大空翔子 Ⅵ
陸上大会が行われた翌日の月曜日。
僕は朝の日課を慣行していた。教室のベランダから人の『黒』を覗き見る悪い趣味だ。ただ、今日は目的を持ってここにいた。
言うまでもなく、大空翔子の『黒』を確認するためである。
僕は釈然としないままでいた。確かに陸上大会での彼女を見届けたわけだけれど、その行為の意味をいまだ考えていたのである。彼女の心の内を考えていたのだ。最終手段としては本人に問い質すことになるだろうけれど、もう少し、待ってみようと思っていた。彼女は何かを見て欲しかったに違いない。何かを気付いて欲しかったに違いないのだ。
彼女は昨日の大会で、故意にあの結果を残した。そうでなければ、去り際に僕の方を見たりしなかっただろう。悔しがることも一切せずに、あの結果が当然であったかのように、彼女は競技を終えたのだ。
そんなことを考えながら校門を眺めていると、『黒』の集団がやってきた。件の大空翔子を中心とした友人ら御一行様だった。
大空翔子はいつものように笑っているように見えた。周りの友人らは何かを必死に話しかけているように見える。おそらくは昨日のことを励ましでもしているのだろう。
大変だな、と正直に思う。
彼女も、その友人も。
大空翔子の『黒』は全くと言っていいほど変化していなかった。相変わらず全身を『黒』でコーディネートしている。
まずはここで疑問に思うことが一つある。彼女の『黒』はたしかに大会が近付くにつれてその濃さを増していったのだ。だから当然のように『黒』の原因の一部には大会のことが絡んでいると僕は思っていた。その大会が終わったのに、彼女の『黒』に変化が見られない。
彼女は大会のことなどまるで気にしていなかったのだ。大会の結果をいまだ悔やんでいるとするならば『黒』に変化がないのも頷けるけれども、昨日の様子を見る限りでは、やはり結果を気にしているとはあまり考えられない。
わざわざ僕に見に来いと、執拗に迫ってきたのに。それだけ大会に執着していると思っていたのに。
「なんなんだよ……」
『黒』が見えるだけじゃなくて、いっそ相手の頭の中が読めるのならこれほど僕も悩んではいなかっただろうに。それはそれで、今よりも歪んだ人格が出来上がりそうだけれど。
これまで僕が『黒』を抱える人間と接してきた中で、こんな謎かけをされた状態に陥ったことはなかった。これまで話してきた奴らには、はっきりとした原因が見て取れたからだ。いや、原因ということであれば、大空翔子が本音と建前の間で苦しんでいることはわかっている。わからないのは彼女の行動だ。
僕は彼女にかけられた言葉のせいで、大会で示されたメッセージのような結果のせいで、柄にもなく途方もない使命感に駆られていたのである。僕に、あるいは彼女の周囲の人間に向けられたメッセージが昨日の結果だったのだ。どうあっても、それを汲み取ってやらなければならないなんて、そんなくだらない使命感を抱いてしまっていたのだ。
今日一日は、あるいはあと二、三日は、彼女の様子を窺うことにする。その間に彼女の変化も、『黒』の変化も見られなければ、僕は直接彼女に聞くことになるだろう。彼女のいる教室まで出向いて、もしくは勘違いも甚だしいストーカーまがいの行為もまみえて。そうでなければ僕が落ち着かない。
見えなくなるまで彼女を見つめて、僕の視線は廊下へ移動する。変に遠回りしない限り、登校してきた生徒はこの教室の前を通っていく。
少しの間待つと、大空翔子が通りかかった。一瞬、目が合う。闇の中に光る瞳が僕を一瞥した。僕が上から眺めていたことに気が付いていたのか、僕の教室だから視線をくれたのか。またまた自意識過剰かもしれないけれど。
それから僕は自分の席に着いて、また大空翔子の言葉の意味を模索し始めた。教室内の喧騒が良い意味で僕の集中力を切らし、それほど頭を悩ませることはなかった。
そして、担任の教師が教室にやってきて、僕は考えることをやめた。今日は彼女が学校にいるのだから、どうしても気になるのなら二日、三日と待たずとも今日にでも聞き出せばいい。担任の顔を見て、また今日もつまらない一日が始まるのだと思って、面倒になったのだ。
しかし、今日聞き出すという、僕にはそれを実行に移すことができなかった。
忘れてはならない、僕の考えが甘かったということだ。
二時限目か三時限目かの授業中、倦怠の中で進んでいた授業中、目が覚めるような、バサバサと、バキバキと、ザザザザと、それらが全て合わさったような音が聞こえた。大木に、大きな鳥が突っ込んだような音だった。思い浮かんだのは、校舎の横に植えられているいくつかの木々だった。
音に釣られて、外を見やるクラスメイトが何人かいて、その次に聞こえてきた悲鳴で、全員が外に目を向けた。ざわつく教室の中で、立ち上がり、外を覗きにベランダへ出る生徒が数名。授業中の教師も何事かを確認するために外に出たので生徒を止めもしなかった。
ベランダに出た生徒の顔が青ざめて、騒ぎ立て、それは一気に広まった。僕も流れには逆らわず生きている人間なので便乗して外に出て、みんなの視線の方を見やる。
血の気が引くというか、後悔めいたものが僕を襲った。
ベランダから覗き見る眼下、そこには散らかった木の枝や葉っぱが散乱していて、血だまりの中で、大空翔子が倒れていた。
放心状態の中で僕が考えていたのは、不謹慎にも、意識のない人間の『黒』は見えないんだなあということだった。