聖暦1862年7月
「パパ、パパ起きて!」
娘のアニーの声で、ようやく俺は目を覚ました。
戦争が終わって2年も経つというのに、今だに俺は時折戦場の夢を見る。疲れているのだろうか。
「だいじょぶ?」
ガラスのようにキラキラした青い瞳を向け、まだ少し拙い言葉で俺を気遣う7歳の娘に、俺は少し笑って「大丈夫だ」と答え、彼女にそっとハグをする。どうやら心配させてしまったようだ。
アニーは俺の実の子どもじゃない。敵に一時占領されていたウェーデルの町で両親を亡くした "戦災孤児" だ。戦争の終盤に起こった "ウェーデル奪還作戦" は、両軍の魔法使いが数か月に及ぶ大規模な空中戦を繰り広げた凄まじい市街戦で、アニーが戦火を生き延びたのは奇跡といって良かった。
保護したアニーを俺は養子にし、以来、血の繋がらない親子関係がずっと続いている。
「学校行くぞー。」
「はーい。」
トーストとサラダ、それに牛乳だけの簡単な朝メシを済ませ、小さなレディに俺は声をかけた。
彼女を保育舎付の学校へ送り、一旦家に戻ってから竜に乗り、仕事へ向かう。これがいつもの日課だ。
この娘にも、新しい母親が必要かもしれないなーー
校門で手を振るアニーに手を振り返しながら、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。
「いい景色だなぁ……。」
空から眺めるアルザス山脈は絶景だ。麓はまだ夏の余韻で青々としているが、上に行くにしたがって木々の色は赤や黄色に染まり、頂上付近には既に雪がちらついている。このグラデーションはいつ見ても美しい。
「くるるるる……」
「そうか、お前もこの美しさが分かるか?」
嬉しそうに喉を鳴らす愛竜ロビンにつかまったまま、俺はロビンの首筋を撫でる。
戦争が終わり、軍を除隊した俺がありついたのは "郵便配達" の仕事だった。中でも俺が請け負うのは遠距離かつ速達専門だ。運べる郵便物も背中のリュックに入るサイズで、20ポンド(9kg)までと限定されているが、馬車や蒸気自動車だと2日はかかる山向こうの村まで、俺とロビンなら2時間もあれば物を届けられる。
「竜を飼い慣らす」といった、かなり珍しいスキルを身につけたおかげで、俺は郵便局から中々良い給料をもらうことができていた。
その日は偶然にも郵便物が少なく、早めに仕事を切り上げることができた俺は、アニーの学校のお迎えまでの時間をどうつぶすか考えていた。
現在午後1時。今迎えに行けば1時間はゆうに待つことになる状況だ。
「どうするかなぁ……。」
とりあえず家に戻るか、とUターンしようとした時だった。
「おや?あんなところに……」
郵便局から少し外れた街道沿いに、花に囲まれたロッジ風の建物を見つけた。チョコレート色のうろこ屋根に石でできた白壁。赤やピンク、黄色等色とりどりの花々が咲き乱れる生垣に囲まれてひっそりとたたずんでいる。
「誰かの家か?……いや、何かの店かな?」
俺は、とりあえず近付いてみることにした。
「へぇ……カフェか。」
少しがたついている両開きのドアには、"CAFE FLOWER GATE" と書かれた木製の看板がかかっている。閉まっているようにも見えたが、格子窓に人の姿を発見し、そうではないのだと分かった。
ドアのすぐ近くには、驚いたことに停竜所が備えてあった。ロビンが興味ありげな様子で匂いを嗅いでいる。
「すげぇ……。」
馬車や蒸気自動車を停める場所であればまだ分かる。しかしこんな田舎町のカフェに竜が来ることを想定して停竜所まで用意してるなんてとっても意外だ。
愛竜ロビンを停竜所につなげ、俺はおそるおそる店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ……。」
店内のあちこちに花が飾られ、天井を埋めつくすほどのドライフラワーが吊るされていた。少し薄暗い中に、隅々に置かれたアンティーク調のミニランプが淡いオレンジ色の光を放つ。
壁には魔女の使うような箒がかけられてあり、カウンターの横には振り子の付いた置時計が、まるで客人を見下ろすかのように、どんと置かれていた。
「あ……。」
吸い込まれるような濃い紅茶色の瞳で、彼女はじっと俺を見つめていた。目が合ってからもどういうわけか彼女はその瞳を逸らさない。
えーと……
何か言わないといけないのに、緊張して上手く声が出ない。
ぼーん……。ぼーん……。
静寂に包まれた空間を壊すように、現時刻とは10分程遅れて、柱時計が鳴る。
店に入ってから今まで俺の目を見たまま、ずっと立ち尽くしていた店の女主人が、その音を合図にしたかのようにぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「え!?えーと……。」
この店に入ったのは初めてで、俺と彼女は初対面だ。すみれ色のエプロンをした彼女は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、そそくさとカウンター奥のスタッフルームに引っ込んでしまった。
(一体どうして彼女は泣き出したんだ?)
そんなことを考えながら、俺はすぐ近くのカウンター席に座った。帰った方が良いのだろうか、いや、でもすぐに帰るのも失礼にあたるか……。
考えに考えた末、結局帰らずにいると、5分ほどして彼女が再び奥から出てきた。手にはローズティと、スコーンの乗った皿を持っている。
「さっきはごめんなさい。なんだか懐かしく感じちゃって。自分でもびっくりしてしまいました。」
「あ、いえ、お気になさらず。」
「これ、サービスです。」
と言いながら、彼女は俺の前に、手に持っていたものを置いた。
花が描かれた華奢なカップからたちこめる湯気が視界を遮る。紅茶からは優しく優雅な香りがした。ローズティに使われている薔薇は、この店の庭で育てているものだろうか。
スコーンの皿の端には、ブルーベリージャムとクロテッドクリームが添えられており、てっぺんには赤い薔薇の花びらが数枚飾られている。
「あ、ありがとうございます!」
席に着いたばかりの俺は慌てて立ち上がり、頭をかきながら礼を言った。
よく見ると、彼女はとても綺麗だった。白磁を思わせる肌とエキゾチックな長い黒髪、紅茶色の瞳がとてもよくマッチしている。彼女に微笑みかけられたら、年頃の男なら大抵がたちまち恋に落ちてしまうだろう。
(そういえば……)
ふと気になったことを、俺は彼女に聞いてみる。
「どうして、ローズティを?」
ローズティは俺の大好物である。彼女が俺の好物を知るはずがないし、数多い紅茶の中からなぜこれを選んだのか、純粋に気になった。
しかし、彼女は俺の問いに答えることなく、
ただぽつりと一言、「お嫌いですか?」と聞いてきた。
「いえ、実は大好物なんです。ありがとうございます!」
「よかった。」
彼女の表情が、ぱっと明るくなる。
その日から"FLOWER GATE" は俺の行きつけの店になった。