第三話『陳宮の慧眼、勝頼の苦悩』
先の黄巾賊残党討伐における武田勝頼軍の勝利は、殺伐とした小沛の城内に、一時的な安堵と、異邦の将へのかすかな好奇心をもたらした。数で劣る状況を覆した勝頼の戦術と武勇は、兵士たちの間で静かに囁かれ始めていた。しかし、当の勝者である勝頼の心には、戦場での高揚感は跡形もなく、深い疲労と、それ以上の重苦しさが澱のように溜まっていた。異郷での初陣を血と犠牲の上に勝利で飾ったという事実と、主君である呂布の、彼に対する侮りと猜疑心に満ちた冷ややかな視線が、彼の心を重く締め付けていた。
勝利報告のため、再び呂布の前に出た勝頼と陳宮。豪奢な、しかしどこか落ち着きのない玉座に座る呂布は、機嫌が良いとも悪いともつかぬ、気まぐれな表情を浮かべていた。勝利によって得られた報告と、勝頼という異邦の将へのわずかな興味。
「ふん。賊徒相手とはいえ、五百で千を蹴散らしたか。まあ、見事であったと言えよう」
呂布は、鼻先で笑うように、一応の労いの言葉をかけた。しかし、陳宮が、勝頼の用いた武田式の少人数連携戦術や、戦後の負傷者への配慮、死者への手厚い弔いについて詳しく述べると、途端に表情を険しくした。血走った眼に、不快の色が浮かぶ。
「戦は勝てば良いのだ! 過程などどうでもよいわ! 細かい作戦など、考えるだけ無駄! 力こそ全てよ! それに、兵に甘い顔を見せれば、つけあがるだけぞ。奴らは駒だ! 必要とあらば使い潰すのが将の務めであろうが!」
呂布にとって、兵とは道具であり、民とは収奪の対象に過ぎない。勝頼が兵士たちの間で「兵を慈しむ将」として評判を得始めていること、そして彼が自分の統治とは異なるやり方で民心を掴もうとしているのではないかという、彼の根深い猜疑心が刺激されたのだ。それは、かつて劉備が民心を得た時のような、そしてそれ以上の、不気味な警戒心となっていた。
さらに、戦場で捕らえた黄巾賊たちの処遇について、呂布はこともなげに、まるでゴミを捨てるように命じた。
「あの者どもか? 飢えと狂気に染まった屑どもよ。見せしめに、城門の前で首を刎ねて晒せ。天下に逆らう愚かさを教えてやるのだ」
その、人の命を塵芥のように扱う冷酷な言葉に、勝頼の全身が凍りついた。彼の脳裏には、かつて武田領で飢饉に苦しみ、草の根を齧り、餓死寸前で自分に助けを求めた、痩せこけた民たちの顔が鮮明に浮かんだ。故郷で、飢餓に苦しむ我が子が売り飛ばされていくのを、なすすべもなく見送る親の悲痛な叫びを聞いたこともあった。彼らは賊ではない。だが、目の前の捕虜たちの眼差しは、故郷の民の、絶望と飢えに歪んだ眼差しと、あまりにも、あまりにも似ていた。彼らもまた、生きるために、食べるために、やむなく刃を取り、過ちを犯したのではないのか? 寄せ集めの、錆びついた武器や、粗末な襤褸を身に着けた彼らの姿は、追い詰められた者の悲哀を物語っていた。あの時、故郷で救えなかった苦しみが、今、この異郷で、異邦の人々の姿となって、彼の目の前に再び現れたのだ。その光景が、鋭い刃となって勝頼の心を突き刺し、彼を突き動かした。
「お…お待ちくだされ…! 呂布…将軍…!」
勝頼は、衝動的に呂布の言葉を遮るように声を上げた。まだ、舌は中原の言葉に馴染まない。言葉は辿々(たどたど)しく、発音は異国の響きを帯びている。しかし、その必死さ、そして悲痛さは、謁見の間にいた全ての者に伝わった。
「彼ら…賊…なれど…理由…あるやも…飢え…苦しみ…役人…不正…故郷…失い…やむなく…」
知っている限りの単語を繋ぎ合わせ、身振り手振りを交え、目に涙を浮かべんばかりの剣幕で訴える。彼の言葉には、乱世に生きる民の深い苦しみへの共感と、武将として彼らを救えなかった己の無力さへの痛みが、慟哭のように込められていた。
「ならぬ! 勝頼! 黙れ! 賊は賊よ! 一度でも牙を剥いた者は、許せばまた同じことを繰り返すだけだ! 情けをかける必要などない! わしの命令に背くつもりか!」
呂布は、苛立ちと怒りを隠さず、勝頼を一喝した。彼の目には、勝頼の必死な訴えが、愚かで感傷的なものとしか映っていない。民の苦しみなど、彼の知ったことではない。
その時、傍らに控えていた陳宮が進み出た。彼は、勝頼の言葉が持つ真意と、その根底にある、民を思う高潔な思想を瞬時に理解していた。そして、この機を逃してはならぬと判断した。この異邦の将の「仁」は、単なる甘さではなく、乱世において最も欠けている、しかし最も必要なものかもしれない…そう直感していた。
「呂布様、お待ちくだされ。勝頼殿の申されることにも、確かに一理ございます」
陳宮は、まず呂布に恭しく頭を下げ、穏やかな、しかし確固たる声で語り始めた。
「彼らを城門で晒し首にするのは容易いこと。しかし、それは単なる見せしめに過ぎません。彼らの事情を深く聞き、なぜ賊となったのか、その根源を知れば、今後の徐州統治における対策にも繋がりましょう。また、飢えや不正に苦しみ、やむなく賊に身を落とした者たちの中から、真に改心する者もあるかもしれませぬ。そのような者があれば、城下の復興や土木作業など、貴重な労働力として活用する道もございましょう。これほどの数の労働力は、捨てるにはあまりに惜しい」
陳宮は、呂布の実利的な側面、そして人材という視点を突いた。そして、さらに言葉を続けた。
「何より、ここで彼らに慈悲を示すことは、呂布様というお方の度量の大きさ、そして民を思いやる仁徳を、疲弊した徐州の民に示す絶好の機会となり得まする。民心は不安定でございますれば、ここで安堵を与えれば、自ずと呂布様の威光は高まりましょう。これは、兵を斬り捨てる以上の、大きな得となりましょうぞ」
陳宮は、勝頼の言葉を補足しつつ、呂布の自尊心と、領民からの支持を得るという長期的な実利を巧みに織り交ぜ、説得を試みた。呂布は、しばらく不機嫌そうに腕を組んでいたが、陳宮の言葉には一理あると感じ、また勝頼という異邦の将の処遇を陳宮に任せる方が面倒がない、という判断も働き、やがて重い口を開いた。彼の目には、猜疑心(勝頼と陳宮の結託への懸念)と、陳宮へのわずかな信頼、そして面倒な判断から逃れたいという感情が混じり合っていた。
「…ふん。陳宮がそこまで言うなら、任せるわ。好きにせい。ただし…」
呂布は、勝頼と陳宮をねめつけるように見た。
「…ただし、もし奴らが再び問題を起こせば、その時は、陳宮、貴様らの責任ぞ! 勝頼とやらも同罪と見なす!」
呂布は、不機嫌そうに突き放すように言い放った。しかし、それは事実上の許可であった。勝頼は、安堵のため息と共に、深く頭を下げた。隣で、陳宮も静かに礼をとる。危機は、辛うじて回避された。
勝頼は、陳宮と共に、黄巾賊の捕虜たちが収容されている、城の地下牢へ向かった。石造りの地下牢は、湿気が多く、壁を伝う冷たい湿気が肌にまとわりつく。カビと汚物の混じったような澱んだ臭いが鼻を衝く。薄暗い空間には、数十人の捕虜が、鎖に繋がれ、疲れ果てた顔で蹲っていた。彼らの眼差しは、獣のように警戒心に満ちているか、あるいは全てを諦めたかのような虚ろな光を宿している。痩せ細り、骨張った顔には、飢えと絶望の色が濃く刻まれている。希望など、欠片も感じられない。中には、既に息絶え絶えの者や、狂ったように虚空を見つめている者もいた。
勝頼は、その中から、最も年長で、疲れ果てているように見える男の前に歩み寄った。陳宮が、勝頼の隣に腰を下ろす。勝頼は、まず自分が敵ではないことを示すように、ゆっくりと丁寧に、言葉と身振りで話しかけた。陳宮は、その言葉と表情、身振りから勝頼の意図を読み取り、捕虜に穏やかな口調で語りかけた。
「そなたたちに、勝頼殿が尋ねたいことがある。なぜ、賊となったのか、その訳を、偽りなく聞かせてほしい、と仰せだ」
捕虜たちは、最初、警戒心から口を開こうとしなかった。しかし、勝頼の、どこまでも真摯で、哀しみを湛えた眼差しと、陳宮の丁寧で、尋問とは明らかに違う態度に、次第に心を閉ざしていた硬い殻が剥がれ始めた。彼らの口から、訥々とした言葉、時には身振り手振りを交えて語られたのは、血を絞るような、生々しい苦しみであった。終わりの見えない戦乱、領主や役人の容赦ない重税、飢饉で草の根を齧り、我が子を売り、それでも生きられず、故郷を追われた絶望…そして、生きるために、食べるために、やむなく刃を取ったという、悲痛な叫び。勝頼が故郷で嫌というほど見てきた、そして守りきれなかった民の苦しみ、その生々しい叫びが、異国の言葉となって、彼の心に、再び突き刺さる。
勝頼は、陳宮の通訳を通して彼らの話に耳を傾けながら、故郷の民の顔と、目の前の捕虜たちの顔を重ね合わせた。同じ苦しみが、遠い異郷でも繰り返されている。武田家当主として、民を守るという己の務めを果たせなかった悔恨が、再び、鋭い爪となって胸を締め付ける。「あの時と同じだ…故郷で、この苦しみを救えなかったのだ…」勝頼は、心の奥で呟いた。
彼は、傍らの兵に合図し、持たせていた自らのわずかな携帯食料を彼らに分け与えさせ、傷の手当てを施すよう指示した。自らも、捕虜たちの、泥と血にまみれた手を握り、その痛みを分かち合うかのように、深く頷いた。その行動は、言葉が通じなくとも、勝頼の民への深い思いやりと、共に苦しむ者への共感心を、確かに彼らに伝えた。
陳宮は、捕虜たちの動揺と、勝頼への畏敬の念が芽生え始めたのを見て取り、再び、しかし声に力を込めて語りかけた。
「勝頼殿は、こう仰せだ。『武器を捨て、これまでの罪を悔い、これからは民として真面目に生きることを誓うならば、呂布様には助命を願い出よう。そして、もし我が下で働く気があるならば、ささやかながら、今日より仕事と食い扶持を与えよう』と。どうするか? 生きる道を、自分で選ぶが良い」
勝頼の言葉と、それまでの彼の行動に、捕虜たちの目に、驚きと、そして長い絶望の中で忘れかけていた、かすかな、しかし確かな希望の光が宿った。彼らは顔を見合わせ、囁き合った後、多くは涙を流しながら、鎖に繋がれたまま泥水の中に地に額をつけ、深く深く頭を下げた。そして、震える声で更生を誓った。一部は、言葉は通じなくとも、必死に身振りで、勝頼に仕えたいという意思を示した。彼らの誓いがどこまで本物か、勝頼にも陳宮にも分からない。しかし、権力者から向けられることなどなかった「仁」と「慈悲」の光が、確かに彼らの、凍りついていた心を溶かしたのである。
その夜。勝頼は、城壁の上で一人、夜空を見上げていた。故郷、甲斐の空とは違う。だが、そこに浮かぶ月は、あの頃と同じように、静かに輝いていた。夜風が鎧の隙間を吹き抜け、肌を刺すように冷たい。彼は、昼間の出来事を思い返し、深く、長くため息をついた。捕虜たちの眼差し。彼らが語った、血を吐くような苦しみ。それらを前にして、己が故郷で味わった無力感が、再び胸を締め付ける。この、人の命が塵芥のように扱われる乱世で、自分の信じる「仁」や「義」が、果たして通用するのか。故郷さえ守れなかった自分が、この異郷で何ができるというのか。望郷の念と、拭い去れない己の無力感が、鉛のように彼の心を締め付ける。月明かりが、城壁の石肌を青白く照らし出し、その冷たい質感が、彼の孤独を際立たせていた。
そこへ、静かな足音と共に、陳宮が現れた。月の光に、その痩せた顔が白く浮かび上がる。陳宮は、勝頼の傍らに静かに立った。
「勝頼殿、まだ起きておられたか」
陳宮の声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。その目は、勝頼の苦悩を見透かしている。
「…陳宮殿か。月が、あまりに綺麗でな…故郷を…思い出す…」
勝頼は、少しだけ言葉が滑らかになったように感じながら答えた。
「まことに。されど、この月も、この乱世に生きる様々な人の営みを、ただ静かに見下ろしておるのでしょうな。喜びも、悲しみも…そして…貴殿のような…深い苦悩も…」
陳宮の言葉に、勝頼はハッとした。この男は、言葉が通じなくとも、自分の心の内を、奥底の苦悩まで見透かしているかのようだ。
「…陳宮殿。わしのやり方…あの…捕虜たちに示した…『甘さ』…この中原では…通用せぬか…? 甘いか…?」
言葉を探しながら、勝頼は改めて問いかけた。それは、異郷に来て以来、そして故郷を失って以来、ずっと彼の心に突き刺さっていた、武人としての、君主としての、そして人間としての根本的な問いだった。
陳宮は、ふっと静かに笑った。そして、勝頼の隣に立ち、同じように月を見上げた。彼は、昼間、勝頼が筆談を交え、身振り手振りで必死に伝えようとしていた言葉を、そして彼の行動の根底にある民への思いを思い出していた。それは、陳宮自身が、呂布という主君に見出せなかった、天下泰平への希望の光であった。陳宮は、これまで多くの英雄たちの傍らで、その治世を見てきた。最初は民を安んじると言いながら、結局は力や私欲に溺れ、理想を捨てていった者たちを。
「ふふ…確かに…呂布様のような…お方から見れば…甘い…のでしょうな…」
陳宮の声に、確かな響きが宿る。
「しかし…某は…」
陳宮は、ゆっくりと、言葉を探しながら語り始めた。それは、彼自身の半生、そして乱世を見る目を語るようでもあった。
「…某は…これまで…多くの…主君に…仕えて…参りました…曹操殿や…呂布様も…含め…皆…才覚は…ございました…しかし…この乱世が…いつ…どのように泰平を迎えるのか…その道筋が…見えませなんだ…力だけでは…真の泰平は築けぬ…民の心が離れれば…いかなる覇者も…砂上の楼閣…そう…考えておりました…そして…多くの英雄が…結局…力を選び…理想を…捨てていくのを…見て…失望も…いたしました…」
陳宮は、己の苦悩を語るかのように続けた。
「そこに…貴殿が現れた…異郷の…しかし高潔な武人…民の苦しみに…涙し…彼らを救おうと…願う将…そして…貴殿が故郷で学ばれたという…『人は城…人は石垣…人は堀…情けは味方…仇は敵なり』…」
陳宮は、昼間、勝頼が筆談で書き記そうとした言葉の一部を、はっきりと口にした。勝頼は驚いて陳宮を見た。なぜ、この異国の軍師が、故郷の父の言葉を…?
「…その言葉…某は…筆談で受け取った時…稲妻に打たれたような…衝撃を受けましたぞ…これこそ…これこそ…某が…探し求めていた…乱世を終わらせる…真の道…!」
勝頼は、驚きと、そして深い感動をもって陳宮を見た。自分の拙い言葉と筆談、そして行動から、故郷の、父の教えの、最も大切な本質を、この異郷の、稀代の軍師が正確に理解してくれていた。それは、勝頼にとって、絶望的な異郷で得た、望外の慰めであり、そして、己の信じる道に、間違いはないのだと教えてくれる、新たな勇気を与えてくれるものであった。言葉の壁はまだ厚いが、心は確かに、深く通じ合っている。
(この方ならば…陳宮殿ならば…あるいは…呂布様とは違う道を…)
陳宮は、そう確信し始めていた。勝頼という異邦の武将は、単なる客将ではない。彼こそ、自らの才智を真に活かすに足る主君であり、そしてこの乱世に光をもたらす存在かもしれない。
月明かりの下、二つの孤独な魂が、苛烈な乱世の闇の中で、互いの存在にかすかな光を見出し、寄り添い始めた。それは、風林火山の旗が、中原の地で真に「仁」の風を呼び起こす、遠い、遠い旅路の始まりを告げる、静かなる咆哮であった。