音無鈴 Ⅱ
「まるで聞いていなかった雪山登山をしたことも滅多に見れない雪景色を拝めたことだし、かなり疲れたけれどもそうそう体験できない貴重な経験だったと思うんだ。たとえ聞いていたとしても僕がキミの誘いを断るわけはないだろうし、きちんと準備していれば僕だってもっと楽を……楽しめたと思うんだ」
「それは嘘」
「うん」
今現在、僕と彼女は客室に案内されてそこで彼女と向き合っている、もとい、彼女を見下ろしている。僕は腕を組んで部屋の中央で正座する彼女にお説教をしているところなのだ。まあ彼女に反省の色は見られない。不承不承、仕方なく僕のお説教を受けているというところだ。
部屋は決して広くはない和室。エアコンは完備してるし、窓から覗く雪景色はそれはそれは素晴らしいものだとは思うけれど、それを彼女と一緒に眺めて歓談している場合ではない。
僕はまんまと彼女にはめられたのだ。
「しかししょこたん、キミは僕に対しての口説き文句で嘘はつかないと言っていたのに僕に嘘をついた」
「それは、うん……。だって……」
「言わなくてもわかるよ。キミが自分で言った通り、キミの企てを僕が知っていたら断っていたと思う」
「そうでしょー」
「昨日の夜に今日のことを直接話さなかったのも、僕に『黒』で嘘を見破られてしまうから。だからわざわざ別れたあとに電話したんだね」
「だいせいか~い」
彼女の頭に軽いチョップ。「テヘッ」お戯れである。
「あの地図だって迷ったふりをして、僕がここに来るのをやめないようにするためのものだった。目的地が不明瞭だから、とりあえず見つけられた休める場所に向かうように仕向けたんだ」
「そうだよ。こっちが本物の地図」
ばっちりのスマホ画面だった。
「僕に山登りする準備をするようにはっきり言わなかったのも、僕をここに釘付けにできる可能性を上げるため」
「ヒントは出してたよ。着替えの準備とか」
「はっはっはー。まさか神社と聞いていたのが本当は旅館だったなんて思ってもみなかったものだからね!」
「わっはっはー」
道中、彼女の『黒」が濃くなったりしたのも、僕に嘘がバレるかもしれないと思ったときがあったからだ。
「よし、帰ろう」
「真黒くん真黒くん」
彼女はにんまりと笑って窓を指差す。
吹雪いていた。
「ついさっきまで穏やかだったのに……」
「お山の天気は変わりやすいからねー」
非常に嬉しそうに言う僕の彼女であった。
「ハァ……。大体僕はお金持ってないんだよ。あとで払うにしても施設長になんてどやされるか」
「大丈夫。前払いで払ってる。ここって安いし三食つき!」
「……だからね、僕はそういうのは」
別に施されることが嫌いだとかそういうわけじゃないけれど、彼女ひとりに負担をかけるということが嫌なのだ。男の意地とかそういうものじゃない。分け合うとか、そう、彼女とは平等でありたいと思っているのだ。
「真黒くんがこういうの嫌いだってわかってるけど、これはあたしのわがままだから。だからあたしが払うのでいいの。それに、今日のために家の手伝いだって頑張ったんだもん」
「手伝いって」
「クリスマスの約束の時間に遅れたのも、家の仕事で急ぎの仕事が入ったから。お泊りとバイト代を条件で家の仕事の手伝いしてたの」
「どうしてそこまでやれるんだ」
「だって真黒くんと熱い夜を過ごしたかったんだもん!」
「だからそれが一番の問題なんだよなぁ……」
「ちなみに真黒くんのとこの責任者の人には許可をもらってます」
これが、大空翔子のずる賢さと行動力である。
「……降参だよ」
僕が頭を垂れると彼女は勝ち誇ってのブイサインだった。
「足を崩してよろしい」
「しびれたぁ~」
窮屈さから開放された彼女の前にあぐらをかいて座り込む。『黒』を知り過ぎてしまっているのも問題だな。
「真黒くん真黒くん」
「んー?」
「足しびれてるとこツンツンしないの?」
「その自分の欲求に正直なところはもはや尊敬に値するね」
ツンツンどころか「ぎゃあーーーー」足を鷲掴みにしてやったことは言うまでもない。
しかも聞くところによると二泊三日の予定だそうな。
本当に、着替えどうするんだよ。
「この狭い部屋で男女が二人……くふふ。これはいくら真黒くんでも男の性には逆らえないはず」
「知ってるかい? モテキャラってのは無欲の心じゃないと成り立たないんだ」
「モテキャラ自覚すんなこらぁ」
彼女が僕に飛びかかろうとしたときに、僕のスマホの着信音が鳴った。彼女を手の平で制してスマホを覗くと、その画面には見たこともない番号が表示されていた。
間違い電話だろうとそのままにしていたけれど、一度切れたあともまたすぐにかかってきて、諦める気配が全くなかった。
「彼女の前で知らない番号の電話取らないなんて、浮気の可能性ありだよね」
別にやましいことなんて何一つないけれども、彼女ももちろんそれをわかってて言っているのだろうけれど、これからの時間で彼女に優位性を与えるわけにはいかないと僕は着信に出た。
『真黒先輩! 一体どこにいるんですか! 大空先輩からちゃんと――』
ボタンはないけどポチっとな。
「女の人の声がした」
「その女の人に僕の携帯番号を教えたのはどこのどちらさまで?」
「……おおっ」
「一気に帰りたくなくなってきたよ……」
彼女とお泊りデートしてきたなんてあの子にバレたら本当に僕は春を迎えることなくこの人生を終えることになるかもしれない。もう、バレてるんだろうけど。
施設長には彼女から事情を話しているということなので、スマホの電源は落としておこう。ひっきりなしに着信があってはたまったものではない。居場所がバレでもしたら今日のうちにあの子ならこの場所に現れるだろう。僕の彼女のことに至ってはものすごい行動力を発揮するはずだ。
「それで、この旅館を選んだ理由は何なんだい? 何かしら理由はあるはずだろ? 何か名物があるとか」
彼女は一度考える素振りを見せて、窓際に立って威勢よく言い放つ。
「雪!」
「……それはこの旅館の名物というわけじゃないだろう。雪景色は綺麗だけど」
「うーんと、じゃあ温泉?」
「女の子ならそっちに関心示そうね」
「美肌効果あるらしいけど、ほら、あたしって元々美肌だし」
「料金が安くて、たどり着くまでに体力を要して、素性を話しても特に何も問い質されなかった旅館をキミは選んだんだ」
「わかってるじゃーん」
「正座」
「はい」
再び命じた正座に素直に従うところは、もはや僕にはどうしようもないとわかっているからだろう。これも彼女の勝ち誇ったお戯れなのだ。
そういうところで、部屋のドアがノックされた。すぐに返事をする彼女を僕は嫌みったらしく軽く睨んだ。
「失礼します」
ドアの内側の襖を開けて入ってきたのはこの旅館の主、女将だった。
「あら」
そして僕が彼女を正座させている光景を見て、女将は切れ長の目を細め、ひとつ咳払いした。女将の『黒』が少しだけ濃くなる。
「亭主関白という言葉がございますが、それほど可愛らしいお嬢さんを正座させて叱り付けるのは感心いたしませんね」
「あ、いや、僕は亭主とかではなくて、これも別に叱り付けてるというわけでは」
「冗談です。とても叱られている人の表情ではございませんもの」
女将は悪戯っぽく笑い彼女に視線をくべる。彼女はそれを受け歯を見せ笑い返すのだった。
どういうことだ。僕は女の敵だったのか。そして女将の『黒』の晴れ具合を見ると、僕をからかうのに多少の躊躇いがあったことを感じさせる。勝手に良い人認定。
「お食事のご用意ができましたので、食堂の方へお越しくださいませ」
食事……。そういえば朝は彼女からもらったミカンしか食べていないし、それで雪山を登ってきたのだった。言われると空腹感が押し寄せてくる。
女将が下がったことを確認して、僕は彼女に尋ねた。
「こういう旅館って、部屋に食事が運ばれてくるものじゃないのかい?」
「うーんとね、さっきも言ってたけど、ここはあの人ひとりで切り盛りしてるんだって。だから連泊しても部屋の掃除はないし、寝床の用意も自分でやらないといけないの。食事は食堂で、宿泊客のひと全員で食べるようになってるんだって」
「なんか、学校の宿泊行事を思い出すね」
「あ、苦い思い出だよね」
「誰も苦い思い出なんて言った覚えはないし学校行事についてキミと話したこともない」
「違うの?」
「いやそうだけど……」
彼氏がそういう奴だと理解して付き合ってくれてるのは改めてありがたいものだと思う僕だった。
まあこうして話していても仕方がないので、僕と彼女は食堂へ向かった。
食堂の場所は旅館の玄関を入ってすぐ見える二階への階段の横の廊下を奥へ行った場所だった。
最初に女将が現れた場所だ。
ちなみに僕と彼女の部屋は階段を上ってすぐ左手側の部屋。廊下を挟んで正面に二部屋あり、僕たちの部屋の隣に一部屋。後で聞いたところ昔は一階にも客室があったらしいけれど、女将がひとりで経営するようになり、今は二階の四部屋しか客室としては使われていないらしい。
食堂へ着くと、そこは少し大きめのダイニングキッチンといった様子だった。奥の台所はさすがに見えないようにのれんがかけられて仕切りがしてあるけれど、あとは部屋の中央に十人ほど座れそうな大きなテーブルが二つ繋げられて、食器棚が壁に並んでいた。年月を感じさせる古めかしい振り子時計と、その横にかけられたカレンダーが安心感と落ち着きを与えてくれる。
二セットだけ容易されていた箸と茶碗、湯のみが置かれていた席に彼女と腰掛ける。
「ご足労いただき、申し訳ありません」
僕たちに気がついた女将が、急須を片手に台所から顔を覗かせた。
それから、僕たちの湯のみにお茶を注いでいく。さすが様になっているというか、この女将が淹れてくれたというだけでお茶のうまみが増しそうな気がした。
「少し遅い昼食になりますので、軽めのものをご用意いたしました」
言われて壁にかけられた振り子時計を見ると、午後一時半過ぎ。部屋でどれだけ彼女と戯れていたかわからないけれど、昼までにここに着きたかったという彼女の思惑は果たされていなかったようだ。
一度台所の奥へ下がった女将の姿を見送って茶をすする。冷え切っていた体に染み渡る心地よい香りと味だった。
昼食は地元で獲れた魚の切り身を使った出汁茶漬けだった。軽め、ということだったのはおそらく夕飯までの時間があまりないからだろう。お茶に引き続きだけれども、冷え切っていた体にありがたく、そしてめちゃくちゃほんとにおいしかったので、何か話しかけてきていた彼女のことはほっぽって僕はあっさりとその茶漬けを平らげていた。
彼女も食事を終え、僕と一緒に茶をすすりながら一息つく。
「すっごくおいしかったです! 全部女将さんが作ってるんですよね?」
空いた器を片付けに来た女将さんに彼女が尋ねる。
「ええ。二年前に主人が他界してからは、私がお料理を提供させていただいております。それまでは、主人が料理をしていたのですけれど」
「へぇー」
未亡人か。いや、特に深い意味はない。
「不十分なサービスしかできないことは承知しているのですが、板前だった主人と、旅館を経営したかった私の夢を叶えた場所ですので、手放す気にはなれないのです」
今日初めて会ったばかりの僕たちにそんなことを言ってしまうのかと思いきや、これも不十分なサービスしかできないということを改めて承知してもらいたいがための過去の話しなのだろう。穏やかな表情で話す女将。『黒』にも変化はなく、旦那さんが亡くなったことにはもう気持ちの整理はついていて、良き思い出として残っているのだろう。
自然と詮索してしまう、僕の悪い癖だな。
「今日は何人宿泊してるんですか?」
それは僕も多少気になるところだった。食事は宿泊客全員でここでとるということらしいので、心の準備をしておかないといけない。大人数で同時に食事をすることについては施設で慣れてはいるものの、初対面の面々と同じ食卓を囲むとなれば話しは別だ。なるべくは関わらないようにこの三日間を過ごしたい。
「他のお客様はお二人ずつの二組、四名様にご利用いただいております。お客様方を含めると六名様になりますね」
「六人かー。それじゃあ夕飯はお鍋とかかな?」
げっ。鍋とか勘弁して欲しい。
「片付けも楽ですしね。あら、口を滑らせてしまいました」
悪戯っぽく笑う女将。片付けを手伝ってもいいから個別に食事を出して欲しいくらいだ。
「何分狭い宿ですので他のお客様とお顔を合わせることもあるかと思いますが、どうかご容赦くださいませ」
その辺りはしょこたん任せなのでばったり出くわしたとしても彼女に丸投げだ。
それから僕と彼女はお茶をもう一杯ずついただき、食堂をあとにしようとした。
「お客様」
そこで女将に引き止められた。
「この食堂よりまた少し奥へ行ったところに私の自室があるのですが、そこは客室とは違いとてもお客様へお見せできるような部屋ではございませんので、絶対に覗いたり、ましてや立ち入ったりなさらないようにお願いいたします」
深く頭を下げながら女将は言った。その『黒』さから察するに本当に重大な女将の秘密があるに違いない。これは滞在中に隙を窺って部屋を覗き見るしか……。
「絶対に」
「は、はい」
女将の恐ろしい笑みの前に、僕も彼女も頷くしかできなかった。
その女将の『黒』を垣間見た食堂から部屋への帰り道、さっそくといった感じで他の宿泊客に遭遇した。
親子。
誰が見ても、彼女が見ても僕が見ても、女将が見てもそれは親子だった。ここで親戚の子を預かって旅行に来ている、といったつまらないオチはない。
正面から近づいてくる二つの足音。
それに対し顔を背けるか、はたまた毅然と無視するのが当然のように振る舞い狭い廊下をすれ違うのか、僕がその二択に対して答えを出す前に彼女の口からは彼女の声が発せられていた。彼女の口から彼女の声が出るのは当たり前なのだけれど、それが当たり前のような当たり前じゃないような、まあつまり僕のことなんてお構いなしな彼女なのである。
まあ、『黒』い。
きっと相手の方は僕が選択肢として上げた内の一つを選択したかったはずだと思うくらいには『黒』かった。
「こんにちは」
と。そして、
「こんにちは」
と、当然のように返ってくる。
こちらの挨拶はひとつ。返ってきた挨拶もひとつ。
二つの『黒』の内の小さい方の『黒』は僕たちから身を隠すように大きい方の『黒』にしがみついていた。
親子、と言った通りに、笑ったのか笑っていないのかわからない笑みを浮かべて挨拶を返してきたのが母親だった。そしてその影に隠れているのは小さい女の子。
「あたしは大空っていいます。さっき着いたばかりなのでお昼は一緒じゃなかったですけど、夕飯は一緒になるみたいなので、一応ご挨拶です」
まあ、僕は敢えて名乗る必要もあるまい。どうせ顔を合わせたとしても話すことはないんだし。
「これはご丁寧に。私は音無といいます。この子は娘の鈴です」
音無母親は少しだけ表情を綻ばせ娘の紹介を果たした。
それから彼女は娘っ子の前にしゃがみ込んだ。
「鈴ちゃんかー。かっわいいねー。あたしの名前はね、翔子っていうの。もし時間があったら遊ぼう?」
「…………」
音無家の娘、以下鈴は、ほとんど無表情で小さく頷いた。前髪が目をほとんど覆っている、黒いさらさらの細い髪。暴力的な僕の後輩の小さい頃はこんなだったのではないかと思うくらいに、えみりぃんに似ている。
「ごめんなさい。この子、喋れないんです。音の方は微かに聞こえているようで、口元と言葉で何を言っているのかは理解できているみたいなんですけど」
申し訳ないとは微塵も思っていなさそうな、無表情。あまり関わって欲しくなさそうな様子にも感じられた。
「あ、そうなんですか……。じゃあ、雪が止んだら一緒に雪だるまでもつくろっか」
「雪……」
「えっ?」
音無さんが小さく呟くと、親子ふたりの『黒』が濃くなった。
「雪、ひどかったでしょう」
「あー、はい。なんとかたどり着いたって感じでした」
「良かったですね、無事で。それでは、部屋の茶葉が切れて女将さんにいただきに行くところでしたので」
「あ、引き止めちゃったみたいでごめんなさい。じゃあ、また夕食のときに。バイバイ、鈴ちゃん」
それが聞こえていたのか聞こえていなかったのかわからないけれど、鈴は下を向いて、母親のあとをついていった。
ふたりが去ったあとに、何とも言えない重い空気が漂う。
「失敗したかなぁ……」
「旅先で会っただけのただの宿泊人同士。失敗も成功もないさ」
「失敗しかない真黒くんに言われてもなぁ」
「あれ、僕って今キミを慰めたはずなんだけど」
「部屋であたしの身も心も思いっきり慰めて?」
調子に乗る彼女を置いて部屋に向かう。
彼女は何事もなかったように「さむさむぅ」と肩をさすりながら隣に並んできた。僕の返答を予測してからかう。思っていることが実際に返ってくることが面白いのかどうか考えながら、しばらくエアコンをつけっぱなしで暖まっていた部屋に戻ってきたのだった。
「ふあー、あったまってるあったまってるぅ。っていうか暑い。うん、暑い暑い」
お決まりのパターンで申し訳ないところなのだけれども。
暑い暑いと呟きながらどんどんと着込んでいた服を脱いでいく彼女。
そしてついには上はキャミソール、下は下着姿となってしまわれたのだった。
言っておくがここまでの彼女の姿を見たのは初めてである。
「あれ、真黒くんは脱がないの?」
僕は無言で窓を開けた。
「ひゃあああああああああああっ!!」
白肌と 雪が降り込む 旅の宿 真黒真白
良い句が書けた。
今宵の旅、何事もなく終わればいいのだけれど。
女将の忠告とあの親子の『黒』と窓を閉めればいいのに急いで服を着ようとして転び転がる彼女を見て、僕はしみじみそう思うのだった。




