空気3
化け熊だとは思っていた。なぜなら、自分のことを知識として知っているからだ。人と会話が成立するようだったからだ。しかし、どこも仲良くなどないではないかと琉聖は固まってしまっていた。
「お久しぶり!」
「俺は会いたくなかった」
どう見たって歓迎されていない。千穂は気にせず笑っているけれど。そもそも
―ここにこんなに妖がいるなんて気づかなかった
そこは平素自分たちが体育の時間で使っている体育館だった。全校集会にも使われる。それだと言うのに、全く気が付かなかった。
―僕、結界の専門家のはずなのにな
千穂は当然、壱華も武尊も気づいてはいなかったとは琉聖は知らない。琉聖は落ち込む。メンバーの一番後ろに立っているため、琉聖が落ち込んでいるとは誰も思わない。武尊は千穂が危なくないようになのだろう、千穂の隣に立ち手には剣を持っている。
「―今日は何の用だ」
「この前は灰色の一族が結界術の一族だって教えてくれてありがとう」
「その礼を今更わざわざ言いに来たのか?」
熊の言葉はどこか辛らつだ。嫌われていると琉聖は思った。しかし、千穂は気にせずにこにこと笑っている。
「あのね、また教えてほしいことがあるんだけど」
「またか」
熊は低く唸った。ぐるるという響きに琉聖は体がこわばる。見れば樹も啓太の後ろに隠れたようだった。壱華と啓太は顔を引き締めたまま行く末を見守っている。千穂は余裕で武尊も落ち着いている。
「今度はね、白色の一族っていないかなって聞きに来たの」
「白の一族だと?」
「そうそう」
千穂は頷いた。熊はまた低く唸った。周囲の妖の目もぎらぎらと光ってはいたが、そこに敵意はないように見えた。
―力で押さえつけたのかな
単純に見てあの熊が一番強い。それ以外は武尊を恐れているように見えた。
―剣まで出されちゃったらな
一種の脅しだと琉聖は思った。
熊は考え終わったのか、ぐるると響く音が鳴りやむ。琉聖は思考から帰ってきた。
「その灰色の一族よりさらに西に白色の一族がいると聞いたことがある」
「さすが!」
それだよと千穂は飛びつく。
「何でも化け蜘蛛を操る一族らしい」
「蜘蛛!?」
嘘!怖い!と千穂は悲鳴を上げた。
―熊は平気なのに?
琉聖は不思議に思う。同じことを思っているのか、武尊も首を傾げていた。
「ああ、基本的に女が力を持つ一族らしいな」
「女の人だけ」
琉聖は熊の言葉を繰り返した。熊の視線が琉聖に向く。それに気づき、琉聖はひやりと冷たい汗が流れるのを感じた。
「―それは、女だったのか?」
「うん。女の子だよ」
「じゃあ、可能性は高いかもな」
熊はそう言うと視線を千穂に戻した。安堵なのか、琉聖は息を吐く。
「他には何か知らない?」
「これ以上は知らないぞ」
「じゃあ、目的は何だと思う?」
「お前だろう?」
「そうじゃなくて!私で何をしようとしてると思う?」
「そんなこと知るか。自分で考えろ」
「―はあい」
千穂はどこか不満げにそう答えた。隣で呆れたように武尊が首を横に振っていた。
「これ以上話すことはない。帰れ」
熊は千穂たちに背を向けた。
「ありがとう」
千穂は消えていく背に手を振っていた。それを見届けて、武尊が振り返った。剣を肩に乗せて言う。
「収穫はあった。戻ろう」
皆頷いた。
※
琉聖が作った結界の中を皆で歩く。暗い廊下を思い思いのペースで歩く。
「これ、結局どうなってるの?」
行きも思ったのだが尋ねることができなかった武尊が口を開いた。冷たい壁に手を添える。
「どうって、うーん。廊下を切り取った感じ?廊下の中に僕が新しく廊下を作った感じ?」
かなーと琉聖は頭を悩ませながら答えた。
「なんか、相反すること言われた気がする」
「難しく考えないで」
「壱華の結界は分かるんだけどな」
武尊は首を傾げる。壱華もこんこんと壁をたたきながら言った。
「新しく廊下を作ったって考えた方がいいと思うわ。で、その中は外から見えないの」
「中の見えない道を作っちゃったってわけ?」
「そう考えた方が分かりやすいと思うわ」
壱華は頷いた。碧がぴょんと琉聖の手から武尊の肩に飛び移った。
「ほら、灰色の一族は世界を作り出すって熊が言ってたじゃない」
「なるほどね」
琉聖は元ある廊下を下地に別の廊下を作り出し、その中を自分たちは歩いているらしいと武尊は理解する。そしてその廊下の中は外からは見えない。
「便利な力だね」
「私には無理だわ」
本当、すごい。と壱華は結界内を見渡すのだった。
「見た目も普通に廊下だよね」
千穂も感心したように声にする。
「お手本がすぐそこにあるからね」
想像力も何もいらないよ、と琉聖は笑った。
「あるものを作る方が楽なの?」
「僕は模倣の方がやりやすいね」
樹の質問に琉聖はそう答えた。
「壱華の結界はここまで大きくならないもんな」
「ええ。部屋の結界も張りなおしてもらおうかしら」
啓太と壱華はそんな会話を交わす。琉聖は苦笑いする。
―もう仲間認定されたのかな
少し早すぎやしないかと心配にはなるが、千穂が危険を感じていないのも大きいのだろう。
―僕だって、武尊相手にまた何か起こそうなんて思えない
それに、
―きっと二度目はない
見逃してはもらえないのだろう。あの剣で、この首を切り落とされてしまうに違いない。そう考えれば、ひやりと冷たいものが背中を走った。ほんの一瞬、日常を捨てたことへの後悔が胸をよぎる。琉聖は首を横にふる。
―僕は家には戻らない
あの場所は生き地獄だ。それに、一度決めたことを曲げる気にはなれない。意地だった。
「どうしたの?」
千穂が気づいて顔を覗き込んでくる。
丸い大きな目に、琉聖の姿が映っていた。暗くて、その表情は良く見えなかったけれど。
「何でもないよ」
「そう?」
千穂は首を傾げると、琉聖に背中を向けて歩き出す。しかし、すぐに足を止めてしまう。
「―後悔、してない?」
その質問に、どきりと心臓が脈打った。
「よく忘れちゃうんだけど、やっぱり私の周りって良くないことが起きるから」
みんなに心配かけちゃうし。
「私、頭も良くないから」
えへへと千穂はうつむきながら笑った。そんな千穂に、琉聖はなんと声をかけていいか分からない。考えていると、武尊が動いた。
「良くないことが起こってもいいように、俺たちがいるんでしょ?」
武尊はぽんと千穂の頭に手を置いた。千穂は武尊を見上げる。
「それに、琉聖はもう仲間だよ」
その言葉は、ここにいる誰にとっても意外だった。
「千穂は琉聖に悪いものを感じないんでしょう?剣も何も伝えてこない」
琉聖に害はない。ならば―
「千穂を一緒に守るって言葉は本当。本当なら、琉聖はもう俺たちの仲間だ」
その言葉は、琉聖の胸に忍び寄り始めていた不安を押しのける。ぎゅっと琉聖は手を握ると、にっこりと笑った。暗闇の中で、見えるのかはわからなかったけれど。
「僕だって、一度した約束は守るよ。千穂ちゃんのこと、みんなと一緒に守るから」
だから
「大丈夫だよ」
その言葉に、千穂は泣きそうな笑顔を浮かべるのだった。
※
―なんであんなこと言ったんだろう
武尊はベッドに横になりながらそんなことを考えた。自分にしては甘い言葉だったと思う。ごろりと寝返りを打つ。
―千穂の周りは確かにおかしい
銀の器だから狙われるのは仕方ないとしても、関わってくる大人の態度に違和感が募るのだ。
―先生はお守りの効果が薄れて行くことを教えてはくれなかった
そろそろまた紐を通しなおさなければと考えながら今までを振り返る。
―父さんが、学校を作ってまで千穂たちをここに呼んだのだっておかしい
武尊が千穂たちの村に行った方がはるかに手間がかからない。
―教頭だって、普通の人間じゃないだろうし
少なくともこちらの事情を分かっている。村人ではないのにもかかわらずだ。そして極めつけは―
―どうして千穂は村人に命を狙われたのか
夏休みの出来事である。なぜ、保護者であるはずの村人が千穂を狙ったのかが分からない。
―一枚岩じゃないと考えればそれは当然だ
千穂は災いを呼ぶ。生かすか殺すかでも意見が分かれていそうだと武尊は考えていた。
武尊は顔をゆがめる。両手で顔を覆った。
「何であんなこと言ったんだろ」
―琉聖はもう仲間だなんて
あれは恥ずかしかったと顔を熱くする。でも笑っていた。琉聖も千穂も笑っていた。だから
―だったらいいのかな
あの笑顔は作り物ではないと感じた。琉聖から本物の笑顔を引き出せたことは嬉しい。
「眠れないの?」
にゅっと視界に顔を現したのは碧だ。
―碧が一緒なの忘れてた
「ちょっと考え事」
「白い女のこと?」
「ちょっと違うかな」
自分の頭の横に座っている碧に、武尊は手を伸ばす。気が向いて、その頭を撫でてみる。碧はされるがままになっていた。
「今日は機嫌でもいいの?」
「どうして?」
「いつもより優しいから」
「そう?」
「うん」
碧はじっと納得のいく答えを待っていた。それを感じ取って、武尊は手を止める。
「千穂の甘さがうつったかな」
「それは危ないよ」
碧の即答に、武尊はからっと笑った。
「そうかも」
ふふふとひとしきり笑って、武尊は碧を見つめた。きっと、千穂が大切にしていたぬいぐるみだ。だから、自分も大切にしなければ。
「編入生には注意しないとね」
「そうだよ」
碧がそう答えたのを認めて、武尊は目を閉じたのだった。
※
―あれほどうれしい言葉はない
琉聖は、武尊の言葉をかみしめていた。
『琉聖はもう仲間だよ』
じっと、天井を見つめる。同じ部屋の別室で眠る才能にあふれた一人の少年。彼に認められたという事実は、琉聖を奮い立たせる。
『―後悔、してない?』
あまりにか弱い少女の、自分が守ると言った時に見せた笑顔の儚さは、琉聖の決心を固くする。
「頑張ろう」
琉聖は呟く。
「僕はここで頑張ろう」
戻りたくないとはいえ、それは終わりの見えない道だった。軽はずみだったかもしれないと思ったこともあった。けれど
「もう、迷わないから」
ぎゅっと両手を握る。
「僕にも誰かを守れますように」
切実な願いを聞くものは、誰一人としていなかった。