音無鈴 Ⅰ
『初詣に行こうよ、真黒くん』
そんな電話を僕の彼女、大空翔子からもらったのは大晦日が過ぎて年が明けてすぐのことだった。ついさっきまで一緒にいたので新年を祝う言葉はお互いに贈り合ってたものの、そのときには初詣のことなんて頭になかったのだろうか、そんな話題は一切出なかった。まあお互いに一緒に年を越せて嬉しいね、これからもずっとずっと一緒にいようねなんてことを言い合ったり思い合ったりしたりしていなかったりしていたので、翌日の予定のことなんてそのときのハッピー浮かれ心の僕たちにはなかったのかもしれない。
『有名な神社があるから、ちょっと遠出になるけれどいいよね?』
詳しい場所は知らされなかったし、僕もさほど興味がなかったので『初詣』というキーワードのみを聞いて快くその提案を承諾した。
こういうイベント事を好む彼女のことなので、こちらとしては大晦日から元旦まで連れ回されることは予想の範疇だったのだ。
僕としては、本当は人ごみの中に身を投じることは避けたいことなのだけれど、まあ彼女の提案ならば仕方ない。彼女と一緒に過ごすのならば、周りの『黒』のことなんてなーんにも気にならないのだ。それも年明け早々ならみんなの『黒』は薄い。ハッピーヤッピーだからねみんな。しかしまあ必死に境内でお願い事をしている人は『黒』が濃い。大体は受験生だ。合格祈願で正月もろくに祝うことができない受験勉強のストレスに苛まれている。
まあともかく、僕は彼女と元旦の早朝から初詣に行くことになったのだった。
「でも、新年早々大雪が降るってことだけど大丈夫なのかい?」
これは彼女の年越しを迎える前にわかっていたことだった。彼女のことだから新年を迎えたあとそのまま初詣も初日の出も一緒にーなんてことになるかもしれないと思っていたけれど、彼女の方から雪が降るから早く帰るように促されたのだ。
『大丈夫。むしろ好都合だよ』
「えっ?」
『あ、いやいやー、うん、何でもないよ。そうそう、さっきも言ったけどちょっと遠出だから、本当に、万が一のときのために、着替えとか用意してた方がいいかもしれないよ?』
「どう万が一があって遠出が理由で着替えが必要になるのか僕にはわからないんだけど」
『それはほら、あれだよ、雪合戦とか?』
「子供じゃあるまいし」
『まだ真黒くんに大人にさせてもらってないかわいそうな翔子ちゃんなのです』
「大人の条件はそんなことじゃない」
『ぶー。まあとにかくね、準備だけはしっかりね、真黒くん』
「あーはいはい」
『ちゃんとわかってる? まあいいや。じゃあ朝早いからもう寝るね。真黒くんもちゃんと睡眠とっておくんだよ』
「うん。僕もそろそろ寝るよ」
『じゃあおやすみー』
「おやすみ」
たかが初詣。
賽銭箱に投げ入れる小銭だけ用意しておけば問題ないだろう。
その後、彼女から朝の集合場所のメールが届いた。
「……駅?」
僕は自分の財布の中身を改めて確認して、少し遠慮してなすびの夢でも見れないかと思いながら眠りについたのだった。
翌朝。
「……完全武装だね」
「もー、ちゃんと準備してきてって言ったのに」
駅で落ち合った彼女の格好はそりゃあもう完全武装だった。ニット帽にイヤーカフとネックウォーマー、防御力高そうなパンツに底の厚いブーツ、動きやすそうなダウンジャケット。そして大きめでパンパンに膨らんでいるリュックを背負っていたのだ。
そんな彼女に対して僕は言ってみれば普通の格好だった。ちょっとそこまでのスタイルである。寒さを凌げるように水鏡杰からちょうだいしたマフラーは装備してある。
「なんか、山登りでもするような格好だね」
「雪道はサバイバルだよ! 舐めてちゃいけないよ真黒くん!」
鼻息荒く詰め寄る彼女。何か雪道で派手に転んだとかそういう思い出でもあるのだろうか。まあ彼女は陸上少女だったから夏の方が合うのかもしれない。
彼女がそこまで気にするほど、天気予報で言っていたほど、雪は降っていない。肌に突き刺さるような寒さで息は白く、路肩に少し雪が積もってはいるけれど、歩道に雪はない。歩くのに支障は全くないのだ。まだ、という言葉を付け加えなければいけないかもしれないけれど、それでもこの様子だと警戒するほどのことでもないだろう。
「それで、今日はどこまで行くんだい?」
朝の挨拶を済ませ、駅の構内に進みながら尋ねる。今の時間はまだまだ暗い、始発も走っていない、そんな早朝である。駅の構内にも人は数えられる程度しかいなかった。まだまだ眠くて、凍てつくような寒さの力を借りても頭が冴え切っていない僕だったけれど、彼女はこんな早朝から元気ハツラツだった。
「ふっふーん、それは秘密。着いてからのお楽しみ!」
周りに誰もいないことをいいことに、ぴょんぴょん飛び跳ねながら答える彼女。夜中に思い出したように初詣のことを言っていた割に随分と楽しみにしているようだった。
サプライズを用意しているようだけれど、さてそれに対して僕はどういうリアクションを取るべきだろうか。今年も一発目から彼女にリードされっぱなしである。
「あと十五分くらいかぁ」
彼女が時刻表を見ながら呟く。僕はそのあと15分という始発の時間の情報を元に行き先を探る。
「ちょっ」
見てみれば行き先は県外だった。遠出とは言っていたけれどそこまで遠かったとは。まあ行き先に別に問題があるわけじゃないけれど、僕は寝る前の記憶をそこで辿った。財布の中身である。基本的に必要最低限のお金しか持たせてもらえない僕にとって、県外まで行く電車賃となると財布の中身が心許なかった。
うん、往復の電車賃、それに昼食代、それで終わりだった。初詣先の神社でお守りも買えない。
「はい、真黒くん」
時刻表を呆然を見上げていた僕の目の前に差し出されたのは切符だった。
「何日か前に買っておいたの」
行く気満々だった割に前日まで僕に伝えるのを忘れていたのか。
彼女が差し出した切符を受け取って、それをしまおうと財布を取り出す。
「ありがとう。ちょっと待ってね」
「あ、お金はいいよ」
「いやいや、そういうわけにはいかないよ」
「お年玉もらったから」
「甘えるよ」
いやいや待って欲しい。普段の僕ならばいくら彼女がお年玉をもらっていたからといってきちんと切符代くらいは払うさ。今日は行き先も聞いていなかったこともあってこっちも準備不足だったのだ。万が一にも彼女が財布をなくしたとかいう場合を想定して、資金は分けて持っておいた方がいい。決して自分の金惜しさではないのだ。それにこれで昼食をおごることができる。男の沽券がここに懸かっているのだ。
それから待つこと15分。途中の雑談で初詣の最終行き先を聞き出すことはできずに、僕と彼女は電車に乗り込んだ。
ガラガラの座席の中でも隅の方を選んで座ってしまうのは僕のサガだ。それについては彼女も承知の上なのでいちいち座る場所のことを指摘したりもしない。
「ふぅ……」
重そうなリュックを座席に置き、彼女は腰を落ち着ける。ニット帽とネックウォーマーを外し、乱れた髪を直しながら微笑んだ。チャームポイントであるヘアピンはニット帽の中にも健在していた。
「朝ご飯食べてきた? 真黒くん」
彼女はリュックの中からビニール袋に詰められたミカンを取り出した。その中のひとつを僕に差し出す。
「ありがとう。何から何まで世話をかけるねぇ」
「うふふ。百年後も同じこと言ってね」
相変わらずのはふはふぶりである。日本最年長カップルを目指すのだ。
「ところで、行き先の神社の名前わからないから目的地と言っておこうか。どれくらいで着きそうなんだい?」
この歳になるまで電車を使って県外に出たことはない。大体の場所はわかるけれどそこまでの所要時間に関することは何もわからないのだった。それに、彼女の格好からするに多少なりとも徒歩で移動することも考えられる。今から心構えしておいてもいいだろう。
「このまま電車で一時間ちょっと……かな。それからはどれくらいかかるかわかんない。行ったことはないんだぁ」
「ふぅん」
一時間か。結構長いな。
僕の気のない返事を聞いた彼女は、小さく笑う。
「どうしたんだい?」
「だって、こういうちょっとしたものだけれど、旅行みたいなもの、真黒くんと一緒に行くの初めてだから嬉しくて」
「またそういうこと言って、このまま連れ去って欲しいのかい?」
「それでもいいよー。はい」
にっかりとしょこたんスマイルを添えて、皮を剥いてしまったミカンを僕に向けて放り投げる。慌てて落としそうになった僕を見て、また彼女は笑った。
新年早々、僕自身の『黒』は全くもって姿を見せないのだろうと、満たされた気持ちを実感しているのだった。
僕に嘘はつかないと、僕の心を陥落させた彼女。大空翔子。その屈託のない笑顔に、いつまでも僕の心は救われ続けていくことだろう。
…………
…………そう思っていた時期が僕にもありました。
彼女とはふはふトークを繰り広げた電車の旅も名残惜しくも終わり、彼女に手を引かれいざ目的地へ向か出だす。
どうしてここで引き返さなかったのかと、後の僕はこの時の僕のことをいつまでも責め続けるだろう。
「バスを待つよ」
電車を降りて着いたのは、見渡せばどこにも山が連なり、田んぼと畑に埋め尽くされている田舎だった。田んぼの脇に家屋が点々と建ち、人の気配なんて全くなかった。
スマホの電波は、一応届いている。
彼女の後ろからバスの停留所の時刻表を覗き込むと、一日のバス本数はわずかに五本。朝昼に二本ずつ。あとは夕方に一本来るだけだった。今この時、正月の元旦に至っては朝夕の一本ずつだった。移動してしまえば少なくとも夕方まではこの場所に戻って来れないということである。
「有名な神社って割りには人がいないね。この時間のバスを逃すともう次は夕方だろう?」
そこで、彼女の『黒』が少し濃くなった。
「ああ、うん。そうだね。もしかして、今はそんなに人集まらないのかな」
意気揚々と僕を連れて来たのに、今は人気のない神社だとしたら彼女も落胆するだろう。
「僕にとっては人がいないのは好都合さ。それに、ご利益ってのは人が集まるかどうかで決まるものじゃないんじゃないかい?」
「だ、だよね! 真黒くんの言う通り! この先におわします神様のご利益はあたしたちが二人占めだぜぃ!」
ポジティブシンキングしょこたん。彼女の『黒』調節ももうお手の物なのだ。
それにしても、うん、バス代までかかるとは予想外だった。切符もらっておいてよかった。
「あっ」
彼女が空を見上げる。
「降ってきたね」
見渡せる山々の中腹から頂上付近には白く雪化粧されていた。僕たちが住んでいる街じゃああまり見られない景色だ。
「ぜーんぶまっしろになっちゃうかな」
「それはそれは水鏡杰が喜びそうだね」
「あたしといるときに他の女の子の話ししないのー」
「『白』『黒』わかる奴同士のジョークだよ」
「わかってるし」
むくれた彼女の頬を指で押す。彼女は「冷たい」と僕にお返ししてくるのだった。
ベンチに僅かに積もっていた雪で雪だるまを作って時間を潰していると、じゃりじゃりと音を鳴らしながらタイヤにチェーンを巻いたバスがやってきた。彼女が自己の存在を手を振ってアピールし、誰も乗客がいないバスに乗り込む。優しそうなバスの運転手は乗り込んできた僕たちににこりと笑いかけた。
特等席である最後尾に彼女と座り、田舎の雪景色を眺める。彼女は隣で紙を広げ、降りる場所を確認しているようだった。ここまで来てもどこに行くかはまだまだ秘密のようだった。
それから30分ほど雪の中を行くバス観光を楽しみ、山中にあるバス停でバスを降りた。完全なる田舎道。アスファルトで舗装された道路が違和感を与えてくるくらいには山の中だった。
「ここからは歩くよ、真黒くん」
「歩くって、見る限り何もないところなんだけど」
本当に、うん、しつこいくらいに言えるほど山しかない。
それに、だんだんと降り落ちる雪の量も増えてきた。正直この中を歩くというのは気が進まないのだけれど。
「あっちあっち」
彼女が指差した先を見ると、古ぼけた看板が見えた。ただ板に文字だけが書いてある、いかにも秘境を思わせる看板だった。しかも廃れてしまっているようでその文字さえよく読めない。
「ちょいともにょたん。本当にここで合ってるのかい? 大丈夫なのかい? 行って何もなかったとかないだろうね?」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと確認したから。それにさ真黒くん、こういうところだからこそ、行く意味があるってもんじゃないのかな!」
目を輝かせる。彼女が楽しそうなのは何よりなんだけれども、しかしこれは、ちょっとした登山にもなりえるのではないだろうか。
看板に描かれてある矢印は山の奥に向かっているのだ。その先を見ると確かに道はあった。獣道とまではいかないけれど舗装もされていない山道だ。狭くて暗くて、ここに何かあると知らなければ絶対に足を踏み入れることはないだろう。
ただ、少し積もった雪の上には人の足跡があった。たしかに何かあることは間違いはなさそうだった。
「キミのその格好って本当に……」
「ん? 真黒くんにもちゃんと準備してきてって言ったでしょ?」
「山登りするなんて一言も聞いてなかったんだけど!」
「だーいじょうぶ大丈夫ぅ。真黒くん男の子だし、ここから先は歩くって言ってもそんなに距離はないはずだからぁ」
「僕よりもキミの方が体力あることは明らかなんだけどね」
「細かいことは気にしないの。ほら行こ。お昼までには着きたいからさ」
「いや、昼って……」
まだ八時前なんだけど……。
「まさかキミ、僕をこの誰も見つけてくれなさそうなところで亡き者にするためにッ」
「時間稼ぎしようとしても行くものは行くんだからとっとと行くよー。真黒くんが疲れたらあたしが引っ張ったり押したりおぶったりしたげるから」
「うっ……」
「さーしゅっぱーつ!!」
と、勢いが良かったのも初めのうちだけだった。
初めのうちは雪道を歩く新鮮さに僕も心を躍らせていたものだったけれど、時間が経つにつれて雪はだんだんと強く降ってきて、自分たちがつけて足跡もものの数分後にはきれいさっぱりとなくなってしまうほどだった。
ズボンの裾まで雪に埋まり、一歩一歩がすごく重い。装備だけは整えてきた彼女も、足の沈み込む深さが深くなるにつれて口数も少なくなっていき、後ろからついてくる僕を時折振り返って確認するだけで黙々と山奥に向けて進んでいた。
休憩しようにも、気温もだんだんと下がってきているようで、むき出しになっている肌が痛い。まだ体を動かしている方が気も紛れて楽に思えた。それに現実問題として、この山中で歩みを止めるほうが危険な気がしていた。このまま雪が降り積もり続ければ歩くことさえ困難になるのは明らかだったのだ。
はっきりと見えていた山道も雪が降り積もるにつれてどこが道かよくわからなくなっている。道らしきものを見つけるたびに彼女は立ち止まり地図らしきものに目を落としていた。
「うーん……」
そして完全な分かれ道のところまで来たところで、彼女が左右を見回しながら唸った。
「道、どっちかわからなくなったのかい?」
少し遅れて後ろに立った僕に彼女は振り返り、困った笑顔を見せた。
「あはは……たぶん、こっちだと思うんだけど」
彼女は左右に分かれた道の右側を指差す。
「たぶん……ね。ちょっとそれ見せてもらっていいかい?」
もうかれこれどれくらい歩いたかわからない。スマホを取り出して時間を確認しようにも、そのために手袋を外すことがおっくうで時間も確認しなかった。一時間か二時間か、もっと長い時間歩いたような気がする。いや本当に、サバイバル。今じゃもう生き残りを賭けての選択肢にさえ思える。まあこれが僕の彼女と一緒に最後を迎えることになるというのなら、それはそれで構わないような気がするのだけれど、それを口にしようものなら機嫌を損ねてしまいそうなので言わない。それに、一応は最年長カップルというのも目指していたりするのだ。こんなところで朽ち果てるわけにもいくまいよ。
彼女から地図を受け取り目を通す。
「もにょったーん」
愕然とした。
「真黒くんがそういうあだ名をさらにもじって口にするのはなんだかシュールな気がするよ」
「まだまだ余裕だねもにょたん。それはそれとしてこれは一体何か説明してもらおうかベイビィ」
「説明も何も、見たまんま地図じゃん」
「こんな映画の中でしか見たことのない宝のありかを示すような地図は現代では地図とは言わないんだよ!」
ご想像していただいた通りのあれであった。
紙こそ腐敗してはいない新品のノートの切れ端だけれど、下の方にバス停と書かれたマークがあって、それから山の中に向かって波打つ線が一本。そーしてそしてその先に書かれたバッテン。
「僕はいつからこんな雪降る山の中で宝探しをしていたんだ」
「あっははは、やだなあ。宝物なんてないよー」
「わかってるんだけどね。もう、ね。ほんと、宝の山でも当てなきゃ割りに合わない気がしてるんだよ」
「あたしと初めてのハイキング! お宝物の思い出だね!」
「うん、暖かくなってからにしようねそれ。仕方ないからスマホで地図検索しよう」
「住所わかんないから」
このもにょたんはもう本当にもう……。肝心なところが抜けているというか手を抜いているというか曖昧というか適当というか…………帰りたいかもしれない。普段は顔を出さない施設のお雑煮パーティーに参加したい。温もりが恋しい。
「よーし真黒くん! こっちだぁ!」
「あー、うん。キミが元気なうちは大丈夫な気がしてきたよ。これがハイキングだと言うのなら、楽しくはふトークしながら行こう」
分かれ道を右に折れ、再び山道を進み始める。
会話を弾ませながら、時折作詞作曲彼女の歌に耳を澄ませながら、着実に山を登る。
周りはもう白一色で、木々の開けた場所を道だと認識して進んでいた。道なき道を進む、ゴーイングマイウェイである。宝の地図を見たときから、再び歩みだしたときからどこか僕も吹っ切れていた。そこにあるものを見るまでは帰れないのだ。
あの分かれ道からは、それほど時間は経ってないように思えた。
木々の間を抜けた先に、開けた場所があったのだ。
「お、おお……」
期待に胸が膨らむ。ようやく、僕はようやく宝と合い見えることができるのかもしれないのだ!
もはや吹雪となってきた山中で視界も悪い。
その吹雪の先に、わずかながらの光を見つけた。
目を凝らし、吹雪の先にあるものを確認する。
小屋……いや、もっと大きい、建物だ。
途端に安堵する。
神社には見えないけれど、とにもかくにも雪を凌げる場所を見つけた。光が漏れているということは誰かいる。つまりあそこには暖がある可能性が高い。
僕と同じように建物を眺めていた彼女の手を引いて、僕はその建物を目指した。
「とりあえず、あそこで休もう! この雪の中じゃどのみち神社に着いたところでおみくじだって引けやしないよ!」
風の音で聞こえづらいので隣にいても大声を出す。これは滅多にない僕の要求を通そうという行為なのだ。多少強引にでもあそこに連れて行き休む。そのうえでまだ先に進もうと言うのならばせめてもっとちゃんとした防寒具を借りなければいけない。詳しい神社の場所も尋ねなくてはなるまい。
少し抵抗するかとも思ったけれど、案外あっさりと彼女は僕についてきた。それも不満そうな顔どころか嬉しそうだったのだ。僕の男らしい行為に惚れ直したか、彼女ももう疲れ切っているのか。
息を切らし、建物の前にたどり着く。
一軒家……にしては少し大きい建物だった。昔ながらの日本家屋といった趣で、外から見るだけでも部屋がいくつかあるのがわかるほどには広い。入り口らしきものはどうやら一つしか見当たらないけれど、二階建てで横に広い建物で、右側にある池らしいものは雪で覆われていた。
こういった建物には見覚えがある。でもこんな誰も寄り付かなさそうな山の中に?
入り口、玄関の上に看板らしきものが掲げられてある。古風な様子で文字だけ書かれた看板だ。
『旅館 やまのた』
看板にはそう書かれてあった。
僕の予想は的中した。
旅館……旅館か。
お金の持ち合わせはないけれど、吹雪が収まるまで休ませてもらえるだろうか。
どうしようか迷い彼女を見ると、ぽかんと口をあけて看板を見上げていた。
どのみちこのままというわけにもいかないだろう。軒先のひとつでも貸してもらえるように話しだけでもするしかない。
僕は意を決して、玄関を開けた。
それと同時に肺の中に満ち渡る暖かい空気。白い世界から暖色の世界へ。木の香りと何か腹の虫をかきたてる匂いが安心感を与えてくれた。
僕たちをまず迎えてくれたのは広々とした土間。その真ん中にずしりと陣取る煙突が抜ける薪ストーブ。左側には大きい靴箱が居座り、そこから上がると薄暗い階段が二階へと続いていた。古い家屋だと見ただけでわかる。それがかえって新鮮だった。
玄関を閉め吹き込む雪を遮り、旅館の主との邂逅を求める。が、しばらく待っても誰も現れなかったので呼んでみることにした。もちろん彼女が。僕は大きい声を出すのは苦手なのだ。
「ごめんくださーい!」
それからすぐに、階段横の奥に伸びる廊下の奥から慌しい足音が聞こえてきた。
現れたのは、着物を着た女性だった。息を切らしながら僕たちの前に立ち、エプロンで手を拭きながら女性は言った。
「あらあらごめんなさいね。ここ、今は私ひとりでやっているもので」
見た目は若い、まだ三十台といったところだろうか。真っ黒の髪をきれいに結って、上品な化粧をしている細身の若女将だった。切れ長の目が微笑み、その場に膝をついて手を床に添え深くお辞儀する。
「ようこそ、旅館やまのたへいらっしゃいました。ご予約のお客様でございますね?」
そしてそう言った。
「あ、いえ僕たちは――」
「はいっ」
「…………」
……はい? ちょっと驚き通り越して声にもならなかった。よくもそんなすぐにバレる嘘をつくもんだぜしょこたんや。ほらほら、キミの『黒』は膨らんでるよ。冷や汗までかいっちゃってるんじゃないのかい? 嘘をつくなら僕に任せておいてもらいたいもんだぜ。
それから女将は顔を上げ、また切れ長の目を細めた。
「大空翔子様、真黒真白様、この雪の中ようこそ。大変でしたでしょう? 私はこの旅館の女将、島津百合子と申します。御用があるときはどうぞお申し付けくださいませ」
「お世話になりますっ」
「…………」
……はい?
おいおいまた声にならなかった。
いや……え?
……予約?
嘘……だろう?
それから僕に向けて引きつった笑みを浮かべる彼女を見て、僕はいろいろと合点がいったのだった。




