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恐怖のみそ汁

作者: さば缶

隆一がその古びたレシピ本を手に入れたのは、一週間前のことだった。

大学の講義帰り、何の気まぐれかいつもは通り過ぎるだけの商店街の外れにある古書店へ足を運んだ。

その店の埃っぽい棚で見つけた一冊の本は、表紙に「家庭の味」とだけ掠れた字で書かれていた。

ページをめくると、ほとんどの文字は消えかけていたが、一部のレシピだけが異様に鮮明に残っていた。

とりわけ「特別なみそ汁」の項目には、他のページよりも細かく書き込みがされている。


水は月明かりの下で汲むこと

具材に「記憶」を加えること

味噌は手で溶かすこと。素手でなければ効果はない


一見、冗談のようにも思えたが、「これを作れば失われたものが戻る」という言葉がどうしても気にかかり、隆一はその本を買ってしまった。


最初の一杯

一週間後の夜、彼はアパートの薄暗いキッチンで、レシピに書かれている通りにみそ汁を作っていた。

月明かりを頼りに神社の古井戸から汲んできた水を鍋に入れ、具材には自分の大切にしていた一枚の写真を“象徴”として選んだ。

そこには、高校時代の隆一と両親、それに当時はまだ健在だった祖父が一緒に笑って写っている。

思えば、家族全員がそろった写真はこれだけしかない。


鍋の中は火にかけてもどこか凍りついたような透明感を保ち、通常の煮立ち方とはまるで違っていた。

最後に両手で味噌を溶かすと、湯気とともに甘いような、しかしどこか生臭さも混ざった不気味な香りが部屋いっぱいに立ち込める。

背筋に小さな寒気を感じながらも、隆一はなぜか「これを飲めば本当に何かが変わるんじゃないか」という期待を拭いきれず、意を決してみそ汁をすくって口に運んだ。


一口飲んだ瞬間、まるで体の内部に激しい電流が走るような衝撃があり、視界がゆらりと白濁する。

同時に頭の奥底から、幼い日の記憶が乱舞するように浮かび上がってきた。母の声とともに朝の日差しの中で食べたみそ汁の味、小さな台所で漂う湯気の匂い、食器棚の上で刻む時計の針の音。

驚くほど鮮明で、胸が熱くなるほど懐かしい。

しかし、その優しい風景は次の瞬間、巨大な暗幕を垂らされるように唐突に断ち切られ、それと入れ替わるように無数の忌まわしい思い出が怒涛の勢いで隆一の意識を侵略し始めた。


記憶の濁流

足元に散らばるガラクタの山の中で、幼馴染だった彼女の名前を正しく呼べなくなったことを悟る。桃色に塗られたガラクタたちは、歯ぎしりをするように軋みながら右往左往していた。妙に長い廊下の終点には、その子がいつか書いた落書きノートが貼りつけられていて、紙面からは真っ黒い舌が突き出ている。舌先が上下に震え、「あんたに何がわかるの?偉そうに言わないで」と繰り返す。その瞬間、廊下の壁一面に無数の目が開き、笑い声とも悲鳴ともつかない音の洪水が僕を呑みこんだ。


そして薄暗い教室に舞い戻ると、誰もいないはずの机から「死ねよ」「キモい」と刻まれた文字が剥がれ落ち、床を這いずり回っている。彫刻刀の刃先がひんやりとした薄笑いを浮かべて、削りかけの木片から「クソ虫」という文字が生まれ、黒板は脈打つ血管のように赤いチョークの線で覆われていた。窓の外を覗くと、赤い太陽が逆さまになって沈んでいく。夕焼けではなく、奇妙な血液の海に吸い込まれるかのような太陽で、それを眺めていると膝が崩れそうになる。誰かの笑い声が聞こえる。あの放課後に背後から投げかけられた囁き――「あいつマジでクソ虫だな」――がガラスを割る音と混ざり合い、言葉の破片が無数の青い蝶になって飛び散る。


気づけば、合否通知を映すパソコンの画面が宙を泳いでいる。モノクロの画面に大きく映し出される「不合格」の文字が、まばたきをするたびに肥大化し、部屋いっぱいに広がっていく。息をするたび、「不」「合」「格」が黒い墨のような滴を落とし、床に広がった文字の海に僕は溺れそうになる。母親の口元は映っていないのに、「もっと勉強しておけばよかった」と自分自身を責める声だけが倍音となって壁を振動させる。振動する壁の隙間から、凍える風が吹き込む。真冬の夜明けの冷気が剝き出しの骨のように鋭く、部屋の四隅を刺しては、何かを引き裂くような高い音を立てていた。


病室に切り替わった視界では、祖父が小さな箱の中に縮こまっている。箱の蓋を開けると、祖父の指先が一本ずつ妙に長く伸びていて、点滴のチューブを縫うように絡みついていた。消毒液の匂いは甘酸っぱく変質し、まるで古い果物が発する発酵臭のようだ。振り返ると、カーテンの向こうで誰かが笑っている。笑い声は一瞬だけ祖父の声に似ていたが、すぐにかん高い機械のノイズに変わり、線香花火のように弾け飛んで消える。祖父の目がゆっくりと閉じていくと、瞼の裏からは無数の虫が舞い出して、点滴台を伝いながらカーテンの隙間へ逃げていった。あとには布団の上で微かに温もりを残す祖父の形が、まるで人形の抜け殻のようにしわくちゃになって横たわっている。それを見つめていると、口の奥に苦い金属の味が染みわたり、いつの間にか僕自身の足が透明に透け始めていることに気づく。


酒の席で出会った友人たちの影は、机を這うゴキブリのように黒いシルエットに変わり、テーブルの下からひそひそと陰口を囁き続けていた。耳を澄ませば、「あいつ、調子乗りすぎ」「バカのくせに夢語ってウザい」という言葉が、自動販売機の硬貨投入口から硬貨が転がるような金属音になって僕の耳に衝突してくる。いつか一緒に大笑いした思い出が、紙吹雪のように舞い散っては床に落ち、舌打ちと酒のにおいだけが立ち昇る。友人の顔を探しても、そこには人間の顔はなく、黒い影同士が足を取り合って嘲笑しているだけだ。テーブルの上にはピエロの仮面が転がり、満面の笑みを浮かべてこちらを見上げている。仮面をひっくり返すと、中にはドロリとした赤い液体が溜まっていた。


幼馴染の彼女がバイト先の制服を脱ぎ捨て、涙をこらえながら「わかってないくせに!」と叫ぶ姿が、一瞬だけ鏡の中に映し出される。鏡はすぐに歪み始め、彼女の口元がぐにゃりと溶け落ちる。「そんなの甘えだろ」と言い捨てた僕の言葉が、まるで毒液のように床を侵食していくのがわかる。彼女の姿は、徐々にヒビ割れた硝子細工の人形へと変化していき、最後に砕け散る音が耳を叩く。無数の破片は宙を舞い、散弾のように壁に突き刺さり、壁紙をはがしながら「だったら勝手にすれば?」という自分の声を反響させる。空虚な後悔だけが煙のように残り、喉を灼く苦味となって身動きできないまま意識を蝕んでいく。


そうしてすべての記憶がひとつの巨大な塊になり、いつの間にか天井から垂れ下がる真っ黒な水滴となってぼたぼたと落ちてくる。水滴は人間の目玉に似た形をした粘液へと変わり、床に落ちるたびにぎょろりとこちらを見つめては血のような泪を流す。喉は渇いているのに飲み物はなく、周囲の景色はくるくると回転しながら崩れていく。破壊された壁の隙間から風が吹き込み、言葉にならないざわめきが耳を満たし、体が宙に浮くような感覚が込み上げる。


「もう……もうやめろ……これ以上、見せるな……!」


記憶はいつしか無数の断片に分裂し、それらが溶岩のように粘りついた塊を形成しながら眼前にせり出してくる。そこには、いじめられて震えていた自分の姿、祖父の冷たい手を握ったまま何も言えなかった自分の姿、幼馴染の涙に追い打ちをかけるように冷たい言葉を放つ自分の姿、すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合って一つの顔になっていく。歪んだその顔は、大きく口を開けて「もう元には戻れない」と絶叫し、最後にぱっくりと割れて無数の針のような歯をむき出しにする。そうして生まれた混沌の塊はゆっくりと僕の方へ手を伸ばし、粉々の記憶でできた泥のような腕で僕を飲み込もうとする。


「誰か、誰か助けて……!」


触れられた瞬間、視界がぐらりと歪む。

自分の右手が溶け始めているのが目に入り、思考が凍りつく。皮膚がまるで水飴のように糸を引きながら垂れ落ち、骨が露出し、さらにその骨までも粉々に砕ける。

意識も溶かされ、耳鳴りと歪んだ鼓動の振動だけが世界に残る。

すべては断片と化し、笑い声や泣き声、喧嘩の声、そして沈黙が、一気にかき混ぜられる鍋の中へ吸い込まれていく。


もはやどれが自分の記憶なのか曖昧になり、ただ混沌としたイメージの奔流が脈絡なく繰り返される。

笑っているのか泣いているのか判別がつかない声が重なり合い、薄闇の中に無数の手が伸びては消えていく。

焦げくさい匂いと湿ったカビの匂いが混じり合い、足元の床は波紋のように揺らめき、わずかな光が黒い粘液の表面で反射している。

すべてはゆっくりと押し流され、そしてまた新たな形に組み替えられ、どこへ辿り着くのかさえわからない渦の底に沈んでいく。


母の変貌

「……俺はこのまま死ぬのか……?」


最後に微かに残った声は、もはや囁きよりも弱々しい。

ふと視界の隅に、幼いころの隆一と母がキッチンに立つ姿が浮かび上がる。母は柔らかい微笑みを浮かべながら、小さな椀にみそ汁を注いでいる。

日の光に包まれたその光景は、今にも「飲みなさい、温かいから」と声をかけてくれそうな優しさに満ちていた。


だが、母の唇がわずかに歪み始め、目の焦点が狂ったように上向いた瞬間、それは歪な能面のような表情に変化していく。

口角がありえないほど吊り上がり、頬がどろりと溶けて骨の輪郭が透け、頭蓋の奥からぎいぎいと軋むような笑い声が響いてくる。

「母親」のはずの存在が、形容しがたい化け物のような何かへと成り果ててしまい、次第に青黒く染まりながら光の奥へと溶け去っていく。


消えた痕跡

翌朝、アパートの管理人が不審を抱いて隆一の部屋を開けると、そこには人の気配がまったくなかった。

生活用品はそのままなのに、どこにも隆一の姿はなく、ただ台所のテーブルに古びた鍋と汚れたレシピ本が置かれている。

管理人が鍋の中を覗き込むと、底に焦げ付いた味噌のかけらがこびりついているが、異様に不快なにおいが鼻を突いてすぐに頭が痛くなる。

レシピ本を開いてみても、ほとんどが読み取れず、ただ以下の文字が妙に生々しく残っているだけだった。


「家庭の味は記憶とともにある」


その言葉が何を意味するのか、今はもう知るすべがない。

気味の悪い沈黙の中で、その鍋はまるで見えない底なしの淵のように、すべてをのみ込んで静かに横たわっている。

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