第1話 起きてください魔王様
「起きてください魔王様」
新緑を思わせる艶やかな緑の髪に、鹿のツノのような枝角を生やした眉目秀麗な龍神族の男が、ベッドでスースーと寝息を立てている赤髪の青年を揺り起こす。
魔王と呼ばれた青年は、一瞬ピクリと眉間に皺を寄せたが再びスーと寝息を立て始める。
「────」
「あれ、宰相様、また魔王様起こしているのですか?」
宰相が振り返ると、人間界で言う牛そっくりな見た目で二本足で立つ牛魔族の男が、お盆を片手に立っていた。
「わかってる。だがもう起こさないと」
宰相はため息を吐きつつ、牛魔族の男に向けて手を伸ばした。
「なんですか?」
「牛男、その盆を渡せ」
「牛男?」
牛魔族の男は『牛男』とはあっしのことですか? とばかりに周りを見渡してから宰相を見る。
「そうだ、お前のことだ牛男、だから早くそれを渡せといっているだろう」
無表情にもう一度言い放つ。
「いや、これはあっしの仕事です」
牛男と呼ばれた魔族は宰相にお盆を渡していいものかどうか思案顔をする。
「今日からは、私がかわってやる」
「えっ、でも……」
お盆の上には湯を張った桶と真新しいタオルが数枚乗っている。
この500年食事もとらず、ずっと眠り続けている魔王の体を拭くためのものだった。
「さっき、魔王様が一瞬だが意識を取り戻された」
「それは宰相様が魔王様を起こしたからでは」と、言いたげな牛男の視線を無視して宰相は続ける。
「魔王様は寝起きが悪いんだ」
「へぇ」
何を言わんとしているのか、牛男が小首をかしげる。
「ここ100年毎日魔王様を起こそうと声をかけてきたが、魔王様が今日のような反応を示したのは初めてだ、きっと意識がお戻りになる前兆だ」
「へぇ」
牛男は間抜けな返事を繰り返す。宰相がイラっとした表情を一瞬だけ見せた。
「意識が一瞬でも戻ったということは、いつ寝ぼけられるかわからないということだ」
「寝ぼける……」
「あぁ、そうだ、魔王様は寝ぼけて山一つ吹っ飛ばしたことがある」
その言葉を繰り返すようにつぶやいて、ようやく意味を理解したのか牛男の顔がサッと青ざめる。
「わかったようだな」
魔王が耳元で飛ぶ虫を追い払おうと魔力を放ったところ、山が一つ消滅したというのは、この魔界では有名な都市伝説である。
「…………ならなぜ宰相様は、わざわざ魔王様を無理に起こそうとするのですか。しっかり寝かせてあげれば、寝ぼけることなく起きれるのではないですか?」
非難したような表情が顔にでたのだろうか。
「私だって、しっかり休んで気持ちよく起きてもらいたい」
宰相が言い訳の様に話しだした。
「だが魔王様鬼神族は、眠った分だけ若返る特殊な一族なんだ」
眠っている間仮死状態になり年を取らない魔族の話は聞いたことがあるが、若返る魔族など聞いたことがない。
「若く見えるだろうが、本当はずっと年上で聡明で強い魔力を持った御方なのだ」
だが、宰相が嘘をいっているとは思えない。
「──そうなんですか……」
「ちなみに私は不死ではないが不老だ、お前のひいひいひい爺さんが村を作りたいと言った時に許可をだしたのはこの私だ」
「あ。ありがとうございます」
いったいこの二人の本当の年齢はいくつなのだろう。と考えてみたが途中で怖くなって考えるのをやめる。そしてとりあえず礼を述べる。
「で、お前がすることは、もうわかったな」
「へ、へぃ」
いやよくわからない。もともと人型魔族の細かな表情など、獣系魔族の牛男にはほとんど読み取れないのだ。そのうえ、特にこの宰相は感情を表に表さないので、何を考えているかわからないともっぱら獣系魔族の間で噂の人物であった。
すっと宰相の手が伸びる。
牛男がおもわず身をすくめる。
しかしその細くしなやかな指は牛男ではなく、牛男のもつ桶の中に入れられた。
「すっかり冷めてしまっているな。それに牛男が揺らしたせいで、タオルも濡れてしまった。こんな冷たくなったもので魔王様のお体を拭いたら。冷たさで部屋を焼かれてしまうかもしれない」
それは困る。牛男は焦ったような顔で
「すぐに新しいのをお持ちします」
そう言うと、頭を下げるのも忘れ部屋を飛び出していった。
「魔王様」
スヤスヤと寝息を立てる魔王の、炎のように赤く少し癖のある髪を撫ぜる。
かつてはその強大な力で魔界統一一歩手前までいった魔王。
人間たちとも休戦条約を進めようとしていた矢先に、突然魔王城に攻め込んできた勇者たちにより深い傷を負わされた。それでも勇者たちを魔界の外まで弾き飛ばすと、魔界と人間界を完全に隔絶する結界を張ったのだ。そしてその時魔力を使い果たしまた傷を癒すため、深い眠りについたのだ。
500年前勇者から受けた傷はもうすっかり癒えた。
結界はあと500年持つと言われているが本当かどうか分からない。
見た目だけで相手を震えあがらさせていた魔王の姿はもうない、寝起きは判断力も低下する。だからこそ傷が治ったなら一刻も早く目覚めてもらいたいのだ。
このまま若返り続けたら……
『リーレン遊んで』
自分の名を呼ぶ幼かった魔王のある日の姿を思い浮かべながら「それも悪くはないな」と一瞬そんな考えが浮かんだがすぐに首を横に振る。
「起きてください魔王様」
宰相は優しく魔王を揺り起こす。しかし魔王はまだ深い眠りの中にいるようだった。