大空翔子 Ⅷ
大空翔子が飛び降りてから一週間が経った。
校内ではまだまだその話題で持ちきりだった。無理もない。校内で一番有名な彼女がまたも大きな話題を作ったのだから。
大空翔子の取り巻きである友人らが一週間の間に僕のところへやってきた。どうして大空翔子が飛び降りたのかを尋ねにやってきたのだ。
『僕なんかよりキミたちの方が彼女のことをよく知ってるんじゃないかい?』
こんなスマートな話し方じゃないけれど、まあこんなことを言ってやった。どうやら彼女らの間では、先日の陸上大会の結果が原因だと考えられているらしい。
友達なのにそんなことが原因じゃないことくらいわからないのかい? などと優越感に浸っていたりした。
まあ僕だって彼女が飛び降りた理由がはっきりとわかっているわけではないのだから、答えられなかったということもある。
そして今日、僕は目の前の色紙と対峙していた。
入院中の大空翔子へ贈る寄せ書きを書かなくてはならないのだった。さすが我が校のスターで、なんと全校生徒からの寄せ書きを進呈するというものだった。
大空翔子は屋上から飛び降りたものの、植えられてある木のおかげで落下の勢いが殺されて、命に別状はなく、奇跡的に助かったということになっている。
奇跡的にではなく、意図的に助かったというのに。
さて、問題は寄せ書きだった。
もう僕以外のクラスメイトは書き終え、トリを務めるのは不肖この僕である。どうして僕が最後になったのかは僕の立場を察して欲しい。それにしても、見事に描くスペースが見当たらない。あと一人分のスペースが必要なことをクラスメイト全員が忘れているんじゃないだろうか。こういう作業は苦手だから別に構わないけれど。
まあ最後に書く者が得られる特典としては、みんながどんなことを書いたか見ることができるということだ。人の目もあるのでじろじろと見るわけにもいかず、僕は何て書こうか悩むふりをしながら目を通していった。
早くよくなってとか、早く学校に来られるようになればいいねとか、そういうことばかりだった。中には『またかっこよく跳ぶ翔子ちゃんが見たいです』とか『早く治して陸上頑張って』なんて書いている奴もいた。きっと彼女の友達だろう。ひどい奴らだ。
「これは残念でした――ね」
さて、限られたスペースだけれど、僕も最高の励ましの言葉を書いておかなくては。僕は僕らしく、隅の方へ小さくまとめておきましょうっと。
書き終えた色紙を、クラス委員長へ渡す。もちろん無言で手渡した。どうやら全てのクラスの色紙が出揃ってから渡しに行くらしい。午前中からクラスに回し始めて、僕が書き終えたのは昼休みの出来事だった。
用事は済ませた。
これで心置きなく早退できる。実は朝から体調が悪かったのだ。熱っぽいし、鼻水は垂れるし、咳はするし、これは間違いなく風邪だ。風邪ひいた。ことにした。そういうことを昼休みのうちに職員室に出向き担任に伝え、僕は保健室に寄ることもなく学校を出ることに成功した。普段から特に関心を持たれていないことが幸いした。
そうして僕は総合病院へ向かう。もちろん風邪の診察を受けに。仮病の診断書でも書いてくれるお医者さまでもいてくれればいいのだけれど。
途中でコンビニに寄り、見舞いの品を買った。作るのは病室に着いてからだ。
しばらく真夏の太陽に身を焼かれながら歩き、総合病院へとやってきた。この町で救急患者を受け入れるのはこの病院だけだから、彼女はきっとここにいることだろう。
大空翔子の容態については詳しく知らない。意識が戻ったということだけは学校で聞かされていた。命に別状はないにしろ、血だまりができるほどの怪我をしていたのだから、重傷だったことには違いない。
受付で彼女が入院している病室を尋ねることもなく、僕は入院病棟の方へ向かった。今日は平日で、しかも学生服を着ているのだから、受付に余計な詮索はされたくなかったのだ。一応、彼女は自殺未遂なのだから、いろいろなことを尋ねられるかもしれないと危惧していた。面倒だ。
入院病棟は東棟、西棟の三階、四階に分かれていて、僕は近い西棟の方から彼女を探すことにした。
病室の入り口にかけられてある患者プレートを確認しながら廊下を歩く。あいにくと、西棟三階に彼女はいなかった。その足で階を一つ上がり、同じように見回ってみたものの、こちらもはずれ。そのまま西棟四階から病棟を繋ぐ連絡通路を通り東棟へ。
少し進むと、すぐに大空翔子の名前は見つかった。
贅沢にも個室だった。
それはそれで都合が良いと思いながら、病室に入るのを躊躇っているようにみせて聞き耳を立ててみる。中からは、おそらくテレビの音が聞こえてくるだけで話し声はしなかった。どうやら見舞いは誰もいないようだ。
僕は小さく息を吐いて、ドアを軽くノックする。
「はい」
彼女の声だった。僕はもう一度小さく息を吐いて、病室のドアを開けた。
一週間ぶりに見る、変わり果てた姿の大空翔子がベッドにいた。頭に包帯を巻き、頬にはガーゼが当てられ、両腕も見える範囲は包帯が巻かれ、何よりも印象的だったのは左足が吊るされていることだった。
あれだけの高さから落ちたら、まあこうなるだろう。これだけで済んだとも言えるのだろうか。
妙に納得した僕は、彼女と目を合わせる。目を合わせることができた。飛び降りてある程度すっきりしたとでもいうのか、彼女の『黒』はだいぶ薄くなっていた。
彼女は僕と目を合わせて少し呆けたあと、小さく笑った。
「やっぱりね。誰もいない時を見計らって来るような気がしてたんだぁ」
「すごいね。見てたテレビは探偵推理ものだったのかい?」
動けない彼女は視線で脇に置いてあった折りたたみ椅子を示して、僕はそれを開いて彼女の横に座った。その様子を見届けて、彼女はテレビを消した。
「本当に空を飛ぶつもりだったのかい?」
「まあね。でも、人力じゃ無理だったみたい」
「人がどうして飛行機を作ったのか考えてみるといいよ」
彼女はまた小さく笑う。
「元気そうじゃないか」
「この格好見てよくそんなこと言えるね」
「自業自得って言葉を返すよ」
「……ハァ。重傷患者に向かって言う台詞? マグロくんさぁ」
「帰る」
「まあまあ待ってよぅ。久しぶりなんだしさぁ、真黒くん」
「…………そこまでの怪我をするなんて予想外だったのかい? 下手をすると本当に死んでたかもしれないのに」
「……やっぱり、あなたにはわかっちゃうんだね」
「いやいや、僕じゃなくったってわかるよ。まあ、あのあとすぐに屋上は閉鎖されたから、確実にそうだと言えるのは現場を見た教師と警察くらいだろうけどね」
「あなたは? 屋上に行ったの?」
「行ったよ。キミが飛び降りてすぐにね。下からじゃよくわからないかもしれないけれど、上から見ると違和感にすぐ気付く」
校舎の横に植えられてある木を下から見上げると、視界は塞がれて上は見えなくなる。だから下から見ても木に引っ掛かると錯覚してしまう。横から見てもあまり変わらない。でも上から見下ろすと、全く違う景色が見える。屋上の縁から木の幹までは、それなりの距離があるのだ。
「そう……」
「キミは跳び降りたんだ。ジャンプした。本当に死にたいならそのまま落ちればいいし、反対側には木だって植えられていない。わざわざ木に向かって跳んだ人間に死ぬ気があったとは思わないさ」
「まあねー。でもあんまり意味なかったかも。けっこうそのまま落ちたし。枝とか刺さって体中縫うことになっちゃったし」
それでも、木のおかげで命があることには違いない。
彼女は両手に巻かれた包帯を見せつけ、そこで閃いたかのように「おおっ」と声を上げ、満面の笑みで言った。
「あたし、傷物になっちゃった」
「いや、あんまり笑えない」
命を懸けた自虐ネタだな。嬉しそうに言うなよ。
ここで一旦会話が途絶え、沈黙が流れる。しばらくはエアコンの稼働音だけが聞こえていた。彼女が一つ咳をしたところで、僕は思い出したかのように鞄から見舞いの品を取り出した。
「なにそれ?」
「折り紙だよ」
言って、僕は袋から一枚取り出し、三角に折る。
「それはわかるけど」
「千羽鶴ってやつさ。あいにくと僕には共同作業は向いてないからね。個人的にキミに贈ることにしたんだ」
「人と話すことが嫌だからってここで千羽折られても困るなぁ。で、でも、それが嬉しいなんて思ってないんだからね!」
「誰が千羽も折るか」
それとその微妙なツンデレ台詞はどうにかならんのか。
「えーん、折らないのぉ?」
「折りません。キミ宛ての寄せ書きだって書いたんだから、それで十分だろ」
「うわ、ちょっとそれってサプライズなんじゃないの? 言っちゃわないでよ」
「なんと全校生徒からだってさ。現物もらったらお得意の外面で驚いてみせればいいよ」
「……みんな、なんて書いてたの? どうせあなたって最後に書きそうだから見たんでしょ?」
「ご明察。早く元気になーれってさ。それとまた陸上やれるようにって。みんなまだまだキミに活躍してほしいみたいだよ。残念だったね」
そう言うと、彼女は少しだけ口を尖らせた。
「残念って、別にあたしはそんなこと……」
「自分で作り上げたものを壊すのに、他人任せにしちゃいけないなぁ」
彼女を見る。驚いたような、呆れたような顔をしていた。
「あなたって本当に不思議だよね。あたしのこと、どこまでわかってるの?」
「何もわからないよ。だから今日はキミに会いにきたんだ。キミのおかげで随分と悩まされたからね」
「あーあ、あたしって罪な女。でもごめんなさい。あたしには将来を誓い合った人がいるの」
「へーえ。それは将来苦労しそうだね。キミもお相手も」
「…………」
そんな相手がいたら彼女は真っ黒になんて染まっていないだろう。もし相手がいてなお真っ黒に染まっていたのならそいつとは幸せにはなれないな。彼女に彼氏がいないことは、明白だ! いやいや、どうでもいいことだけれども。
「あたしって、実は男子から結構人気あるんですけど」
「そうだろうね」
「えっ……! え、えっと、なんで、そう思う、の?」
どうしてそんなに驚く。自覚してるのなら肯定されても不思議じゃないだろう。
「キミは可愛いし、外面もいいからね」
「な、なんなのかな、全然嬉しくない」
「一応褒めてるんだけどな」
視線を手元に戻し、鶴制作を進める。もう少しで完成だ。
「ねえ」
「ん?」
「最初っから気になってたんだけど、それって一応千羽鶴の代わり、なんだよね?」
「そうだけど。ああ、下手なのは勘弁してもらいたいかな」
「いやそうじゃなくて、千羽鶴にその色はどうかなって思ってるあたしがいるんだけど」
折り紙の色は黒。彼女を象徴する色だ。
「別に黒を使っちゃいけないってことはないらしい。縁起が悪いとかで使わない人が多いみたいだけど」
「わかってるならさぁ」
「キミの色だよ。黒。本当は表も裏も黒が良かったんだけど、寄ったコンビニには画用紙が置いてなかったからね」
「あたしの色? 初めて会った時のおかえし?」
「初めて? ああ、僕のオーラが黒っぽいってやつか。そう見えたのならキミの目は正しいと思うよ。でも、今はキミの方が黒に相応しい、っと、ほら、できた」
完成した折り紙の鶴を彼女に渡す。鶴の首は折っていない。彼女は納得できない面持ちでそれを受け取った。
「一応、ありがとう」
「ん」
彼女は眼前で、手渡された鶴を回しながら眺める。
「で、見届けて欲しいっていうのは、飛び降りることをだったのかい?」
唐突だったけれども、彼女に尋ねた。いつ誰が来るかもわからないし、あまり長居はしない方が賢明だと思ったから。見舞いの品も渡したことだし。
彼女は僕を一瞥し、また手元の鶴へ視線を戻した。
「そっちじゃなくて、大会の方、かな。たぶん。あたしにもよくわからないんだ。ただなんとなく、あなたなら気付いてくれるんじゃないのかなって」
「わざと失敗したこと?」
彼女は小さく頷いた。
「ひとつ聞くけど、キミは大会の前から飛び降りることを決めてたんじゃないのかい?」
そう考えると、大会の前後で彼女の『黒』が全く変化しなかったことにも納得してしまう。大会はただのきっかけ作りで、通過点でしかなかったのだとしたなら。
彼女は目を丸くして、僕を見やる。
「あなたってホントすごいね。どうしてそこまでわかっちゃうかなぁ。大会前まで表情とか出ないようにしてたつもりだけど」
「それは完璧だったよ。今でもキミの友達は混乱してるんじゃないかな」
「完璧か。そう、そうだよね。あたしは今まで完璧を目指してやってきたんだから。それなのに、あなたにはわかっちゃうのね。どうして?」
「さあね。僕がキミのこと知らなかったからかもね」
「……考えたことがあったんだけど、あなたがあたしのこと知らなかったって言ったの、嘘でしょ。あたしのこと知ってて、あたしが何か悩んでることに気付いて、近付いてきたの。違う?」
「そんなわけないじゃないか。僕とキミの接点はあの時までただ一度だってなかったんだから」
「そうね。でも、あなたは知ってた。ううん、気付いたの。大空翔子っていう少女が何か悩んでるなって。あたしが飛び降りることを決めてからすぐに、あなたが現れたんだよ。そして今は病室で話したりしてる。とても偶然とは思えないんだよね。さっきあたしが大会前から決めてたって言ったでしょ。やっぱりねって思っちゃった」
「……実は僕には死相が見えるんだ」
「嘘。あたし死んでないし」
「…………」
「でも、それに近い何かがあるのかも。それは秘密なの?」
「…………」
「とにかく、あなたはどうやってかあたしのことに気付いて近付いてきたの。あたしはそう思ってる」
さすが優等生。違うか。さすが完璧主義者。完璧な建前を作ることができるということは、それだけ人のことを見ることができるということか。僕と似たようなものなのかな。もっとも、僕のはイカサマだけれども。彼女のことを見抜けなかった。彼女は自分のことを隠し通せる人間なのだ。
「もしそうだったとして、どうして僕がキミに近づかないといけないのさ。理由がないよ」
「隠さなくてもいいよ。あたしを助けようとしてくれたんでしょ?」
「え?」
「だからとぼけなくてもいいって。でもごめんね、結局こうなっちゃって」
照れ笑いを乾いた笑い声で隠す。僕は呆気に取られて言葉も出なかった。
なんて素敵に勘違いなさっているのでしょう。
「僕はそんなに良い人間じゃない。僕には人の悩みを解決させることなんてできないよ。あそこで練習を見ていた理由を敢えて言うなら、ただの暇つぶしさ」
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
むう、何て聞き分けのない。今のは結構本気で言ったのだけれど。
くすくすと、彼女は控えめに笑う。そんな笑い方をされると、勘違いも甚だしいのに照れてしまう。悪いことだ。助けようなんて思っていなかったのに。
悪いことだ。
「あたしがさ、あたしが、こんなことした理由、聞いてもらえる? 誰にも……っていうか、多分あなたにしか話せないと思うから」
「だから僕はそんな――」
そこまで言って、僕は彼女の表情を見て押し黙ってしまった。
僕の方を見て笑っていた。
すごく申し訳なさそうに、寂しそうな笑顔を見せていた。
勘違いさせてしまった罪滅ぼしと考えればいいのかもしれない。
僕なんかでいいのかと思いながらも、やはり甘かったと痛感していた。