたことへの恩義を含めて)を討つなど、あまりに危険すぎます! 劉備殿は、確かに目障りな存在やもしれませぬが、今、彼を討てば、我らは天下の信望を完全に失いますぞ! 乱世において、民や賢者の支持を失うは、何よりも恐ろしいこと! それこそ、天下に覇を唱える最大の敵である曹操に付け入る隙を与えることになりましょう!」
陳宮は、切羽詰まった表情で、しかし論理的な言葉を選び、必死に諫言した。劉備を討つことで得られるものは目先の利益のみ。失うものは大きすぎる。それは、呂布軍の滅亡に繋がる道だと、陳宮にははっきりと見えていた。
その場に同席していた勝頼もまた、陳宮の言葉の真意、そして呂布が犯そうとしている過ちを悟り、顔色を蒼白に変えて進み出た。彼の言葉はまだ流暢ではないが、その根源的な怒り、そして故郷で学んだ「義」を汚すことへの嫌悪感は、全身から溢れ出て十分に伝わった。その瞳には、故郷の義を汚されることへの嫌悪感が宿り、主君の非道を止められない悲壮感が滲んでいた。
「呂布…将軍…! 劉備殿…恩人…! わし…徐州…住む…劉備殿…許し…!」
勝頼は、陳宮が通訳した劉備からの恩義(徐州の一部を呂布軍が使わせてくれたこと)に言及したかった。そして、
「恩を…仇で返す…武士の道…違う! 絶対…ダメ…! 不義…!」
勝頼は、知っている限りの単語を絞り出し、全身の力を込めて体を震わせながら強い身振りで訴える。その必死な声は、言葉の壁を超え、彼の魂の叫びとなって、謁見の間に響き渡った。呂布が犯そうとしているのは、武士として、そして人として最も忌み嫌うべき行為。故郷で見た、信義を失った者たちの哀れな末路が、彼の脳裏に蘇った。
しかし、野心と猜疑心に目を眩ませ、酒に酔い始めていた呂布に、彼らの言葉は届かなかった。彼は陳宮と勝頼に背を向け、耳を塞ぐかのような仕草をした。彼の頭の中で、賢臣の言葉は、自身の欲望と野望の邪魔をする雑音でしかなかった。彼の目に映るのは、輝かしい未来の栄華だけ。諫言する者への苛立ちと、自らの欲望しか見えていない、歪んだ光。
「黙れ、陳宮! 勝頼! 貴様らは、いつもわしのやることに口を挟む! わしの覇業の邪魔をする気か! わしは天下無双の呂布ぞ! 誰の助けもいらぬわ! 卑怯? 信望? 知ったことか! 力こそ全て! わしは決めたのだ! 劉備が、ちょうど袁術討伐とやらで下邳を留守にするらしいではないか! この好機を逃す手はない! 下邳を奇襲し、徐州を完全に我が物とする! 文句があるなら、斬り捨てるまでだ!」
呂布は、顔を真っ赤にして勝頼と陳宮を一喝すると、もはや誰の意見も聞かぬとばかりに、兵士たちに出陣の準備を命じた。その声には、諫言を聞き入れない傲慢さ、異論を封じる権力欲、そして彼らに疑念を抱いている露骨な猜疑心が混じっていた。
評定の間を出た陳宮と勝頼の表情は、共に鉛のように暗かった。重い扉が閉まる音と共に、城内に響き渡る、出陣準備の慌ただしい音が遠ざかる。彼らの足取りもまた、鉛のように重い。
「…陳宮殿。なぜだ…なぜ、呂布将軍は…これほどの非道を行おうとするのだ…」
勝頼は、まるで全身の力を絞り出すかのように、掠れた声で言った。彼の心は、故郷で学んだ「武士の道」、「義」という理念と、目の前の非情な現実との間で、激しく引き裂かれていた。かつて武田家が滅亡した理由の一つに、内部の信義の崩壊があった。主君の非道、家臣の裏切り。今、目の前で同じことが繰り返されようとしている。しかも、自分がそれに加担しようとしている。その事実に、勝頼の心は血を流した。故郷の悲劇を止められなかったように、目の前の非道も止められないのか。己の無力さが、再び彼を苛む。
陳宮は、深く、重いため息をつき、力なく首を振った。彼の顔には、主君の愚行を止められない無力感と、これから起きるであろう悲劇への予感、そして自らもその流れに抗えないことへの深い苦渋が刻まれていた。彼は、これまで多くの主君に仕えた。董卓のような暴君もいれば、袁術のような小物もいた。呂布は、武勇においては誰にも劣らぬが、やはり器量に欠ける。他の英雄たちも、結局は力を選び、理想を捨てていった。だが、他に頼るべき者も、乱世に光をもたらす道筋も、今は見えない。呂布に見切りをつけるべき時は、既に過ぎたのかもしれない。
「…それが、乱世というものやもしれませぬな…勝頼殿。生き残り。覇を唱えるためには。時に。信義も。人の道も。踏み越えねば。ならぬ。それが。この中原では。生き残る術。某とて。本意では。ござらぬが。今は。この流れに。逆らうことは。できぬ。」
陳宮は、言葉を探しながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。彼の声には、深い諦念と、そして勝頼という異邦の将に見出したかすかな希望への思いが混じり合っていた。勝頼という、あの下邳で民を慈しむ心を見せた異邦の将。彼こそ、この乱世に光をもたらすかもしれない存在。その希望を、守り育てるためには、今は呂布に従うしかない。それが、陳宮がこの場に留まる唯一の理由だった。彼の目に、その決意と、深い孤独の色が宿った。
勝頼もまた、唇を噛みしめた。故郷での敗北。異郷での屈辱。そして、今、目の前で行われようとしている、恩を仇で返す非道。己の無力さを、これほどまでに痛感したことはない。故郷の悲劇を止められなかったように、目の前の非道も止められないのか。己の「義」を貫くことは、この乱世では、死を意味するのか。陳宮殿という理解者との絆をどうするのか。彼は、己の信じる「義」と、この中原の苛烈な現実との間で、激しく、激しく揺れ動いていた。陳宮殿の苦渋の顔が、彼の心を締め付けた。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
下邳奇襲のため、呂布軍が出陣する前夜。小沛城内の陣営は、物資の運搬や兵士たちのざわめきで慌ただしかったが、その中心には、これから行われる裏切りに対する、どこか不穏で落ち着かない空気が漂っていた。兵士たちのざわめきの中にも、これから起きる非道への、無意識の戸惑いや嫌悪が混じっているかのようだった。勝頼は、自室で一人、静かに愛用の日本の太刀を磨いていた。手入れされた刀身には、揺れる油灯の光と、疲れと深い葛藤に満ちた自分の顔が映っている。
(わしは。何のために。あの時。生きることを願ったのだ。このような。非道に加担するために。故郷の民が。故郷の武士たちが。この姿を見たら。何と言うであろうか。)
脳裏に、天目山で死を覚悟した瞬間と、「生きたい」と強く願った己の心がよぎる。あの時、死を選ばず、生きることを願ったのは、こんな未来のためだったのか? 呂布に仕え、その裏切りに加担する。それは、勝頼が最も忌み嫌う、武士としてあるまじき行為であった。しかし、この異郷で生き延びるためには。陳宮殿と共に。この乱世で、義を貫く道は、あるのだろうか。それとも、義を捨てて、生き延びるのか。
彼は、磨き上げた刀を鞘に納め、ぎゅっと目を閉じた。冷たい金属の感触が、彼の頬を伝う汗を感じさせる。この戦いが、これから起きる全ての悲劇の始まりとなるであろうという、不吉な予感が、彼の胸を重く締め付けていた。それは、未来を知る予感ではなく、人が人の道を外れた時に必ず訪れる、破滅への道を見ているかのような、確かな予感であった。嵐の前の、不気味なほどの静けさが、勝頼の心を凍てつかせた。夜闇の向こうで、無数の兵士たちが、これから始まる裏切りに気づかぬまま、あるいは気づかぬふりをして、進軍の時を待っている気配がした。