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LETTER*GIFT  作者: 友樹みこと
7/8

夢からの離脱

第七章 「夢からの離脱」


 朝目覚めると、母さんに連絡した。

どうやら用事が立て込んでいるようで、夕方に迎えに来てくれるらしい。

それまで、海岸沿いを歩いて、肝試しをした場所、スイカ割りをした場所、花火を見た場所、水着のお披露目会があった場所、そしてあの丸太を見て回って時間を潰した。

 どこを見ても遠い過去で…見ていて胸が苦しくなる。それは、昨日のあの感覚に似ていた。

 丸太に腰を降ろして、海岸の波を何もうつさない瞳で見つめる。

「もう…戻らないのか…」

 気付けば、日は傾いていき、丸太の隣に母さんが座った。

「…帰ろうか。」

 母さんは何も聞かずに、俺の肩を叩いて、海岸沿いにある車の方に歩いていく。

「…うん」

 それから気付けば家のベッドの上にいた。

 それまでどう帰ったか記憶がない。


 翌朝。

「あっ…学校行かなきゃ…」

そう言えば、妃那さんと約束していたことを思い出したからだ。

 いや、ひょっとしたら、妃那さんもいないかもな…

 そんな恐怖を覚えながらも、新妻農園になっているトマトを取りに行こうと重い腰を上げた。


 学校に着くと、体操服姿の妃那さんがいた。

 安心感が体の恐怖を拭い去る。それだけで泣きそうだ。

「あっ、おはようございます。どうでしたか、旅行?」

「う、うん。良かったよ…」

 新妻農園は今日もいつも通りだった。にこやかに笑う妃那さんの周りには、新しく植えられたトマトやキュウリがなっている。何でもない日常の一ページ。それが俺には…辛い。

「な、何かあったんですか? 顔色が悪いですよ?」

 心配そうに俺の顔を覗き込む妃那さん。どうやら、俺の表情から何かを察したらしい。

「い、いやなんでも…何でもないんだ…」

 俺は、とりあえずそう答えた。全く取り繕終えていない返答だったけど妃那さんは、

「そうですか、わかりました!」と、明るく答えた。

「えっ…いいの?」

「滝川君が話したいときに話してくれれば私はそれでいいですよ! いえ、話したくない事なら話さなくていいんですよ? でも、私に何かお手伝いできそうなことがあるときは是非、私に言ってください!」

妃那さんは早めに来ていたのか、汗をいっぱいかきながらも、一生懸命な笑顔で言った。

 妃那さんのそんな姿を見ていると、涙を抑えることはもうできなかった。

「ありがとう、妃那さん…」

「わっ! どうしたんですか!? ほんと、大丈夫ですか!?」

 一つくくりのお下げを揺らしながら、近づいて、俺の背中をさする妃那さん。

 そのやさしさに甘えたくなった。

「妃那さんは優しいんだな…こんな俺に…」

「なに言ってるんですか! 滝川君は凄い人ですよ! 私からしたら、一番すごい人です!」

「えっ…なんで?」

「だって、」


――――国民的アイドルの彼女じゃないですか!


「…え」

「あっ、ごめんなさい! それで、気を落としていたのに、私、逆の事を言って…」

「えっ、いや…どういうこと?」

「…もしかして、知らないんですか? 真理さん例の新人アイドルだったんですよ?」

「うそ…だろ?」

俺は、いてもたってもいられず、駆けだした。

「ちょっと、滝川君!?」

妃那さんが、追いかけて来たけど、すぐに姿は見えなくなった。

足の速さが違いすぎる。

「なんだ…どうなってる!」

 まるで、別の世界に飛び込んだような感覚だ。

商店街の道すがら、登校時には空いてなかった、電化製品店。その店頭のハイビジョンテレビには、真理の姿が映っていた。

 画面の下の方には、『速報! 林田誠の最新作を演じるアイドルが、ついに姿を現す!』

林田誠と言えば、アカデミー賞を何度も取っている監督の名前だ。それに…真理が?

『なぜ、今まで姿を公に出さなかったのですか?』

『事情を深くは言えませんが、私の都合で発表を押し切らせてもらいました。撮影も、少しお休みさせてもらっていました』

『なるほど、そうだったんですね。でも、姿を出す決心をしたということですね?』

『はい、もう決心がつきました』

『力強いコメントですね。最後に何か言いたいことはありますか?』

『はい、なら一言…ゆうちゃん、』

 ――――私の勝ちだよ。

「どういう意味だ…」

『い、以上。新人アイドル、花崎真理さんのコメントでした!』

『みんな~! これから真理の事を応援してね~!』

『これから、花崎さんの活躍には期待が持てますね。なんせ幼少期の頃から…』

 コメンテーターのコメントは依然続くけど、俺の耳には全部入ってこない。

「私の勝ち…? なにと比べて…」

 どこと比べても俺に真理に勝てる部分は無いけどな…

 俺は、町の話題が真理一色なのを聞こえないように耳をふさいで、帰宅した。


 母さんに会うと、何かを問いただされるような気がして、そのまま階段を昇って二階へ。

自分の部屋行って、ベットで寝ころぶ。

 手持無沙汰になった俺は携帯を開く。メールが一通。

『ごめんなさい! 私、滝川君を傷つけたみたいで…(>_<)』

「あっ…妃那さんに悪いことしたな…」

『こちらこそごめん。明日からはちゃんと行くから、今日は当番任せてもいいかな?』

 メールの文面を適当に考えて、すぐに送る。

 また、一分もしないうちに返信が返ってきた。相変わらず返信の速さは異常だ。

『いえ、今日の分の仕事は終わったので気にしないでください。明日、来てくれるみたいで嬉しいです! 楽しみに待ってますね』

「楽しみに…か…」

 妃那さんがそう言ってくれることが今、一番の救いだった。

 でも、それが何気ない普通の言葉。社交辞令みたいなものだと思って、虚しくなる。

「やりきれないな…」

 俺は、部屋の隅にあるギターを眺めた。

 何となく手に取ると、妙に手になじんで久しぶりに弾いてみたくなる。

「あの時の曲…弾いてみるか」

 俺がギターを弾いてみようと思ったきっかけの曲。いつも、コードの動きが早くなるCメロで挫折してしまっていたけど、今なら弾ける気がした。

「…っ!」

 弦で右の人差し指を切る。

「どんだけ、ギター弾いてなかったんだよ…」

 ダメだな…俺…

 そう思いつつも、ギターを弾く手を止めることは無かった。


 あの日以来、幼馴染みは文字通り消えていた。

家を訪ねてもいない。電話にもつながらない。メールも届かない。

完全に消息を絶っていた。

最後の夏になるかもしれない。そう言ったのは真理本人だったのに、当の本人は、テレビに引っ張りだこ。テレビの中でも、持ち前の明るさは健在で、いつもの元気な真理がテレビの中にいるだけのような気がした。それでも真理の存在はあの日から、かなり遠くなった。

 夏休みの間、幼馴染と入れ替わるようにしてよく会うようになったのは妃那さんだ。会うと言っても、新妻農園でだけだったけれど、その時間が俺の毎日の癒しだった。

 新妻農園で、妃那さんと過ごしてるか、あるいは何となく家でギターを弾いてるか。そのどっちかをするだけの機械として、高校二年の夏休みを終えた。


 新学期。重い瞼を開きたくないとこれほど思ったことは無い。

幼馴染みのみんなと否応なくして会わなきゃいけないからだ。

 今、自分の惨めさを知って、彼らと会って、俺はどう対応すればいいかわからない。かといって、学校を休むなんて言ったら母さんに殺されるだろうし、学校を休むという選択肢はない。いっそのこと今から窓から飛び降りた方が楽になれるんじゃないだろうか。

 そんなことを考えながらも、気付けば制服に袖を通しているのだから、習慣と言うのは怖いものだ。

リュックを背負って、下に降りる。洗面所で歯磨きをして顔を洗い、父さんと母さんに挨拶をし、朝食のエッグトーストを食べてから家を出た。

今朝も夏休み前と同じ通り、少し早めに出る。新妻農園の仕事があるからと言うのもあるけど、鈴音に会いたくないという気持ちも心の隅にあった。

 

 足取りが重くて、結局学校に着いたのは八時十分。

 とりあえず裏庭の新妻農園に顔を出すと、相変わらず妃那さんが体操服姿でいた。

「あっ、おはよう滝川君! 今日から学校だね!」

「行けなくてごめんな、おはよう」

 俺は、なるべく笑顔を意識して話す。

「なにか…上手くいくといいですね、色々と」

 少し、困った笑顔でそういう妃那さんを見ていると、俺の作り笑いは余程無理をしているんだなとわかってしまう。

「ああ…うん、そうだな…ありがとう」

「いえ、早く手入れ終わらせて、教室に行きましょう!」

 妃那さんは、毎日手入れされて綺麗になった新妻農園へ入って行く。

 トマトやキュウリ、向日葵なんかの、茎一本一本の様子を見て回る姿から、真剣さが伝わってきた。

 妃那さんは元々、植物とかが好きなのかもしれないけれど、あんな一生懸命に先生に押し付けられた仕事を出来るなんてそれだけで尊敬できる。しかも、優しいし、可愛いし、癒されるし…あんな人がずっと俺の隣にいてくれたら…

「妃那さん…」

「なんですか?」

 きょとんとした様子で聞いてくる、妃那さん。

その大きくて純粋できらきらとした瞳を見ているだけで、俺は幸せでい続けれる。

「俺と…付き合ってください!」

 俺は頭を下げて、右手を伸ばした。

「えっ…」

 妃那さんは、ただでさえ大きな目をさらに大きくして、顔をほこらばせた。

 でも、それは一瞬の事で、すぐに困った顔を浮かべて、「ダメですよ、冗談でもそんなこと言ったら。真理ちゃんが悲しみます」と言った。

「いや、でも俺と真理は…もう…」

「それはでも、忙しいからじゃ…」

 妃那さんは、その言葉を聞いても驚いた様子を見せない。どこかで、それは察していたようだ。

「違う…。今の俺に、真理たちのそばにいる資格はないって言われて振られたんだ…」

「つまり、今の滝川君だと、真理ちゃんの彼氏にはなれないということですか?」

「まぁ、わかりやすく言えばそう言うことだと思う…」

「それを、真理ちゃんが言ったんですか?」

「うん」「本当に?」「うん…」

「…まさか、そんなはずないですよ。ありきたりな言葉ですが、きっと悪い夢でも見てるんですって」「そうだといいんだけどな…」

「と、とりあえず私だけじゃ全然滝川君の役に立てません! 教室に行って皆さんの話を聞いてみましょう! ではっ!」

「そ、それは…あっ…」

 俺の話も聞かずに、妃那さんは駆けて行ってしまった。

「面倒なことになっちゃったかな…」

 空を見ると、六つの雲が別々に浮かんでいた。


 更衣室の前で妃那さんが着替え終わるのを待ち、夏服姿の(カッターシャツ一枚にスカート。いっつも真面目な妃那さんが、暑いからか第二ボタンを開けていて妙にエロい)妃那さんが出て来るのを待っていたらちょうど、八時二十五分。結構ギリギリの時刻だ。

「ごめんなさい、時間かかっちゃって」

「いや、大丈夫」

 一つくくりのお下げをくくっている髪留めは、気付けば桜から向日葵に変わっていた。

「あれ、桜じゃないんだね?」

「ずっと前からそうですよ? どうせ言うなら、ちゃんと見ててください」

 妃那さんに、人差し指を立てられ、笑顔で注意される。

「ああ、ごめんごめん。昨日までは、桜だったような気がして」

「…っ! よそ見は、いけませんよ…滝川君…」

妃那さんは消え入りそうな声で何かを言ったけど、なんて言ったのかはどれだけ聞き返しても教えてはくれなかった。

ただ、本当に昨日までは、桜だったはずだ。


教室のドアを開けると、ほとんどの生徒が座っていた。

時刻は八時二十九分。流石に初日で遅刻する生徒もそうはいないだろうし、これから来る生徒はいないだろう。

なのに、なんでだ。なんで…

「…誰もいないんだ」

「うそ…真理ちゃんも、傑くんも、文香ちゃんも、健くんも。鈴華ちゃんも…全員…」

教室の空気が少し、ざわついていた。真理がアイドルデビューしたことと、俺の幼馴染み達(クラスで目立っていた人達)が、全員休んでいたこと。この話で持ち切りのようだった。

「ねぇ、なんで滝川君以外の人は休んでるの?」

「真理ちゃんと、滝川君ってどうなったの?」

「なんか、健のこと知らねぇか? 一切連絡とか取れねぇんだけど」

クラスメイトたちは、俺が席に向かう間すれ違うたびに幼馴染みの事を聞いて来る。

「いや、俺にもわかんねぇ…」

 俺にはそういうことしか出来なかった。


 教室が妙なざわつきに包まれる中、新妻先生が暗い面持ちで教室に入って来た。

「先生! 真理ちゃん達と連絡が取れないんですけど、どうなってるんですか!?」

「なにかあったんですか!?」

 先生は、今まで見たことも無いような真剣な顔で言葉を返す。

「そのことですが…今、学校に来ていない生徒…四方傑君、川勝健君、並河鈴音さん、森津文香さん、花崎真理さんの五名は全員…休学しました。」

「「「「えっ…」」」」

「詳しいことは、まだ伝えられません。皆さんは、学業に専念してください。」

「なんだよそれ!」「真理はわかるけど、なんで鈴音や健君まで!?」

「先生にも、何も伝えられてないの! 私だって不安よ!」

 新妻先生は、辛い表情で叫ぶ。

その表情を見た生徒は、ただ事ではないと思い、言葉を飲み込んだ。

「私だって、わけがわからないわ…みんな、突然休学だなんて…」

 その時俺の脳に浮かんだのは、あの時の真理の言葉だった。

――――ゆうちゃんは全て失う。友達も恋人も全部

「そんな…ここまで……なのか…」

 失うということは、消えるということなのか。

 誰も納得できないままに、不穏な二学期が始まった。


 学校は初日だったということもあり、三限で終わった。

 人生で一番長い三限を終え、クラスメイトの視線を浴びながら一番に教室を出る。

「待って、滝川君!」

 妃那さんに後ろから呼び止められた。

「何が…起きてるの?」

 妃那さんは、不安そうに顔を歪めて聞いて来る。

「俺が聞きたいよ…」

 本当に、俺が聞きたい…

 俺は、妃那さんに背を向けて走る。流石に、二度は止められなかった。


 息を上げながら家に帰ると、玄関口に白い封筒が落ちていた。

 それは、あの日の封筒によく似ている。

「これ…は?」

 後ろをひっくり返し、宛名を確認する。


―――並河鈴音


「えっ!」

 慌てて封筒を開け、中の白い便箋を取り出す。

中には、まるで別れを告げるかのような文章。そして、チケットが一枚。

『世界音楽クラッシック、ヴァイオリン部門』

「どういう意味だ…考えろ…」

 確か鈴音は、幼少期、俺が強引に演奏を止めたあの日から、ヴァイオリンを弾くことを止めたはずだ。横に住んでいて、一度もヴァイオリンの音を聞いたことがないし、何より、あれ以来ヴァイオリンの話を聞かなくなった。なら、なんで、鈴音からヴァイオリンのチケットが届く? それに、この文面じゃまるでお別れを言ってるみたいじゃないか。それは、やっぱり、俺が不甲斐ないから…。マイナス思考になるな、何か見落としてる。お別れを言うだけなら、チケットは入れない。なんで、俺をこの場所へ連れて行きたいんだ…

 そこで俺は気付く。

――――手紙を読んで。 指定の場所へ。

「あの、手紙! こういうことか!」

 チケットの開演予定時刻は、今日の午後三時から。場所は、空港の近くの大ホール。

 ここからなら電車で二時間くらいか。今は、午前十一時半。まだ間に合う。

「とりあえず…行こう!」

 俺は、駅に向かって走り出した。


 最寄り駅まで走って10分ほど、俺はすれ違う人に不審な目で見られるのも気に留めずに足を回し続けた。

ちょうど、改札をくぐると、電車が出るところで、必死にまた駆けて電車に乗った。

息を整え、一番端の空いているボックス席に座る。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 整わない。息が。心が。まだ、自分のやっていることの意味が解らない。俺は、そこに行って何をすればいい? 何が起きる? 何もかもが真っ暗な霧の中だ…なんだよ、今までありがとうって…勝手に俺たちの関係終わりにしてんじゃねぇよ! 俺はまだまだ、鈴音と一緒にいてたいんだよ! 遊びたいんだよ! なんで、そんな急にいなくなって別れようとするんだ…!

 回り続ける思考は全て、真理の言葉に行きついてしまう。もう、昔の自分とは違うから。

 手紙に書かれていた自分は、まるでヒーローのようだった。いや、実際に鈴音にとってはヒーローだったのかもしれない。でも、今の俺に同じことが出来るかと言われれば無理だ。

 ガラスを割ったら弁償しなくちゃいけない。ひょっとしたら鈴音は迷惑に思うかもしれない。俺がそうすることで、鈴音の未来を変えてしまうかもしれない。そんな可能性を考えて、少なくともガラスを割って迎えに行くなんてことはしないだろう。でも、鈴音達が求めるのは、見ているのは、望んでいるのは、今の俺ではなく…昔の自分。馬鹿で無鉄砲で、破天荒で無茶苦茶。他人の都合なんて考えず、自分勝手に突き進む。

「あの頃に戻れってか…無理だよ…俺はもう、そんな子どもじゃないんだ…」

 きちんと考えて行動するのが、大人になるってことじゃないのか。


 二時間はあっという間に過ぎた。見たことも無い土地に降り立ち、同じ町の中のはずなのに、遠い国に来たかのような気分だ。

「えっと、こっちか…」

 人が行き来する大きな駅で、駅員さんに行先を聞き、その通りに改札を出てい行くと、真正面にクジラのような形をした、大きな建物が見えた。

「あれが、会場…」

俺は、開演時刻を過ぎていることに気付いて今日、何度目かわからないダッシュをした。


会場に着くと、係りの人に呼び止められた。

「チケットはお持ちですか?」「あっ、はい」

 手に持っていたしわくちゃのチケットを渡す。

「関係者の方だったんですね。入り口は、私が案内します。」

 赤いホテルマンのような服を着た係りの人は、正面入り口からぐるりと回って、左の方の小さな入口まで連れて行ってくれた。

「ここから入って、真っ直ぐに歩いていくと、一つだけ空いている席があるはずなので、それが、あなたの席です。」

 中の音が止むと、扉をゆっくりと開けられ、会場の中に入る。

どうやら、最前列の左側の扉だったようで、かなり目立つ。拍手が会場を包む中、俺は腰を低くして空いている席を探す。するとそこは最前列のど真ん中の席だった。

 周りを見渡しても、誰も知り合いらしき人はいない。というか四十代ぐらいの人ばかりだ。

「次の演奏は、日本より、風間緑さんです」

 知らない人の名前の綺麗なドレスを着た細身の女性が出てきて、静かにお辞儀。ヴァイオリンを構える。

 弦に弓を当て、演奏が始まった。その途端、空気が変わる。静かに、ゆっくりとした音色を奏でていたかと思うと、別人のように激しく、明るい音色を奏でる。表情は変わらないものの完璧に演奏しているといった印象。普段、クラッシック音楽を聞くことの少ない俺でも、この人の凄さは十二分に伝わってくる。

耳が二つしかないのがもったいない。瞬きするのも惜しい。一分一秒でも長く聞いていたい。

そんな風に思っていると、あっという間に演奏は終わった。

思わず、立ち上がって拍手してしまう。それは俺だけではなく、会場全体がそうだった。

これを超える演奏ができる者が、この世にいるとは思えない。彼女も最後は満足そうな顔でお辞儀をして、会場を去って行った。

「次の演奏は、イタリアより、並河鈴音さんです」

「えっ…」

 司会の声と共に、真っ黒なドレスを着た鈴音が舞台袖から現れる。黒くさらさらとした髪をなびかせ、いつもは見せない美しいとしか形容できない大人らしい表情ですっと立つ。

 会場に向けてお辞儀をすると、それだけでスタンディングオーベーションになる観客たち。横に座ってるおじさんなんかは、姿を見ただけで泣いている。

「そんなにすごいんですか、あの人?」

「君、ここに来ていてそんなことも知らないのかい? 彼女は、世界的にも有名な並河の娘で、数々のタイトルを取ってきていた。だけれど、ずっと仮面を着けていてその正体を隠していたんだ。今日、彼女の麗しい姿を一番早く見ることが出来て私はとても幸福だ…」

「仮面をかぶって…」

 つまり、鈴音は正体を隠して発表会に参加していたということか…?

そんな俺の思考も知らず、鈴音は涼しい笑顔を浮かべて、弦に弓を触れ、静止する。

 数秒ののち演奏が始まった。最初のフレーズでもう異変に気付く。

「さっきの人と全く同じ曲…」

 会場もざわついている。どうやら、全員が同じ曲をやるわけではないようだ。

 しかし、さっきの人とはまるで演奏が違う。質が違う。正確なリズムセンスと絶対に外さない音感。それを持っていながら、あえて音を弾ませたり、沈ませたりする。

「音で感情を表現してる…」

 俺にはそう見えた。鈴音の表情が笑ったり、むっとしたり、寂し気だったり、いつもと変わらない鈴音を音で表現している。

嫌味の無い完璧な演奏だった。

演奏が終わると、鈴音はいつもとは違う大人の表情を浮かべて、お辞儀をする。

会場は再びスタンディングオーベーション。横のおっさんは、手が割れるんじゃないかと思うほど拍手していた。

その後も、何人か演奏したけれど、鈴音の後と言うこともあり、場に飲まれて上手く演奏できないといった感じだった。

全員の演奏が終わると、演奏者全員が出てきて、表彰式が始まる。

「今回の最優秀賞は…」

 鈴音であって欲しいという思いと、鈴音であるなという思いが俺の中に同じぐらい渦巻く。これ以上遠くに行ってほしくないと思ってしまう。そんな自分が嫌だ。

「並河鈴音さんです。おめでとうございます」

 会場がどっと沸いた。おっさんは「私は偉大な瞬間に立ち会った」とまた泣いている。

「おめでとう、鈴音」―――どうしたんだよ鈴音。

 鈴音は、透明な縦長のトロフィーを受け取ると、インタビューに応じた。

「いい意味で子どものような演奏でしたね」

「ええ、この題目ではあえて子どもらしさを出した方がいいと思ったので」

「綺麗な言葉使いもできるんだな」―――いつもの関西弁はどうしたんだ。綺麗な喋り方は苦手だって言ってたじゃないか。

「題目を風間さんと被せてきていましたが何か意図はありましたか」

「風間さんとの解釈の違いを楽しんで貰えたらなと、父と相談してこの曲に決めました」

 ―――遠い、遠すぎる。本当にあそこにいるのは鈴音なのか?

「皆さん気になっていることだろうと思いますが、なぜ十歳から復帰し、しかも仮面を…」

「ある、準備のためです。その、準備が整ったのでもう仮面はいらなくなりました」

 ―――ある準備って何なんだ? 今のこの状況が?

流石にそれは考えすぎだ…

「な、なるほど。最後に何かコメントはありますか?」

 鈴音はちらっと俺の方を見て、静かに笑った。

「演奏をこれほどたくさんの人に聞いて貰えて幸せでした。これからの、ゆうちゃんうちの勝ちやで私の活躍にご期待ください。」

「えっ…」

 鈴音は早口で『ゆうちゃんうちの勝ちやで』というメッセージを言った。多分、他の人にはそんなちゃんと聞こえなかっただろう。でも、俺には届いた。

「真理と同じセリフ…」

 鈴音や真理は俺をどうしたいんだ。ただでさえ、昔のお前に戻れと言われたというのにこんなにも凄い特技を見せられて、俺はまだ友達でいれるのだろうか。…違う、あいつらは、俺と自分たちの差を見せつけたいんだ。俺に「もう、近づいて来るな」って言いたいんだ。

 項垂れていると、いつの間にか観客たちは帰っていて俺一人会場に取り残された。

 誰もいないステージを見つめる。すると、舞台袖から黒いドレスが現れた。

「どやった? うちの演奏」

「完璧だったよ」

 俺は、笑いながら言う。

 それを聞いた鈴音は満足そうに笑った。

「そうやろうそうやろう。もっと褒めろ! はははは!」

 豪快な笑い方はいつも通りで、そのいつも通りが逆に俺を傷つける。

「…なんで急にいなくなった。他のみんなは? お前は今どこにいるんだ…」

「…辛気臭い顔してんなぁ。『約束』では、うちからはなんも言えんことになっとるんや。ほら、次はそいつの番やで」

 ステージの上から、白い手紙をシュッと投げられる。

俺はそれを掴むと、宛名を確認した。


―――川勝健


「次は健か…」

「聞いて驚け、武道館や! 学校には欠席届は出してある。なんと、健の手紙には航空チケット、電車賃、ホテルの宿代が入ってるらしいで~羨ましいなぁ」

 武道館ってことは、音楽関係か…全然想像もつかないな…。…いや、待て。確かゲームセンターの時、何か…あれは確か、ドラム?

 そんな風に考え込んでいると、鈴音は舞台袖の方に歩いて行く。

「ほなな、ゆうちゃん。気張りぃや~」

「待てよ鈴音!」

 俺はステージの上に、昇ろうとする。

「入るな!」

 しかし、鈴音に激しく怒鳴られた。

「なっ…」

「そこに昇れるんは努力した人間だけや! ゆうちゃんが入ってええ場所やない! あんたに今できる最低限のことは、手紙読むだけや!」

 鈴音は見たことも無いような怒りを露わにし、舞台袖に足早に消えていった。

 絶望のさなか、俺に今できることは何か考える。

 このまま鈴音に行かせてしまっていいのか。

「手紙! 読んだぞ!」

「えっ…」

「ありがとうは俺の方だ! お前といれた毎日は最高だった! 毎朝一緒に登校してバカやってた毎日は最高だった! なのに、なんで俺の前からいなくなっちまうんだよ! なんでなんだよ鈴音! 頼むから、もう一度…なぁ…」

「その答えじゃ、不完全や…でも、気持ちは嬉しかった、ありがとう。大好きやで…」

 鈴音は、涙を浮かべながら辛そうに笑って、舞台袖に消えていった。


 それを追いかけることも出来ず、とりあえず会場の外に出た。

 駅の改札近くで、手紙を読む。

 また、別れを言うような内容。それに…

「交通事故…!」

 あの、傑を助けた日健が交通事故にあっていたなんて…。だから、あの大会の怪我が致命傷になったのか。

―――お前だけの責任じゃねぇよ

もし、健がこのことを言っているなら、それも俺の責任じゃないか。だって、指示を出したのは、幼い日の俺だ。あいつがなにか感じる必要はない。何も引け目に思う必要はない。

「とりあえず行くか…武道館!」

 俺は、足を航空の方に向けた。


 飛行機に乗るのはいつぶりだろう。中学校の修学旅行で乗った以来だろうか。空の旅を満喫したいところだけれど、ちょっと、疲れたな。…それにしても、鈴音の演奏は凄かった。ほんと、昔の俺と比べても鈴音の方が断然すげぇよ。今の俺と比べたら尚更…。

 考えても答えは出ず、やがて意識は暗く落ちて行った。


「羽田空港に到着しました」

 肩を揺すられ目を覚ます。いつの間にか眠ってしまったみたいだ。

 ありがとうございます、と頭を下げて飛行機から降りていく。

時刻十一時。そこから、道に迷ったり、電車を乗り間違えしそうになっていたら、ホテルに着いたのは、朝の二時すぎだった。

手紙の中に詳細に、電車の乗り方や、ホテルの名前、部屋番号まで書かれていて、とことん用意周到だ。いったい、いつからこの計画を考えていたのだろう。俺の知らない所で…。

ビジネスホテルの端っこの部屋で、何も考えずとりあえず眠った。七時間後には、俺の体は武道館の中にいなくちゃいけないのだから。


…いまいち寝付けないまま朝を迎えた。ここから武道館までは、確か徒歩三十分。

歯磨きをして、朝のバイキングを食べて、髪の毛を適当に整えてから出発した。


武道館の前には、長い列が出来ていた。なんで席が決まっているのに並ぶのだろうと思ったらグッズ販売とかがあるかららしい。朝早くから、大変だなと思いながら列に並ぶ。

ケータイで、情報を仕入れていると、『SDO』というバンドのライブらしく、今日はいつも着ぐるみを着ながらドラムを叩いてたやつが、着ぐるみを脱ぐとのことで、チケットの倍率が異様に高かったのだとか。俺の手元にはその倍率の高いチケットがあるわけだが。

そして、チケットをよく見ると丁寧にも関係者と書かれているわけで、また係りの人に呼び止められて、また最前列の席へ。なにも分からないまま、突然会場が暗くなって、頭上のスクリーンで、カウントダウンが始まる。

『10…9…8…7………0』

その後、有名な曲名が、スクリーンに現れ、バンドメンバーが一人も現れないまま演奏が始まった。心地いい男性ボーカルの声、正確無比なベース、難しいコードを難なく弾いて見せるギターが織りなす名曲は、よくデパートなんかで流れている曲だとすぐに分かった。だけど、おかしい。ドラムの音だけがない。

すると、曲のサビで突然音が切れる。そして、ドラムの激しいリズムが突然会場を包む。

青、赤、緑…様々な光の光線が、会場を駆け回り、次第に一点に集まっていく。会場の中心。そう…健の元に。

白い光で照らされた健は、いつもよりも激しいリズムでドラムを叩く。会場中が湧いた。

その声の圧力は凄いものだ。これ、全部健に送られてるんだよな。やばいな…健。これがお前のカリスマ性か…。

かっこいいだの、こっち向いてだの、そこら中から聞こえてくる。

「やったじゃねぇか…モテモテだぞ…」

 健の実力は、ゲームセンターの時に何となくわかった。あれだけの観客を惹きつけるほど、完璧なリズム感とパフォーマンス力。それを、存分に発揮したこのライブは健が主役の、健だけがスポットライトを浴びているかのようなライブだった。


 唖然としている内に、観客たちはいなくなる。祭りの後の静けさ。

 大きなため息をついていると、突然またあの時のカウントダウンが始まった。

『10…9…8…7………0』

 カウントダウンが終わると同時に床下から、健が現れる。

 バンドの時の格好(黒のTシャツに、黒のズボン。黒いブーツ。黒尽くし)のままだ。

「これが、俺の見つけた陸上に変わるもんだ。すげえだろ?」

「…ああ。すげぇな。」

 健はいつもと変わらない軽い調子で言う。でも、その圧倒的な差からのいつもは逆に現実を突きつけられているような気分になる。

 俺は、鈴音の時と同じような事しか言えない。

「手紙に書いたとおりだ。これで、お前は走れるか?」

「走る…?」

「いや、なんでもねぇ。次は傑の番だ。」

 鈴音と同じように、健は白い手紙を投げた。

俺はそれを掴むと、中を開く。今度は、映画の先行上映のチケットだ。

「まぁ、疲れてるとは思うけど楽しんで来いよ」

健は、踵を返して会場の奥の方に歩いていく。

「なぁ! 事故があったって本当か!」

健の足が止まり、振り向く。

「ああ」

「ならやっぱりそれも!」

「ちげぇ! あの事故が無かったら、俺はここに立っちゃいねぇんだ! 何でもかんでも悪く考えるな! 責任を負うな! 俺はこうしてここに立ってる! …俺の勝ちだぜゆう!」

「なっ…」

「言うことがないなら、ここまでだ」

 俺は、固まっていく思考の中、必死に自分を奮い立たせた。

今、ぶつけるしかない。そうしなくちゃ、俺は一歩も動き出せない。健に全部ぶつけるんだ! 疑問も悩みもなにもかも!

「待てよ! お前らは何がしたいんだよ! こんなことして、俺の前から消えて! そんなに今の俺といるのは嫌なのか! それとも、何か理由があるのか!? 教えてくれ、健! 俺に何が足りないんだ! 昔の俺と、今の俺は何が違う! 俺が大人になっただけじゃないのか!?」

「そんなことにも、気付かねぇのか…」

 健の語尾に、怒りの色を感じた。

「おめぇは、そんなことにも気づかねぇのか…がっかりだ…」

「わかんねぇよ、全然…全然わかんねぇ!」

 健は二度と振り返ることは無く、会場の外に消えていく。

俺はまた情けない顔で、幼馴染みの背中を見送ることしか出来ない。


 昨日泊まったホテルで、同じ朝を繰り返す。

 昨晩はまた、寝付けない夜を過ごすかと思ったけど、案外よく寝むれた。やっぱり疲れていたのだろう。

眠気眼で、ケータイのニュースを見ていると『SDOのドラムが姿を現す! その凛とした姿にファン魅了!』という記事が見つかった。内容を読むと、やはり鈴音と同じようなコメントを残していた。

「準備が出来たので、もういいかなと。あとは、年齢隠したかったからすかね」

 俺は、億劫な気持ちで記事を閉じた。

 

 適当に身支度をして、チェックアウトする。三食とも用意してくれたこのホテルには、感謝しなくちゃいけない。うまかったぜ、ありがとう。

 ホテルから、五分くらいの駅で電車に乗り、一駅。サンフランシスコ通りに似た街並みの所を歩いていくと、その劇場は見つかった。

劇場に着いたのは、十時頃。

開演まであと一時間ぐらいあったので、劇場の外で封筒の中の手紙を読んだ。

「見守っていてください…か」

 どんなことが、待ち受けているのかさっぱりわからないまま俺はとにかく劇場の中に入った。

先行上映が始まる時間までまだ時間はあったので、俺は、真ん中あたりの席に座り、上映時刻を待った。

時刻が来ると予告が始まり、本編へ。

映像が流れると、よく知った子ども向けアニメの劇場版だとすぐに分かった。

黄色い電気を放つ生物が、少年と旅をする話。

劇場版のオリジナルキャラで、伝説の怪物『ダークロウ』を抑える力を持つ、巫子と名乗る少年が出て来た。

巫子の透き通るような声は、聞いててとても心地よく、ずっと聞いていたくなる。

巫子は、自分の力を使うことで他人を傷つけてしまうことを恐れていたけど、怪物が目を覚まし、町を次々崩壊さして行く様を見てられず、自分の力を使うことを決意した。

見事に怪物を抑え、崩壊寸前の町を守り、巫子は自分の役割を果たす。力を使い切ってしまった巫子は、「今までありがとう」と言って、怪物と共に空に去っていく。

そういう内容だった。映像や音楽の演出も感動を誘ういいもので、大人でも楽しめる内容だったけれど、傑がこの映画に誘った真意は読めない。

会場が明るくなると、メインキャストが次々と舞台袖から現れた。

 その中には、傑の姿もある。

会場が拍手で包まれる中、一人一人舞台挨拶が行われる。

大トリの傑は、緊張した様子も無く堂々とコメントした。

「今回の映画は、巫子の成長がどうしてもカギになってくるので劇場に来てくださった方には、自分が巫子だったらどうするかなと考えて見てもらえたらなと思います。」

 もし、俺がこれだけの人を前にして、あんなにスラスラと言葉が出て来るだろうか…。やっぱり、傑も『持ってた』んだな…。俺には………何もない。

コーナーは移り変わり、舞台あいさつからインタビューへ。次々とキャスターのお姉さんが重役声優にインタビューをしていき、最後に傑の元にマイクが渡った。

「最後に、今回の映画の主役、巫子役を務めた四方傑さんに話を聞いてみましょう」

「よろしくお願いします」

「あれほどの演技力を持ちつつも、主役は初めてだそうですね。」

「はい。僕は元々英論スピーチが本業です。段々洋画の声優のお仕事を貰えるようになって、今回は未熟ながらも、このような大役をやらさせていただきました」

「なるほど、元は洋画の声優さんだったんですね。そのような素敵なルックスを持っているのでしたら、今後俳優の道へ…なんてこともあるのでは?」

「そのような話も来ているのですが、僕に演じれるか不安なので申し訳ないですが先送りにさせていただいてます。」

「残念です! また、テレビの中でお会いできるのを楽しみにしています。以上、『ダークロウと巫子の秘密』メインキャストインタビューでした! 皆さんありがとうございます!」

「「「ありがとうございましたー!」」」


 会場がはけた後、また俺は例によって座ったままでいた。

 傑は最後の客と入れ替わりで入って来て、舞台の上に立つ。

 スッと深呼吸をして、傑は、いつもより透明感のある声で、大きく叫ぶ。

「僕は…なんて無力なんだ! 巫子の力を使えないで、ただ立っていることしか出来ないのか…! このままじゃダメだ! 僕がダークロウを止めなくちゃ!」

 傑は言い終わると、満足そうに笑った。

「僕の、女形としての経験が生かされたんだよ…凄い、でしょ?」

「ああ…すげぇな……!」

 あれだけ、苦しい思いをした傑の過去は、無駄にはならなかった。全部ちゃんと、傑の血として体に流れて、新しい道を切り開く力になった。人より美しいからと、色んな思いを向けられ、苦しみ、背負い、拒んだ毎日がまさに報われた瞬間だった。

 そのことを思うと、俺の瞳から感情が溢れ出ることを止めることなんてできなかった。

「ほんと、良かった…お前の想いが全部、報われて…本当に良かった」

「ゆうちゃん…」

 傑の目にも涙が浮かび、今にも泣きそうだ。

 でも、傑が泣くことは無かった。首を振って、目に覚悟を宿して笑う。

「ゆうちゃん……僕の勝ちだよ」

「えっ…」

「あの頃の弱い僕とはもうさよならだ! だからもう、ゆうちゃんは必要ない! 僕は僕一人で生きていける! …さようなら」

傑は最後に、にこっと笑って、劇場の外に消えていく。

 ダメだ、行ってしまう。何か言わないと。

 何とか傑を止めようと、大声で叫ぶ。

「俺は!」

 傑の足がピタッと止まった。

「傑の思いが実って俺は嬉しい。けど、置いて行かれるのは嫌だ! あの楽しかった日々に戻れないなんて嫌だ! 俺はどうしたらいいんだ傑!」

「その答えは、初めから解ってるはずだよゆうちゃん…ここに手紙挟んでおくね」

 傑はいつも通りの口調で少し寂しそうにそう言って劇場の外に出て行った。

「だから、なんだよそういうの……ちくしょう!」

 俺は何一つ伝えられないまま、わからないまま、大切な人をまた一人失ってしまった。


 手紙の中には、今日の午後六時まで空いている都内の美術館のチケットが同封されていた。美術館のことは誰でも一度聞いたことがある名前で、ここに絵を飾れるというだけで、画家は泣いて喜ぶらしい。今回の展示はあと三日で終わるらしい。

「そうか、ここに文香の絵が飾られてるのか…」

 今回の手紙にはホテル関係の指示は無く、このままいけということだろう。なすがままか。と思いながら、心を無にして美術館に向かう。

バスを乗り継いで美術館に着くと、大量の行列大きな立て看板が見えた。

『森津文香美術展』

 もう何が来ても絶対に驚かないと思っていた俺は、驚愕した。

 まさか、絵が一枚飾られてるとかじゃなくて、この建物全部に文香の絵だけが展示されているというのか。しかも、なんだこの行列。あと、一時間で閉まるぞ。初日じゃないか。まだあと二日もあるんだから諦めればいいのに。

 茫然と立っていると、突然後ろから引っ張られた。

「ゆうちゃん…こっち」

 いつもの制服姿にベレー帽を被った文香の姿がそこにはあった。

「文香!?」

「しー…いいから…こっち」

 文香は、美術館の反対側に連れて行き、関係者以外立ち入り禁止の立て看板のかかった裏口から俺を案内した。

「あっちは…人多いから…ゆうちゃん…絵を見るのは…閉まってからね」

「わ、わかった…」

 俺は、最上階までエレベーターで連れられ、最上階の個室で丸机一つ挟んで向かい合った。

「と、とりあえずこんにちは…か?」

「うん…こんにちは…」

 文香は、にこっと軽く笑った。

ベレー帽をかぶっているせいかいつもより一段と可愛く見える。

「す、すげえな。お前の絵」

「うん…ゆうちゃんが…見てみたいって…言ったから…頑張ったんだ」

 文香はベレー帽を被ったまま、先の尖がった部分を回しながら話す。

「俺が…文香に?」

「うん…初めて…会ったころ…お前の見てる世界見て見てぇ!…って」

 文香は、俺のモノマネを活き活きとしながら話す。相変わらずの姿に心が和む。

「ははは! そう言えばそんなこと言ったな! でもまさか、ここまでになるとは思わなかっただろ?」

「私も…よくわかってない…すぐちゃんが…『せっかくなので、色んな賞に応募してみましょうよ! 文香さんの世界は素晴らしいんですから!』(モノマネ)…って応募して…そしたら…沢山の…賞…もらうように…喋り…つかれた…」

「あっ、ごめんごめん! いっぱい喋ってくれてありがとうな!」

「ううん…ゆうちゃんと…話すの…面白いから…」

 文香はまたにこっと笑う。可愛すぎて抱きしめたいくらいだ。

 すると、ノックする音が聞こえて、係りの人が入って来た。

「文香さん。お客様の皆さんお帰りになりました。もう、誰もいませんよ」

「うむ、ごくろう!」

 文香はドスの利いたきっとやくざのマネで、そう言って係りの人を帰す。

「じゃあ、…いこっか」

「お、おう」

 俺は文香に連れられるまま、一階に降りた。


「…すげぇ」

「これ…全部…写真を…書いただけ」

 見たことは無いけど、知っている遠い国の町の風景。

 パステル調の青い街道。夜の色が不思議と白で描かれていて、月が薄い紫色。街灯は、ほとんど色の無いピンクで周りを照らし、建物は薄い緑色で描かれている。

 他の絵も、不思議な色のものばかりだ。

 青い太陽、肌色の海、赤い向日葵に、ピンクの猫。黒い森や、黄色い空。

 不規則で、不可思議。だけど、規律もルールもある、心地いい世界。

 体中に電撃が走る。絵の事なんてなにも分からないけど、完成されたものだとわかる。

「これが、文香の見ている世界…」

「どう…気持ち悪くない?」

 文香は今にも泣きそうな顔でそう言った。

 俺はぎゅっと抱きしめる。今までの悩みはこの時一切頭に無かった。

「気持ち悪くなんかない…お前は本当に世界が綺麗に見えてんだな…俺はお前が羨ましいよ、お前だけが持つ最高の世界があってさ」

「本当に…本当?」

 文香は、不安げに言う。

「当たり前だ! 俺だけじゃねぇ! ここに来たみんながそう思ってる! みんなお前の見ている世界が見たくて、ここに来たんだ! 誇りを持っていい! 誰がなんて言おうと、お前の絵は、お前の世界は、この世で一番すげぇんだ!」

「なら…いいな…ありがとう…ゆうちゃん………大好き」

文香は俺の体を強く抱きしめ、子どものように泣いた。

文香が泣くのは初めて見た気がする。ようやく、文香は泣けたんだ。

自分の納得いく形で、誰かに認めてもらえて、ようやく自分を認めることが出来たんだ。

長い、長い旅だったんだな…文香。親に認めて貰えず苦しんで、みんなと違うことに苦しんで、ようやくここまで来れたんだな。

俺は美術館の奥の方に目をやると、そこには親子というタイトルの大きな絵があった。

そこに書かれた絵を見て俺は、もう涙が止まらなかった。

そこに書かれたのは、手を繋ぐ母と父の姿。その間に文香の両手が繋がり笑いあっている。しかも、その絵だけ『俺が見ている世界と同じ色』で書かれていた。

必死に家族に近付こうとした、文香の書いた絵。文香には恐らく正しい色で映されていない。相手を思いやる心だけで書かれた絵。こんなものを見せられて泣かずにはいられない。

「ほんっとう、に…ほんとに、お疲れ、さまっ! 今っ、まで…今まで、大変だった、な!」

 泣きながら喋る俺は、息が上手くできなくて言葉が詰まってしまう。

「うん!…うんっ!」

「お前の、心っに、気付いてやれなくて、ごめん! こんなに、こんなに傷ついていたのに、何もできなくって、ごめん! なにかもっ、ごめええん!」

「…手紙の…通り…ありがとう…ありがとう、ゆうちゃぁああん!」


俺らの涙はしばらく止まらなかった。


 涙も枯れ果て、気付けば俺達は抱き合ったまま寝ていた。

 あたりの電気は点いたままで、時刻はよくわからない。

 時計がないかと上を見上げると、天井に絵が飾られていることに気付いた。

「あれは…」

 色は文香カラーで、不思議な感じ。でも、俺はあそこに描かれている人を良く知っている。

 真理、鈴音、傑、文香、俺、健の順番で海岸から夕日に向かって歩く絵。

 みんな、横を向いて笑っていた。

「私の…一番の…絵」

「ああ、みんな笑ってる…」

 まるで、花火を見たあの日のような笑顔だ。

「でも、もう元には戻らないのです。」

 文香が、突然飛び起き、流暢に喋り始めた。

 なぜか、目がきらきらと輝き、いつものやんわりとした雰囲気が消える。

「えっ、突然なんだよ文香」

「文香、お喋りモードです。」「えっ、お喋りモード?」

「喋らないといけないとき、文香は喋るんです。」「そ、そうだったのか?」

「まず、ゆうちゃん!」

 テキパキとした動きで、俺を指さす文香。

 俺は釣られて背筋を伸ばす。

「は、はい!」

「私の勝ちなのですよ、にやり」

 文香は、あざ笑う表情を作って言った。

「まぁ、これだけのもの見せられたら返す言葉も無いな…」

なんの前触れもなく言われ、茫然と納得するしかない俺。

「そして、世界のみんなに受け入れてもらった今、私にゆうちゃんは必要ないのです! さよなら、私に必要ナッシングなゆうちゃん!」

「えっ、いきなりそうなるの!?」

「いきなりそうなるのです! それでは、失礼します!」

「い、いや! ちょっと待てよ!」

「今日一日だけで、七千を超える褒め言葉を頂いたわたくしに一体どういったご用件ですかな? みすたーゆう?」

 また何とも言えない顔で振り向く文香。

 このペースに巻き込まれたままでは、何も分からないままだ。

 何とか俺は真面目に聞き返して、自分のペースに持っていこうとする。

「何がどうなってんだ? 計画がどうとか、準備がどうとか、約束がどうとか…全部わかんねぇんだよ、教えてくれないか?」

 すると、文香は「ちっ、ちっ、ちっ」と言って人差し指を振る。相変わらずノリノリだ。

「それは出来ない相談ですな、みすたーゆう。その答えは真理ちゃん以外から聞き出すことは出来ないのです。残念。他を当たりな、みすたーゆう」

「じゃ、じゃあ次俺が行くところは真理の所なのか?」

「いえいえ、それも違いますな、みすたーゆう。YOUの行くべきところは、スクールなのですよ、みすたーゆう。」

「が、学校? その理由は手紙読めばわかるのか?」

「手紙? なんのことやら。私の手紙が最後なのですよ。もう、手紙はないのです」

「えっ…」

「ゆうちゃんは見事、ミッションをクリアして、手紙を全て集めた…のです…後は…自分で…頑張るしか…ない…ヒントは…もう…出そろった…うう…もう喋れない…さようなら…」

 文香のきらきらとした目は、言葉の間が開くにつれて、とろんとしていき、いつもの脱力感溢れる文香に戻った。

 文香ともこのまま…お別れということだろうか? いまいち、実感がわかない…。今の一部始終全部ギャグなんじゃ…。

 文香は、突然思い出したように足を止め「あっ…最後に…」と言って言葉を続けた。


「…今まで…ありがとう…ゆうちゃん、大好き」


 かすれ気味の声で、にっこり笑って、美術館の外に消える文香。

 その笑顔は全てが真実であることを、現実に引きづり込みながら、俺に伝えた。

「待っ…」

 ダメだ。文香でも、答えは同じ。幼馴染みの共通意識として、今の俺を受け入れないという考え方がある。今のままの俺が行ったところで、鈴音や健、傑のように振り払われてしまう。今の自分を変えなくちゃいけない。俺に残されたヒント。与えらえた最後のチャンス。

「とりあえず、学校か…」

 俺はまた、みんなのいた町に戻る。全てを取り戻すために。

 

 帰りは、タクシー、電車、空路、タクシーという贅沢極まりない帰宅ルートだったけれど、それでも約八時間くらいかかった。家に着いたのは、朝の四時。母さんも流石に「今日は学校休め」と言ってくれたので、しばしの休息。

 自分の部屋で寝転がり、天井を見上げる。そして、思い出す。みんなの言葉と特技。

「今の俺だからこそできること…」

 昔の俺は無鉄砲に走り回ることしか出来なかった。でも、今の俺は違う。今の俺は考えて行動することが出来る。次に何が起きてどう危険で、やるべきかそうではないかがわかる。このわかるが増えていくことが大人なんだ。だから、今の俺。大人の俺が出来ること。

「鈴音はヴァイオリン。健はドラム。傑は、声優。文香は絵か…」

俺が今から頑張って彼らに認めてもらうにはどうしたらいいだろうか。

みんなが積んできた努力の数は、恐らく俺の想像を絶するだろう。だから、今までずっとやってきていたことじゃないといけない。となると…。

俺は、部屋を見渡す。そして、ギターを手に取った。

 曲がりなりにも、三年間やって来たギター。これより、長い時間やって来た特技なんてない。それに、健や鈴音、真理のように舞台の上に立てる物なんてこれしかない。

「とりあえず、バンドに入ろう」

何かから逃げている。そんな感覚を抱きつつも、街に繰り出した。


 あらゆるSNSを駆使して、ギター片手に色んなライブハウスや、大学、高校に行って、俺を必要としてくれる人を探した。

「お願いします! 俺は何が何でも武道館に行かないといけないんです! 練習は死ぬ気でやりますんで! お願いします!」

 そんなことを言って回り、断られ続け、夜になったころ。突然、メールで「一回話聞くから来い」と言われた。

 うわ、これ絶対やばいやつだ。と思いながらも、俺は指定された場所に行って、慣れたセリフを口にした。

「へーそんなやる気あんの? なら、うちに来なよ。粗削りだけど、こいつらいい音出すぜ」

 すると、いかつい、メイクをした同い年くらいの女の子にオッケーを貰えた。

「あ、ありがとうございます!」

 俺は、後先考えずに行動した結果、何とかバンドに入れたのである。

 バンドメンバーは、AYA(誘ってくれた女子、ボーカル)KON(同い年くらいの女子、ベース)FUZI(同い年くらいの男子、ドラム)YOU(俺、ギター)の四人。バンド名はなんか可愛いので『あやこん』に決まり、本格的に始動。夜に怪しい地下室でライブをするので、昼間は自由時間。深夜に集まって練習することが多く、お互いの素性は全く分からなかった。

 朝は、新妻農園で妃那さんと農園の手入れ。授業中はなるべくコードを覚えることに費やし、放課後は家に帰ってギター練習。夜は、地下のライブハウスで演奏(もちろん、自分でも誰かわからないメイクをしている)をしたり練習したり。その毎日のサイクルの中で、段々自分が上達していくのを感じた。

 次第に、鈴音たちが味わっていた、舞台の上の景色を覚え始めていく。

 自分の演奏が上手くなれば、観客のボルテージの上がり方が全然違う。

 ファンという人も増え、自分のフォロー数もどんどん上がっていく。

 気持ちいい。いつか絶対、このメンバーで武道館に行くと本気で思っていた。

 この日までは。

深夜。いつも通り、よくわからない化粧をして、地下のライブハウスに入って行く。

「今日もやるぞ! 野郎ども!」

「誰が野郎だ、バカ!」

 どすの利いた声でAYAに頭を叩かれ、他の二人に笑われながら、会場の脇に立つ。

 ギターの演奏が上手くなっていくと、バンドメンバーとの関係も上手く行くようになり、音楽が合うようになってきた。批判的な事を、熱く語ってくれるボーカルのAYA。俺のミスをさり気なくカバーするKON、時々勝手なアレンジを加えるけど、いつもリズムを楽しく生み出してくれるFUJI。滅茶苦茶なメイクだけど、使う言葉は雑だけれど、俺は何となくこいつらといるのが好きになっていた。

 前のバンドの、演奏が終わると、俺らはいつも通り円陣を組んで、舞台の上に立つ。

 ドラムのFUJIが、スティックを鳴らし、演奏が始まるはずだった。

「ちょっと待ちぃや!」

 地下室の扉が開け放たれ、黒シャツ黒パン黒髪の美女が鬼の形相で俺をにらみつけた。

「す、鈴音!?」

「なんだよてめぇ、ここがどこだかわかってんのか?」

 スキンヘッドのが体のいい男が、鈴音に睨みを利かせる。

「あんたに用はない失せろ。」

「ケンカ売ってんのかわれぇ!」

 スキンヘッドの男が大きく振りかぶり、鈴音に向け意外な速さで振りぬかれる。

「やめろおっさん! 死んじまうぞ!」

「もう遅いわ!」

 鈴音は容赦なく、おっさんの頭に回し蹴り。おっさんは、一発でのされてしまう。

「な、なんだこの女! 全員でかかれ!」

「全員死ぬ覚悟はできてんだろうな!」

 鈴音はどんなに囲まれても、蹴飛ばし、殴り、全員を無力化した。

 血にまみれた形相で、俺を睨む。

「あんた、ここでなにしてるんや」

「お、音楽…」

 俺は、後ずさりながら言う。

「妃那ちゃん、今野ちゃん、藤谷君、悪い。そいつ抑えといてくれ」

「わかりました。」「はーい」「う、うす!」

 バンドメンバーの三人は、まるで事前に打ち合わせしていたかのように、俺を取り押さえる。

「えっ、えっ、どういうこと!?」

「ごめんなさい、滝川君。事情はまた話すけど…とりあえず今は一発いっとこっか?」

 めちゃくちゃメイクの下に見える、てへっと笑うその癒しの塊のような仕草は、間違いなく妃那さんのものだ。

「えっ、妃那さんなの!? えっ、どういうこと!?」

「こういうことや、ボケェ!」

「ぐはっ!」

 俺は、鈴音の一撃を喰らって、危うく失神しかける。

「目ぇ覚ませ! あんたがすることは、音楽なんか!? ちゃうやろ! もういっぺん考え直してみぃや! うちのときはどうやった!? 傑君のときはどうやった!? 文香のときも真理のときも、きっと健のときやって! あんたがやって来たことは一つやろ!? いつやって、地蹴って、体張って、そうやって来たんやろうが! はっきり、言わせて貰うけどな、あんたには足しかない! 早う走れ! 早ううちらの所の来てみせぇや!」

「そんな…こと…言ったってな…」

 俺は、必死に痛みにこらえながら、口を開く。

 その姿を見たバンドメンバーたちは、自然と拘束を解いた。

「そんなこと言ったってな! 俺が走るってことは簡単な事じゃねぇんだよ! 俺が走るってことは、許してもらうってことなんだよ! あの日、俺の責任で引退試合を負けた先輩たちに! あの日俺を蹴飛ばしてまで、奮い立たせようとした長谷川部長に! あの日選手生命を絶たれた健に! そうしなきゃ、俺は走っちゃいけねぇんだよ!」

「ならやることは、一つやないか」

鈴音は、壇上に登って、血なまぐさい手を俺に伸ばした。

「迎えに来たで。ゆうちゃん。一緒に謝りに行こうや」

「鈴音…」

 鈴音を迎えに行ったあの日の自分の姿に重なる鈴音の姿。

 俺はにやりと笑って、「ああ!」とその手を握り占めた。


 俺たちは、とりあえず悲惨なことになっている、地下室から地上に出た。

「ほな、また明日。うちはこれで帰るし、バンドメンバーで解散の話でもしとくんやな~」と、もう私のやることは終わったと言わんばかりに鈴音は帰って行く。

「じゃあ、私たちも帰りましょう!」

「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。これは流石に説明してもらえるよな?」

「まぁ、帰りながらということで」

 メイク落としのシートで顔を落としながら、妃那さんは言った。

「じゃあ、俺と今野は先に帰るから、妃那の事よろしくな、滝川~あっ、お前と音楽出来て楽しかったぜ」

「私からもサンキューな。妃那ちゃんに手出したらダメだぞ滝川! じゃあな!」

 そう言って、同じクラスの今野(KON)と藤谷(FUJI)は足早に出て行こうとする。

「こちらこそ! 迷惑かけてごめんな! 楽しかった! ありがとう!」

「「また、学校で!」」

「おう! またな!」

「二人とも、ありがとうございました~!」

 妃那さんは大きく手を振って、バイバイし、二人もそれを見て満足そうに、この部屋を出て行った。

 俺達も顔を見合わせると、笑って、藤谷達とは反対方向に歩いていく。

「まぁ、全然わかんないけど、楽しかったよ。この時間はさ」

「ええ私もです。夢のような時間でした…」

「でも、なんでこんな大それたことを?」

「いえ実は…」

妃那さんいわく、鈴音に『ゆうちゃんが変な道に走らんように、何とかしてくれへんか?』と頼まれたらしい。そこで、音楽をやっていた今野ちゃんと藤谷に相談したら、『なら、うちらでバンド作って入れたら、とりあえず安全なんじゃね?』ということになったそうだ。

「それにしても、なんでこんな激しい音楽を…」

「いや、あの二人がああいう音楽が好きらしくてですね、バンドを組む条件が『あれ』でして…滝川君には結局危ない目に遭わせてしまって申し訳ないです」

「いやいや、俺は全然…それにしても、妃那さんは凄いキャラだったね、あれは」

「いえ! 決してそんなことは無いですよ! ただ、やるからにはとことんとやろうと」

「最後の方はぶっちゃけ乗り気だったでしょ?」

「そ、そんなことないですよ」

「え~夢のような時間だったんじゃないの?」

「も~! 滝川君意地悪です!」

「ははは、ごめんごめん」

 俺たちは、笑いあいながら夜の通学路を歩いていく。

 妃那さんは、真剣な面持ちで突然、こんなことを言いだした。

「滝川君はわかったんですか? なんで、みんながこんなことをしていたか」

「…なんとなくは、かな?」「そうなんですか?」

「うん、みんな俺を励まそうとしてくれてたんだじゃないかなって。俺達にも頑張れたんだから、お前だってできるだろって。でも、俺は真理にふられた後で、結構マイナス思考に受け止めちゃって、俺との距離を明確にするためだとか、今の俺のダメさ加減を笑ってるとか。そんな風にしか考えられなかった。」

「あながち間違いじゃなかったみたいですよ」

 妃那さんは、鞄の中から一枚の手紙を取り出した。

「それは!?」

「真理さんに渡された物です。でも、これは私宛ての手紙なんです」

「妃那さん宛ての手紙…」

「ここには、かなり詳細に今回の計画について書いてありました。旅行の前日の夜に真理ちゃんに呼び出されて渡されたんです。『ゆうちゃんのこと、よろしく』って」

「そうだったのか…」

「ええ、滝川君は落ち込むだろうからちゃんと支えてあげてって、それは幼馴染みじゃない私にしかできない事だからって、真理ちゃんは言っていました」

「なんか、巻き込んでごめんな。あと、ありがとう」

「私も楽しかったですし、支えてるだなんて思ったことありませんから気にしないでください。」

 妃那さんは、相変わらずの癒しスマイルでそう言う。

「真理さんに、もう一つ頼まれごとをしていたんです」

「もう一つ?」

「もし、滝川君がちゃんと陸上と向き合えるようになったら私の口から今回の計画について話してほしい。…滝川君は、もう走れますか?」

「…わからない……けど、ここまでやってくれたみんなのためにも走らなきゃいけないとは思う。」

「その答えで、ようやく十分です! では、お話ししましょう。皆さんの『約束』のお話しを」


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