前準備
第五章 「前準備」
全国の全国民に対し、声を大にして言いたい。俺は今幸せだ。
岬で唇を交わしてから、三か月ほどが経ち、夏が過ぎて秋が来た。
夏のイベントが終わり、しばらくすると文化祭が始まる季節だ。
俺は、眠気眼をこすってケータイの画面を開く。手慣れた手つきで、メールフォルダを開き真理からの『おはようメール』を確認する。
『今日もいい天気だね! いよいよ、明日から夏休み! 最後の一日頑張ろう! あっ、そうそう! いつも通り迎えに行くからこのメール見たら早く支度してね~!』
付き合うようになってから、毎朝似たような内容のメールが届いていた。
正直面倒に思う日もあったけど、真理がちゃんと自分のことを気にかけてくれてるんだなと思えて、この『おはようメール』の習慣は気に入っている。
浮かれた顔で画面を見ていると、窓の向こう側から鋭い視線を感じて思わずそっちを見た。
鈴音だ。ピンク色のクマの着ぐるみパジャマ姿のまま、つまらなさそうな顔をしてこっちを見ている。口で「な、なんだよ」と返すと、「なんでもないわ」と真顔で返され、カーテンまで閉じられた。
「なんだよあいつ…あっ、やべ! 早くしないと真理が迎えに来る!」
俺は慌ててパジャマを脱いで、床に落ちている制服に袖を通した。
昨日の中身のままの手提げかばんを肩に担いで、急ぎ足で一階のリビングへ行く。
「おおっ! 今日もまた一人で起きれたんだな! 朝飯できてっから勝手に食え!」
「母さんわりぃ! 食パンだけでいいわ!」「なんだよ? 母さんの飯が食えねぇってのか?」
母さんは、俺の胸倉を掴んで片手拳をあげる。
「ち、ちげぇよ! 急いでんだ!」
「なにを急ぐってんだよ、こんな朝早く…に……ん? 待てよ……あ~~~」
キレ気味だった母さんは手を離して、にんまりと笑った。
「わ、わかってくれたなら助かる…てか、毎日なんだから気付けよな…」
「いやいや、どうも最近朝早くに起きてんなとは思ってた。いや、でもまさかねぇ~」
「うんうん、人生ってどうなるかわからねぇよな…」
「まさか傑くんとはなぁ…」
「そうそう、傑と…って違うわ!? 傑じゃない方! なんで母さんまでそんなこと言うんだよ!?」
「傑くんじゃないのか!? 傑くんじゃない方となると、健くんか!?」
「ちげぇよ! なんで俺は男とばかり付き合わなきゃならんのだ!」
「いや、健くんはやめとけよ…あいつは多分…浮気性だぞ?」
「だから違う! 健が浮気性だろうが俺には関係ねぇわ!」
「まぁまぁまぁ…で、どの子なんだ?」
「お、おう。真理だよ。花崎真理。母さんも知ってるだろ?」
「あ~。真理ちゃんね。はいはいはい。まぁ、どの子でもあんたには勿体ない美人でいい子ちゃんばっかりだ。ほんと、ついてたなぁ、お前」
「いや、自分でもそう思ってるけど、親に言われるとまあまあ腹立つな…」
そんなやり取りをしていると、軽快な着信音が俺の右ポケットから響いた。
「おっと、ラブコールか? もう、朝飯はいいから行って来いよ。母さんがお前の分も食っといてやるから」
「お、おう、ありがとう。んじゃ、行って来る!」
「達者でな~!」
母さんは笑顔で俺を送り出したけど、なんだか少し悲しい目をしていたような気がした。
「おはよう!」
玄関を開けると、いつもと同じように笑顔で真理が出迎えてくれた。
学校指定の薄茶色のセーターの袖から手を振り、緑色のチェックのスカートをひらひらとなびかせて俺の方に駆け寄ってくる。
今日も、少し低い位置のツインテールに髪をくくり、無垢な瞳で俺の顔を見つめていた。
「おはよう、今日も迎えに来てくれてありがとうな」
「ほんとだよ~いつになったら、迎えに来てくれるのかな~?」
「は、早く起きれたときな~」
「それ、付き合ってからずっと言ってるんですけど~」
口を膨らませて、少しむくれた様子でそう言う真理。
でも、その抗議の眼差しからは温かさも感じとれる。
「わかったわかった。じゃあ明日から頑張るよ」
「明日って…ゆうちゃん、明日は海だよ?」
「海…? 海って…なんだ?」
「わ、忘れたの!? 信じられない……」
真理は驚き半分、あきれ半分の表情で俺を見た。
明日で思い当たることを必死に思い出しても、思い出せたのは夏休みが始まることぐらい。海で頭の中に検索をかけても、何もヒットしなかった。
「わ、わりぃ…なんも出てこない…」
「三日前に最後の確認も取ったよ!? もう忘れちゃったの?」
「三日前…? ああっ!」
三日前と言えば、お昼休み久しぶりに幼馴染とお昼ご飯を共にした日だ。
その日に突然、「みんな、海、いこー!」と真理が食堂で叫んだらみんなが、「おー!」と返してついて行けなかった覚えがある。
どうやら真理は俺の知らない所で、みんなに連絡を回し、海の計画について前々から話していたようで、みんな曰く「真理以外とこの話をするのは初めて」とのことだった。
計画実行三日前にようやく参加者全員で話し合いをするという、真理らしい無計画さがうかがえる話だ。
「思い出せた? ちゃんと準備できてるの?」
「ああ、うん。大丈夫、一応母さんにも話してるし、水着も買ったし、貯金も下ろしたし…」
「ほんとだよ? ゆうちゃんママに運転してもらうんだから、ゆうちゃんママに話通ってないと海いけなくなっちゃうからね~」
そう言えば、朝母さん何も言ってなかったけど、大丈夫かな。そう、思いつつも二つ返事で「大丈夫、大丈夫」と答える。
それを聞いた真理は「ならよし」と可愛く微笑んだ。
そんな真理の顔を見ていると、自分が充実した毎日を送っていることを意識させられる。
朝起きれば、真理からおはようのメールが届き、玄関を開ければいつも真理が笑顔で出迎えてくれた。そのまま一緒に登校して、その時に手を繋いだりもした。授業中、先生に隠れてこっそりメールのやり取りをしたりするのも楽しかったし、休み時間にクラスメイトに冷かされたりするのも嫌だ嫌だとは言いつつ少し誇らしかった。昼休みは二人屋上で真理の手作り弁当を食べて、放課後は肩を並べて帰る。寝る前には、お休みの電話をして床に就いた。
そんな毎日が過ぎるのはあっという間だった。三ヶ月なんてあっという間だった。
気付けばもう、春が過ぎて夏が来ていた。
「ということで、明日から夏休みです! ですが、先生に夏休みはありません! 勿論、うちの旦那にも夏休みはありません! だから皆さんが私は羨ましいのです! みんな、どこに行くの!? 山!? 川!? 海!? 最近の子どもはネズミーランドとかUSJとかいくの!? すっっっっごい羨ましい! ねぇ! 先生もどこかに連れて行って! ……そうだ! 花崎さん! 滝川君と愛のロマンスに行くんでしょ!? 私が、健全な付き合いをしているか確認するためについて行くわ! それなら、先生としての仕事も果たせるし、旅行もできるし、一石二鳥よね!」
「ごめんなさい新妻先生。二人で旅行には行きませ~ん」
「そうなの!? 残念だわ~…せっかくいい作戦だと思ったのに~…みんな、外泊するときは、外泊届を出してからきちんと行くようにね~…それじゃ、お疲れ様~」
真理にバッサリと切り捨てられた新妻先生は、少し落ち込み気味にそういう。
そんな新妻先生とは裏腹に、生徒たちはわいわいと騒ぎ始めた。
「おっわったぁあああ~!」「やっと夏休み! 何しようかな~」「ねぇねぇ! カラオケ行かない?」「おっ、いいね! 行こう行こう!」「今日、どこも終業式だしこんでない?」「大丈夫大丈夫~ 予約してるから~!」「さっすがー! 男子も誘っちゃう!?」「おっ、マジで!?」「別にあんたは誘ってないんですけど~」「ひ、ひでぇ!」
何やら、女子たちの呼びかけからクラス全体でカラオケに行くことになったみたいだけれど、俺と真理には呼びかけがこなかった。
「滝川くんと真理ちゃんは、夏休みに入る前に制服デートを楽しんできてください! 夏休みに入ったら制服姿も見られなくなりますよ~!」と、妃那さんが明るい笑顔で俺等に説明する。
「え~、私はみんなとカラオケ行きたかったな~」
真理は少しむくれていた。
「妃那さんごめん。健と傑、それから鈴音と文香も借りていいか? ちょっとこの後、ファミレス行く約束しててさ」
「私が幹事というわけではないので何とも言えませんが…さっきの旅行の件ですか?」
「ああ、うん。幼馴染みで旅行の計画しててさ。明日行くからその最終確認と言うか…」
「いいですね~! 幼馴染みとひと夏の旅…憧れます! わかりました! みんなにはそう伝えておきますね!」
「ごめん、お願い」
俺が申し訳なさそうに手をあげると「いえいえ、気にしないでください!」と驚いた様子で手を振って返された。その仕草がかわいくて、つい表情が柔らかくなってしまう。妃那さんは俺にとって、今でも極上の癒しだ。
「む~…彩芽ちゃん見てにやにやしないでよ~」
「し、してないって! 気のせい気のせい…」
「してたもん~私という人がありながら…これだから男子は…」
「お、俺を男子代表みたいにするな!」「これだからこけし男は…」「こ、こけし男!?」
「はいはい、仲良いんはわかったから、はよファミレス行こうや」
「そうですよ。こんなクラスのど真ん中で惚気ないでください真理さん。ゆうちゃん」
「幸せ…分けて…欲しい…」
「ほんとにな…くそっ! なんでゆうばかっかり! 俺にもなんかあったっていいじゃねぇか!」
幼馴染み達にそろそろ行こうと急かされ、俺と真理は少し顔を赤くしながら頷いた。
あの日から数日間、幼馴染み達と気まずい時期があった。
真理と俺が付き合うことで変にみんな気を使ってしまい、喋りづらくなったり、遊びに誘っても「いや、邪魔したら悪いし…」と断られてしまう。お昼ご飯に誘っても「いや、邪魔するのは嫌だし…」一緒に帰ろうと誘っても「いや、邪魔者扱いになるのは嫌だし…」ファミレスに誘っても「いや、新婚夫婦とファミレスとかあれだし…」と、見事にふられ続けた。
しかし、ある晩。真理が突然「もう我慢できない! 私、ちょっとみんなに一言言って回ってくる!」と夜の町を駆け回り、その翌日から少し怯えた様子で「よ、良ければお昼ご一緒しませんか」そう幼馴染みが誘って来るようになって、それからは大分元の形に近くなっていた。
ただ、健以外の幼馴染みとの距離感が微妙に変わった気がする。みんな表面的にはいつも通りなんだけど、あんまり話してくれなくなったように思う。今朝の鈴音の件もそうだし、やはりみんなどこか俺と真理が付き合うことをよく思っていないのかもしれない。
ファミレスは、サンフランシスコ通りの入り口近くにある。
帰り道とは全員反対方向だけれど、ここにしか安くて喋りやすい店が無いのでしょうがない。
俺たちは、黄色い看板のファミレスに着くと、鈴音、健、傑、文香、真理、俺の順に入って行き、鈴音が「六人でお願いします」と丁寧な口調で店員に伝えた。
意外と店内は空いていて、他の客はほとんどいなかった。
いつも通りみんなは、ドリンクバー付きのメニューを頼んで各々ドリンクを取りに席を立つ。
席を立って、ドリンクバーに向かう途中真理に声をかけられる。
「そう言えばさ、夏休み中も新妻農園のお世話あるんじゃない?」
「あっ! すっかり忘れてた…どうしよう、妃那さんとも連絡取り合わないとな…」
ちなみに、付き合い始めてからは真理が俺の登校時間に合わせて朝早くに迎えに来てくれて、俺が新妻農園の世話をしている間宿題をやったり、歌を歌ったりしていたらしい。
「やっぱりね~ほんと新妻先生そういう連絡しないし、抜けてるというかなんというか…彩芽ちゃんは…」
「えっ、妃那さんがどうかした?」
「ううん、何でもない。とりあえず、彩芽ちゃんのメールアドレス教えるから連絡とった方がいいと思うよ? 明日いきなり旅行で任せきりになっちゃうんだし。」
「確かにそうだな…悪い、お願いしてもいいか?」
俺はそういうと端末をポケットから取り出し、真理と赤外線通信をして妃那さんのアドレスを貰った。
「おーい、二人は何にするんや~? はよ来んかったらうちが選ぶで~」
「そ、それだけは勘弁! 真理行こう!」「う、うん!」
俺たちは慌てて、ドリンクバーへ行く。
みんな大体入れ終っていて、通りすがりに飲み物を確認する。健が持っているのは、黒い飲み物。多分コーラだ。傑は、オレンジ色。オレンジジュースだろう。文香が持っているのは水。しかしあれはただの水ではない。ドリンクバーの機械からは原液と水の両方が出て混ぜ合わせて一つのジュースを作る。機械が操作しているので、誤作動がない限り理想的な比率で飲み物を飲むことが出来る。だけど文香は原液を飲まない。理由は「なんというか…機械…いや…?」という、わかるようなわからないようなことで、いつもドリンクバーの時は飲みたい飲み物の原液をそのまま垂れ流しにして、水だけをコップに入れていた。そんなことをするぐらいなら、初めから水を飲めばいいと思う。でも、文香は「味のない水…こういう所で…飲むの…さみしい…あと…コップに…入れるの…楽しい」といっているから、どうやら原液の風味が僅かに残った水を飲むのが好きらしい。あと、入れるという行為自体が好きらしい。それでも、俺らと同じドリンクバーを頼んで薄味の水を飲むのは、勿体ないような気がした。
俺らがドリンクバーの機会に着くと、先客が一人。並河鈴音だ。
俺は、二台あるドリンクバーの右側に行き、適当にコーラのボタンを押してコップの中にコーラが注がれていくのを見ていた。
気になって、隣にいる鈴音の飲み物の色を確認する。
「よし、こんなもんでええかな。なんや、ゆうちゃん。あんたも混ぜんのか。せっかく、ドリンクバーなんやから混ぜた方が特やのに」
満足そうに言って、自分のコップを突き出してくる真理。コップの中の色は茶色というか黒というか…とにかく、市販で売っている物の色じゃない。
「い、いや遠慮しとくよ。ほら、真理が待ってるから変わって変わって」
「ほうかほうか~邪魔者はおさらばするわ~」
鈴音は少しあきれ顔でそう言う。その態度には少し腹が立つけど、あの飲み物をつがれるよりはマシだから我慢した。でも、真理は黙ってはいない。
「鈴音ちゃん!」
真理はビシッと指をさして、少し怒った表情で言った。
鈴音は、ビクッとして少し震えた声で「い、いや? そういう意味とちゃうからな真理? お、怒らんといてぇな?」と言って前言撤回する。
それを見た真理は「わかったならよし! 行きたまえ!」と満足げに笑った。
「か、かんにんな~」
鈴音は、背中を小さくしてこそこそと戻って行った。
「あの夜一体何したんだよ、真理…。鈴音があそこまで怯えるなんて…」
「世の中には知らない方がいいこともあるんですよ?」
無垢な笑顔でそう言う真理が、恐ろしく見えた瞬間だった。
ご飯を食べ終わると、自然に明日の旅行の話になった。
「それでは皆さん、最後の確認をしますよ? 僕達が向かう先は日本海。場所で言うと京都です。海の家に二泊三日で、移動手段はゆうちゃんの車。集合が朝の七時半にゆうちゃん宅。これで、間違いないですね?」
「うん、それで大丈夫」
傑が丁寧に最終確認をしてくれ、話は大分纏まっていた。
元気よく手を上げた真理が突然こんな事を言いだす。
「ねぇねぇ、早く水着買いにいこーよ!」
「いや、それ俺たち付いてけないからね?」
「当たり前や! なんで、男子と一緒に水着買いに行かなあかんねん! ゆうちゃんらは、もうここで解散や!」「水着…選ぶの…難しそう…」
女子たちはどうやら水着を買いに行きたいらしく、足早に店から出ていってしまう。
男子の方は、特に買い足す必要のある物はないので、本当にこのまま解散になりそうだ。
「あれ、あいつらレジ寄ってなかったよな?」
「…お、俺ちょっと用事あるからこれで失礼するわ! あとは頼むぞゆう!」
「ゆうちゃん、僕も英語の宿題やりたいからこれで!」
二人も足早に店を出ていった。
俺も店から出ていこうとすると、強面のボクサーみたいな店長が俺の両肩をがっちりホールドして「お会計まだですよ?」と笑えない表情で俺を睨む。
「い、いくらですかね?」「六千七百円になります」
「OH…」
ちゃりーんという軽快な音と共に、多大なダメージを俺の財布に与えるボクサー。ジャブどころではない。明日絶対徴収してやる。
俺はわずかな怒りと共に帰宅した。
家に入ると、母さんに一声かけてから、手を洗い、階段を上って自分の部屋へ。
ベッドに寝転ぶと、なんとなくケータイを開いた。
「メールの履歴、ほとんど真理ばっか…」
それを見ていると自分がどれほど真理に愛されてるかが目に見えてわかる。俺は今、世界で一番幸せだと思う。えっ、ボクサー? なんのことやら。
浮かれた頭で昔の履歴を辿っていると、春辺り、真理と付き合う前日に送られてきていたメールが一通見つかった。
そこに書かれた名前は、鈴音。
そういえば、この時のメールはなんだったのだろう。真理と付き合い始めてからは鈴音と登校することも無くなったし、なんとなく距離が出来た。その前日に送られてきたメール。内容は何か謝っているような文章。約束、耐えられないというワード。とても大切なメールなのだろうけど、やはりこれだけ読んでもわからない。
「まぁ…間違いメールだし、俺には関係ないか…」
そう思ってケータイの電源に手をかけたその時、見慣れない通知が来ているのに気付いた。何気なく通知の内容を調べると、何かをダウンロードした形跡が。さらにその内容を調べていくと妃那さんのアドレスが表示された。
「あっ、そういえば妃那さんにメールしないといけないんだった!」
俺は慌てて、新規作成のボタンを押し、メールを一から作る。
『妃那さん突然ごめん。滝川ゆうです。先生から、新妻農園について何か聞いてないかな?
多分何も聞いてないとは思うけど、俺らが世話しなくちゃいけないよね…きっと…』
文面は思いついたままに打って、そのまま送信。
すると、数秒のうちに妃那さんからメールが返ってくる。
『こちらこそ連絡入れなくてすいません! メールいただけて光栄です! 私も新妻先生からは何も言われていないです。でも、お花や野菜たちが枯れるのは可哀想なので私は部活帰りに水をやったり手入れをしてから帰るつもりでしたよ~』
「メール打つのはやいな…というか、あれ? 妃那って部活やってたのか」
俺は、こちらから言っておいて明日いきなり留守にすることを悪いということと、何の部活をしているのかということを伝えるメールを打つと、また俺の数十倍の速さでメールが返ってくる。
『明日の件は、前々からお聞きしてたので気にしないでいいですよ! 旅行楽しんで来てください! えっ、文香さんから聞いてませんか? 私、美術部ですよ? 確かに、文香さんのような絵は描けないですけど私も頑張ってますよ~!』
「ん? なんでここで文香が出てくるんだ? あいつ絵なんか描けたっけ?」
過去の記憶を辿るが、文香が絵を描いているのを見たのはたったの一度だけ。しかもそれは小学校の低学年の頃の話で、よく覚えていない。確か、物凄い衝撃を受けたような気がする…。
『えーと、文香からは何も聞いてないよ。でも、なんで文香? 美術部と関係あったっけ?』
『わっ! すいません! なんでもないです! 忘れてください! そ、それでは失礼します! お休みなさい!』
「いやいや、ビックリマーク付ければいいってもんじゃないから…しかも、全然誤魔化せてないし………」
俺は悶々とした頭で、文香の絵を思い出そうとしたが全然思い出せない。
何色の絵だったのか。何を書いたものだったのか。文香はどんな顔で書いていたのか。いつ頃書いたものだったのか。
一つ一つ思い出すようにして、何とか絵を思い出そうと試行錯誤する。
「………あっ。そうか、あの時か…」
絵を思い出そうとしている内にいくつかの事を思い出した。
そしてそれは、思い出したくないことだと思い出し、目に涙を溜めたままベットに潜る。
「ああ…まだ解決してないんだったな…文香…」
枕に染みついた涙を心地悪く思いながらも、俺は落ちるように眠った。
*
「いよいよ明日やな…」
私はお風呂上りの髪を乾かしながら、明日の旅行の事を考えて自分の鼓動が早くなっているのを感じた。
「ほんま、うまく伝わるとええなぁ…」
性に合わないようなことを言った自分をいつもなら「弱気なこと言うたらあかん! うちはそんな弱い女やないわ!」と叱咤する所だけれど、今日ばかりはあまり自分を責めれない。
「あ~…ほんま、うまくいくといいなぁ……」
私は乾いた黒い髪を、片手でクルクルと回しながら自分の部屋のカーテンを開ける。
向かい側には、ゆうちゃんの部屋。カーテンで部屋の中は閉ざされているけど、電気が点いていることはわかった。
「なんやあいつ、まだ寝とらんのか。はよ寝な明日起きれんぞ…いや、大丈夫か。ゆうちゃんママいるもんな。うちの百倍は怖いしきっと大丈夫や、うん。」
いやいや、あいつの心配なんかせんでもええやん。やってあいつは真理の彼氏なんやから。
そんな風に考える毎日は正直寂しい。朝、一緒に登校することも無くなり、昼休みや放課後も、真理の彼氏なんだと思うと話しかけずらく、この三か月ほとんど一緒にいない。ゆうちゃんも真理もそんなこと気になんかしなかっただろうけど、私はほぼ無意識のうちにゆうちゃんを遠ざけていた。
もし、あの夜に真理が泣きながら走り回ってくれなかったら、私は明日の旅行にも参加しなかったかもしれない。
「ああ…難儀な世の中やな…十七の娘が言うことやないか……うちもはよ寝ななな。」
そう呟き、もやもやとしたままカーテンを閉めて、布団の中に潜る。
うっすら濡れた枕が、少し、私の眠りを妨げた。
*
「起きろバカ息子! 尻、蹴飛ばすぞ!」
物凄い衝撃が俺のお尻に響く。
「いって! もう蹴ってんじゃねぇか!」
「良いんだよ! 親なんだから! つうか、支度もせずに寝る方が悪い」「あっ…」
無茶苦茶な理屈で蹴られたことを正当化されてしまった俺は、反論する余裕もないほどにピンチだ。
海の準備なんてどうせ早く終わるだろうと思って、準備を先延ばしにしていたら、結局トランクを一度も触ることなく、今日を迎えてしまった。
「ぐぁあああ! 俺のバカー!」
「お前、保育園の頃から変わんねぇよな。まぁ、そうなるだろうと思って、私、トランクにトランク積んどいたから。」「トランクに…トランク?」
「だーかーら! 車のトランクにお前の荷物詰めておいたつってんだよ! さっさと支度しろ!」
そう、顔を赤くして言った母親は、勢いよく扉を閉める。
「ああ…なるほど…トランクにトランクね……。なんか俺、旅行の度に準備してもらってる気がする……不甲斐ないなぁ……」
少し自己嫌悪になりつつもパジャマからTシャツに着替え、ジーパンを履いた。
朝ごはんを食べて、歯を磨き、顔を洗うと、時計の針はすでに七時半を超えていた。
慌ててケータイと財布をポケットに突っこんで、階段を駆け下り、玄関の扉を開く。
にやにやした顔の五人が、声をそろえてこう言う。
「「「「「おっそ~い!」」」」」
「わりぃ! 寝坊した!」
玄関を開けて、五人の顔が揃っているのを見て胸の高鳴りを覚えた。
最高の旅を予感させる、小さくとも大きな感情。
俺たちは、またこの六人で、誰にも負けない思い出を作りに行く。
俺は大きな期待を胸に、一歩外に踏み出した。