第二十七話『四者の駆け引き、外交戦略』
赤壁の戦いから数年が経過し、中華の地は、曹操、劉備、孫権、そして荊州南部を本拠地とする武田勝頼という四つの巨大な勢力が、それぞれ自らの地盤を固め、互いに兵力を蓄え、虎視眈々と睨み合う、新たな時代となっていた。一見すると大きな戦乱は鳴りを潜め、表面上は穏やかな時期を迎えていたかのような錯覚を覚える者もいた。しかし、その水面下では、各勢力が、互いの腹を探り合い、相手を牽制しつつ、自らの勢力拡大の機会を虎視眈々と窺う、息詰まるような外交戦と、諜報戦が、昼夜を問わず繰り広げられていたのである。
荊州南部、長沙・零陵・桂陽の三郡、そしてその周辺地域に、揺るぎない確固たる地盤を築いた武田勝頼・陳宮政権は、丞相となった陳宮と、軍師・法正孝直を中心に、この複雑極まる乱世において、巧みな外交戦略を展開していた。彼らの基本戦略は、古来からの定石である「遠交近攻」――遠い勢力とは結び、近い勢力とは争う――という原則を踏まえつつも、それに縛られることなく、状況に応じて柔軟に相手を替え、時に同盟し、時に敵対し、常に自らが最も有利な立場に立てるよう、細心の注意と周到な情報分析に基づいて、大胆かつ緻密な駆け引きを行っていた。
まず、北方の曹操に対しては、依然として天下を覆い尽くさんとする最大の脅威と認識し、一瞬たりとも警戒を怠らなかった。国境となる荊州北部(劉備が駐屯する襄陽・樊城周辺との境界線)の守りは固められ、法正が指揮する、異民族の協力を得て強化された諜報網は、常に許都や鄴といった曹操の重要拠点の動向を、文字通り血眼になって探っていた。しかし、同時に、勝頼たちは、曹操との間に、赤壁での華容道における「貸し」や、共通の利害――共に劉備や孫権の勢力拡大を快く思っていない――という、ある種の奇妙な「暗黙の了解」のようなものも巧みに利用していた。曹操もまた、南方の劉備や孫権を牽制するため、勝頼軍の存在を利用しようとしていた。時には、密かに非公式な使者を通じて情報を交換し、互いの劉備・孫権に対する動きについて、牽制し合うような、複雑で、そして危険な駆け引きも行われていたのである。
次に、西の益州を手中に収め、荊州中部にも勢力を持つ劉備(蜀漢)との関係は、最も微妙で、複雑であった。劉備は、赤壁後に諸葛亮の策に従い、困難な蜀入りの後、最終的には劉璋に取って代わり、広大な益州の地を手に入れ、「漢中王」を称するに至っていた。これにより、劉備は曹操に次ぐ大勢力となったが、同時に、勝頼が支配する荊州南部との間に、常に境界線を巡る、潜在的な領有権問題が横たわっていた。勝頼は、個人的には劉備の「仁徳」に深く敬意を払い、また下邳で夫人を救った恩義もあったため、劉備との決定的な対立は避け、表面的な友好関係を維持しようと努めていた。しかし、陳宮や法正は、劉備という、人望と知略(諸葛亮)を兼ね備えた主従の組み合わせを、将来的に最も警戒すべき、そして危険な相手と見ており、劉備軍の益州での動きや、荊州中部での軍事動向に関する情報収集、そして国境付近での巧みな牽制行動を怠らなかった。特に法正は、元劉璋配下であったことから、劉備軍の益州内部への調略なども、水面下で行っていた。
そして、東の孫権(呉)とは、長江を挟んで直接的に睨み合う関係にあり、軍事的な緊張が最も高かった。孫権の強力な水軍は、長江を主な活動範囲とする勝頼軍にとって依然として大きな、そして喫緊の脅威であり、勝頼たちも水軍力の増強を急いでいた。一方で、両者は曹操という共通の巨大な敵を抱えているため、完全に敵対するわけにもいかない。陳宮と法正は、経済的な繋がりを保つため、交易などを通じて互恵関係を維持しようとし、時には政略的な婚姻政策によって、一時的な友好関係を結ぶこともあった。しかし、荊州の領有権を巡る根本的な利害対立、特に長江中流域の南岸という戦略的な要衝をどちらが完全に押さえるかという問題は根深く、いつ関係が破綻し、長江で大規模な水上戦が勃発してもおかしくない、張り詰めた緊張状態が続いていた。
このように、曹操、劉備、孫権、そして勝頼軍という四つの勢力は、互いに牽制し合い、同盟と敵対を、複雑な糸のように絡み合わせながら、かろうじて、しかし危うい均衡を保っていた。勝頼自身も、単なる軍事的な指揮官としてではなく、君主として、時には自ら相手国の使者と会い、外交交渉の場に臨んだ。彼は、異邦人としてのハンディキャップを、陳宮や法正の周到な根回しと、彼自身が苦難の中で培った誠実さと、学んだ中原の礼儀作法、そして君主としての確かな威厳で補い、二人の軍師が描いた戦略に基づき、自国の利益を最大限に守り、拡大するために奮闘していた。彼の「仁」の理念は、こうした外交の場でも、相手に強い印象を与える武器となっていた。
しかし、この水面下での激しい駆け引きと、かろうじて保たれていた均衡は、建安二十四年(219年)、ついに破られることとなる。そのきっかけは、西の益州を拠点とする劉備配下の猛将であり、その武威を天下に轟かせていた関羽雲長による、曹操領への大胆な北伐であった。
関羽は、漢中王となった劉備の威勢に呼応するかのように、劉備から任された荊州の兵を率いて北上。曹操軍が厳重に守る樊城を包囲し、さらに曹操が派遣した于禁率いる七軍を、水攻めという奇策で壊滅させ、于禁を捕虜にし、曹操軍屈指の勇将・龐徳を斬るという、まさに破竹の快進撃を見せた。その驚異的な武威は中原を震撼させ、曹操でさえ、もし関羽が進軍を続ければ、本拠地である許都からの遷都をも考えるほどの、未曾有の窮地に陥っていたという。
この関羽の孤立した、しかし圧倒的な武勇による北伐は、膠着していた天下の情勢を一変させた。北の曹操は、南の戦線で致命的な隙を見せたのである。そして、この状況を、長年、虎視眈々と荊州の奪還を狙っていた江東の孫権は、まさに千載一遇の好機と捉えた。彼は、劉備と同盟関係にありながらも、関羽が自国の領土である荊州を勝手に利用したことへの不満、そして個人的な遺恨(関羽が孫権の子との婚姻を傲慢に拒否したことなど)を晴らすため、密かに、そして迅速に、劉備軍への裏切りを伴う行動を開始する。呂蒙らを派遣し、関羽の留守を狙って荊州を攻撃する計画を立てたのである。
さらに、この天下を揺るがす動きを、極めて冷徹な、そして機会を逃さぬ眼差しで見つめる者たちがいた。荊州南部の武田勝頼、陳宮、法正である。彼らの情報網は、関羽の快進撃、曹操の動揺、そして孫権の動きを正確に捉えていた。彼らにとっても、この関羽の北伐によって生まれた荊州の力の空白、そして各勢力間の緊張の高まりは、自軍が天下取りへ向けて、この辺境の地から大きく動き出すための、またとない、まさに天が与えた機会となり得るのであった。
曹操、劉備、孫権、勝頼軍。四つの勢力の思惑が、再び激しくぶつかり合い、天下の覇権を巡る、新たな戦乱の嵐が、荊州の地を舞台に吹き荒れようとしていたのである。嵐の前、不気味なまでの静けさの中で、それぞれの陣営が、運命を決める最初の一歩を踏み出そうとしていた。




