0.異端
人工の光がまぶしい。夜になってもなお人通りが多いのも新鮮だ。厚めのパーカーをかぶっていても、その細い足と体つきから少女だと分かる。
「ねえ、君一人?」
軽薄そうな青年が一人たたずむ少女に声をかける。人がよさそうに笑ってはいるが、ナンパが目的だとすぐにわかる。少女は青年を無視して歩き始める。
「ちょっと待ってよ」
青年は少女の肩に手をかける。その瞬間
「触るな」
低い這うような声が頭に響いた。
「!」
少女のものとは確実に違うその声に、青年は手を離しあたりを見渡す。しかし、自分に話しかけた男がいるようには見えない。
「なんだ?」
「聞こえたの?」
今度は細い声が聞こえた。今度こそ少女のものだ。青年は少女に視線を戻す。見れば、少女はゆっくりとこちらを振り返るところだった。フードを目深にかぶり目元は良く見えない。しかし、整った肉感的な唇が弧を描いていた。笑っているのが分かった。髪は白か銀を思わせるかなり明るい色に染めているように青年には見えた。その肩につきそうな髪の毛先から覗く光がある。
目が合ったと思った。
何故それが目に見えたのか青年には分からなかった。
「ふーん。街にも勘のいい人間っているんだ」
少女は笑みながら肩に手を伸ばした。そっと髪を避ける。そこから姿を現したのは、どうやら蜘蛛らしいと青年は理解する。そしてその瞬間後ずさり背を向け走り出す。その大きさに恐怖を覚えたからだ。
―なんだ?なんだなんだなんだ!?
息を切らしながらわき目もふらずに走る。少女の細い首元に乗っていた一匹の蜘蛛。それは確かに自分を見ていて、敵意を送ってきていた。その醜い姿に、それが人と同じ意志を持っていることに青年は恐怖する。体中から汗が噴き出す。
「何だったんだ?今の」
雑居ビルの間に入って壁に手をつく。ぜーはーぜーはーと肩で息をしながら思い返す。細い、一人の弱そうな少女だった。押せば行けると思った。その肩にいたのは大きな化け蜘蛛。そんな青年を静かに照らし出す月を、違うところから少女は見上げていた。
「どこに行っても月はきれいね」
「そうだな」
本来なら少女にしか聞こえないはずの声だ。くすりと少女は笑った。
「八雲。意地悪しちゃだめじゃない」
「お前に手を出そうとしたあいつが悪い」
「嫉妬深いのね」
「お前ひとりじゃ追い払えなかっただろう」
「あら、どうかしら」
くすくすと少女は笑った。人々はそんな少女に目もくれない。今の時代、電話を手に持たなくたって離れた誰かと会話はできる。珍しい光景ではない。見えないだけで、きっとイヤホンもつけているのだろう。そんなことを思いながら、人々は少女の前を通り過ぎて行く。否、その存在さえ素通りして通りすぎていく。
「本当、都会の人間って淡白ね」
自分に注意を向けるとこなく過ぎ去っていく多くの人々に、少女は不快より心地よさを覚えた。地元では、こんな時間に外にいれば必ず声をかけられる。どうして外にいるのかその理由を問われる。そもそも、時間など関係なく声をかけられる。
―ああでも
―それも普通の子ならの話だわ
自分は違うとでも言いたげにそんなことを思う。しかし、声をかけられないだけで注意を向けられないとは違う。いつだって人から奇異の目を向けられる。それがないことがこんなにも心地いいとは。
「あー」
少女はその場で両手をぐっと横に伸ばすとぐるりと回った。さすがに少し視線が集まる。しかし、すぐにそれは霧散する。
「ふー」
少女は足元に置いていたボストンバックに手を伸ばすと歩き始める。
「行きましょう八雲。銀の器がいるとかいう学校に」
「ああ、楽しみだな」
「ええ、とっても楽しみ」
細い声は、しかし鈴を転がすように軽やかに空気を揺らすのだった。