第二話『東瀛の武、初陣』
泥と埃にまみれ、意識を失っていた武田勝頼は、三国乱世の英傑、呂布と軍師・陳宮に出会い、その一行に連れられて小沛の城へと向かった。彼の異様な姿は、街道の人々の好奇心と畏怖を集め、呂布軍の兵士たちも、異邦から来たというこの謎めいた武将を、奇妙な眼差しで見つめていた。
小沛。呂布の居城に迎え入れられた勝頼は、客将という名目とは裏腹に、丁重とは言えない、軟禁に近い扱いを受けた。与えられたのは、質素な一室と、常に気配を感じさせる監視の眼差し。呂布は、日ノ本の国から来たというこの異邦の武将を、物珍しい見世物か、あるいはその場の気まぐれで弄ぶ玩具程度にしか見ていないのは明白だった。城内の空気は殺伐としており、兵士たちの規律も緩んでいるように勝頼には感じられた。
謁見の間。豪奢な、しかしどこか落ち着きのない玉座に、呂布は深々と腰を下ろしていた。その猛禽類のような鋭い視線で、勝頼を頭から爪先まで値踏みしている。勝頼は、傍らの陳宮に促され、中原の慣れぬ作法ながらも、武田家当主としての、そして武人としての矜持を保って、精一杯の礼をとった。その動作は、疲労困憊の身でありながらも、揺るぎない芯の強さを滲ませていた。
呂布は、勝頼の腰に差された、父祖伝来の太刀――彼自身の魂とも言える業物――に気づくと、血走った眼に獰猛な興味を宿した。そして、無遠慮に指を差し、傍らの近習に何か早口で命じた。その声には、有無を言わせぬ傲慢さが含まれている。
近習の一人が、主君の意を汲み、恐る恐る勝頼に近づいてくる。そして、勝頼の太刀を指し、奪い取るかのように腕を伸ばしてきた。身振りで「その刀を差し出せ」と伝えようとしている。
(…刀を…? このわしの太刀を…寄越せだと…?)
勝頼は、相手の意図を瞬時に理解し、眉間に深い皺を寄せた。言葉は分からずとも、呂布の尊大な態度と、家臣の傲慢な動きから、これが武士として、そして何よりも故郷の誇りである太刀に対する、言語道断の無礼であることは明らかだった。彼は、無言のまま、腰の太刀の柄に、全身の力を込めて手をかけた。柄を握る指の関節が白くなる。その全身から発せられる、研ぎ澄まされた刃のような、静かな、しかし断固たる拒絶の気配は、言葉がなくとも謁見の間を満たす空気を一変させた。周囲の兵士や文官たちが、息を呑み、固唾を飲んで成り行きを見守る。一触即発の、張り詰めた空気が流れた。
「ほう…?」
呂布は、勝頼の予想外の、しかし断固たる抵抗に、隻眼を見開き、わずかに面白そうな、あるいは好奇心とも侮蔑ともつかぬ複雑な表情を浮かべた。飼い慣らそうとした獲物が、牙を剥いたかのような。
「まあまあ…呂布様…呂布様…」
張り詰めた空気が破裂寸前になったその時、傍らに控えていた陳宮が、穏やかな、しかし確かな響きを持つ声で割って入った。彼は、まず呂布に歩み寄り、何事か耳元で、なだめるように、あるいは何かを納得させるように囁く。その言葉に、呂布の険しい表情が少し和らいだ。それから陳宮は勝頼に向き直る。懐から木簡と筆を取り出し、何か書きつける仕草を見せながら、ゆっくりと、勝頼にも聞き取れる、言葉を探しながらの辿々(たどたど)しい口調で語りかけた。
「…勝頼殿…呂布様は…貴殿のその…見事な刀に…大変…興味を…お持ちのご様子…されど…それが…貴殿にとって…大切なものであるならば…無理強いは…なされまい…」
陳宮は、言葉を選び、間を取り、身振り手振りを交えながら、巧みに呂布の要求を和らげ、勝頼の誇りを傷つけずに場を収めようとした。
「まずは…その…貴殿の…武勇を…我らに…示しては…くださらぬか…? それこそが…呂布様への…何よりの…御挨拶となりましょう…」
陳宮の言葉の裏にある配慮に、勝頼は気づいた。言葉は完全には通じなくとも、その穏やかな声色と、懸命に伝えようとする態度、そして何よりも彼の目の中に、この状況を円滑に進めようとする意図を感じ取った。異郷にあって、この男だけが、自分を人間として扱ってくれているかもしれぬ。内心で深く感謝しつつも、警戒はまだ解かない。彼は、陳宮の深く澄んだ双眸を見つめ、静かに、しかし力強く頷いた。言葉ではなく、その眼差しと態度で、「ならば、見せてやろう。わしの武田の武を」と応えたのだ。
「ふん…よかろう。陳宮がそう言うなら…ならばその東夷の腕前とやらを、とくと見せてもらおうではないか」
呂布は、まだ完全に納得していない様子ではあったが、陳宮のとりなしと、勝頼から発せられる(言葉は分からずとも感じ取れる)並々ならぬ気迫、そして異邦の武将への物珍しさからか、この場は矛を収めた。勝頼は、その胸に、武田の武を侮る者への静かな怒りと、己の価値を示す好機を得たことへの覚悟を固めた。
好機は、勝頼の予想よりも早く訪れた。数日後、小沛城の近郊で、かつての黄巾の乱の生き残りが、村々を襲い、略奪を繰り返しているとの報せが舞い込んだのである。賊の数は千を超え、飢えと絶望から来る勢いは侮れないという。彼らは「蒼天已死 黄天當立(蒼天すでに死す、黄天立つべし)」という古い戦標を掲げ、各地を荒らしまわっていた。
呂布は、高笑いと共にこれを勝頼の腕試しの絶好の機会と定めた。
「よし! 勝頼とやらに、兵五百を与える。陳宮、貴様が軍監として付き従い、あの東夷の将の戦ぶりを、とくと見てまいれ。もし、賊ごときに遅れを取るようならば…分かっておろうな? 無用となれば、使い潰しても構わんのだぞ。生かしておく価値はない」
呂布の言葉には、氷のような冷たさと、人の命を塵芥のように扱う傲慢さが露骨に含まれていた。五百という兵力は、千を超える飢えた賊徒を相手にするには、明らかに不足している。これは、「試練」という名の、勝頼への値踏みであり、成功しなければ即座に切り捨てるという、残酷な宣告でもあった。
「御意」
陳宮は、静かに頭を下げた。その瞳の奥には、主君の冷酷さに対する諦念と、勝頼という未知の将への密かな期待が、複雑に交錯していた。勝頼もまた、呂布の真意を肌で感じ取り、奥歯を噛み締めた。だが、これはまさに彼が求めていたものだ。この戦で、己の存在理由、武田の武勇を示さねば、この苛烈な異世界で生き残る道はない。
「お任せくだされ。武田の武、確かにご覧に入れまする」
勝頼は、そう静かに言い残し、陳宮と共に、与えられた兵を引き連れて出陣したのであった。陳宮は、気を利かせ、比較的練度が高く、指示に馴染みやすい、旧知の部下が含まれる兵士を選んで同行させてくれていた。兵士たちの間には、異邦の将が指揮を執ることへの戸惑いと、侮りの気持ちが広がっているのが、勝頼には痛いほど分かった。
戦場にて、両軍が対峙する。黄巾賊は、飢えと狂気から来る勢いに任せ、「蒼天已死 黄天當立」の旗を掲げ、野獣のような鬨の声を上げている。烏合の衆ではあるが、その狂気に宿る勢いは恐ろしい。対する勝頼に与えられた呂布軍の兵士たちは、個々の武勇には優れる者が多いものの、見慣れぬ異邦の将の指揮に戸惑い、その風体や言葉が通じないことに、どこか侮りの色も隠せないでいた。ざわめきと不信感が、兵士たちの間に広がっているのが、勝頼には痛いほど分かった。
(これでは…到底戦えぬ…!)
勝頼は、即座に判断した。彼は、まず兵士たちを集め、傍らに立つ陳宮を見た。陳宮は勝頼の意図を察し、頷いた。勝頼は地面に簡単な陣形図を素早く描き、それを指しながら、身振り手振りと、腹の底から絞り出すような気迫のこもった声で、兵士たちに語りかけ始めた。
「皆…聞け…! 我らに…従え…!」
勝頼の言葉は通じない。だが、その真剣な眼差しと、身振り手振りに込められた意図を、陳宮は鋭く読み取る。長年培った知略と、勝頼との短い間の交流で培われた信頼関係。
「皆、勝頼殿の指示に従え! これより陣を組み直す! 勝頼殿が言う『組』とは、我々で言う『伍』に近いが、ただの五人組ではない! 互いを支え合い、盾となり、剣となれ! 一つの塊として動くのだ! 武田殿が描かれた図のように! 騎馬隊は密集し、勝頼殿に続け! 歩兵は盾を固め、壁となれ! 騎馬が突破口を開けば、そこを拡大し、敵を分断せよ! 弓隊は側面から敵を射ち崩せ!」
陳宮が、勝頼の指示と意図、そして武田流戦術の肝である「連携」の重要性を、的確な言葉と力強い声で兵士たちに伝える。勝頼自身の、言葉は少なくとも、全身で示す指揮と、武人としての圧倒的な気迫に、兵士たちは戸惑いながらも、次第にその動きに従い始める。陳宮が事前に配しておいた、旧知で飲み込みの早い兵士たちが、率先して手本を示す姿もあった。兵士たちの間に広がっていた不信感は、次第に期待と緊張感に変わっていく。
「かかれぃ! 風林火山!」
勝頼は、腰の日本の太刀を抜き放ち、自ら与えられた平凡な馬に跨った。手に握るのは、肌身離さず持っていた、父祖伝来の武田の旗の一部を急遽仕立て直した小さな「風林火山」の小旗。それを高く掲げ、咆哮と共に敵陣の一点目掛けて突撃を開始した! 数十騎の騎馬隊が、勝頼の後に続き、武田流の密集突撃の形で、一つの巨大な槍となって黄巾賊の薄い陣形に突き刺さる!
「な、なんだ、あの動きは!?」「一塊で突っ込んできたぞ!」
黄巾賊は、個々の武者の突撃とは全く異なる、組織化された密集騎馬突撃の破壊力に度肝を抜かれた。波のように押し寄せる騎馬の塊。先頭を駆ける勝頼が、日本の太刀で次々と敵兵を斬り伏せていく! その太刀筋は、中原の刀や剣とは明らかに異なる。短く、鋭い斬撃。袈裟斬りの威力。そして、鎧の隙間や首筋を的確に狙う突き技の恐ろしさ。研ぎ澄まされた刃は、飢えに狂う賊兵にとって、全く予期せぬ、そして防ぎようのない死をもたらした。賊兵は、その斬撃に為す術もなく、泥濘に倒れていった。
「続けーっ! 勝頼殿に続け!」
勝頼の後に続く騎馬隊も、互いを援護し合いながら、密集したまま敵陣を深く切り裂いていく。歩兵隊がそれに続き、盾を並べて前進、騎馬隊が作った突破口を確保し、陣形を拡大していく。弓隊は、敵の側面から雨のような正確な矢を射かけ、混乱を助長する。
さらに勝頼は、別働隊として伏せていた騎馬隊(これも勝頼が、陳宮の助けを得て即席で編成し、手旗信号で指示を与えていた)に合図を送る。別働隊は、敵の側面から奇襲をかけ、完全に意表を突かれた賊の陣形は、あっという間に崩壊した。
「ひ、退けーっ! 勝げねぇ!」
指揮官を失い、数の利も連携の前には無力と悟った黄巾賊は、蜘蛛の子を散らすように敗走を始めた。勝頼軍は、必要以上の深追いはせず、陳宮の指示のもと、整然と陣を立て直した。
見事な勝利であった。数で劣りながら、勝頼の異国の戦術と武勇、陳宮の的確な翻訳と補佐、そして兵士たちの新たな信頼と結束によって、賊徒を瞬く間に撃退したのである。
戦いが終わり、丘の上に整列した兵士たちの間に、興奮したざわめきと、やがて熱狂的な歓声が上がった。彼らは、自分たちが成し遂げた勝利に酔いしれていた。しかし、勝頼は、勝利に浮かれることなく、すぐに負傷者の手当てと、討死した兵士の亡骸を集めるよう、陳宮を通して命じた。彼は、血と埃に汚れた鎧のまま、自ら負傷した兵士たち一人ひとりに歩み寄り、言葉は通じなくとも、その肩に手を置き、労いの眼差しを送った。時には、泥水の中で苦しむ負傷兵に自らの携帯食料を分け与える。
「皆…よく戦ってくれた…礼を言う…」
彼の、訥々とした、しかし心のこもった言葉は、陳宮によって兵士たちに伝えられた。
「だが…忘れるな…我らの戦いは…民を守るためのもの…亡くなった者たちへの…弔いは…手厚く…行わねば…ならぬ…彼らの…死を…無駄にしては…ならぬ…」
その行動は、呂布軍の兵士たちにとって、全く馴染みのないものであった。彼らが仕える呂布は、兵など消耗品としか見ていない。しかし、この異邦の将は、手柄よりも、兵の命と、死者への弔いを重んじる。戦場では鬼神のように気高く戦い、戦後は慈悲深い。この東瀛の将に対する、それまでの侮りの気持ちは跡形もなく消え去り、代わりに、畏敬の念と、そして確かな信頼感が、彼らの胸に芽生え始めていた。兵士たちの視線が、感銘と忠誠の色を帯びて、勝頼に注がれる。
陳宮は、その一部始終を、静かに、しかし深い感銘と共に見つめていた。勝頼の戦術眼、兵を動かす統率力、個人武勇の高さ、そして何よりも、その高潔な武士道精神、民と兵を慈しむ心…。どれもが、今の主君・呂布には欠けているものばかりであった。
(この男…武田勝頼…あるいは、本当に…天がこの時代に遣わした…稀代の英傑やもしれぬ…呂布様では…成し遂げられぬ…天下泰平を…この男ならば…)
陳宮の胸中に、確かな確信が生まれ始めていた。この出会いが、自らの才智を真に活かす道を示し、そして彼自身の、そして呂布軍の運命を大きく変える予感がした。
戦勝の報は、小沛城の呂布の元へも届けられた。千を超える賊徒を、五百の兵で瞬く間に蹴散らしたという報告に、呂布は予想外の勝利に驚き、勝頼の武勇は認めざるを得なかった。しかし、彼の顔には、手柄を立てられたことへの嫉妬と、異邦の将が兵士たちの信頼を得始めていることへの不満が入り混じり、どこか面白くない、複雑な表情を浮かべるのであった。新たな、しかし小さな火種が、静かに、しかし確かに呂布の心中で燻り始めた瞬間でもあった。