大空翔子 Ⅲ
僕が初めて大空翔子と話してから数日後のこと、僕は再び陸上部の練習場である総合グラウンドへ足を運んでいた。
校内で彼女と話す機会などないので、僕が彼女と接するためにはわざわざ陸上部の練習が終わるのを待つ必要があるのだ。もちろん、学校内で僕から話しかければいいわけだけれど、そんなことをしてしまえば僕は周囲の注目を浴びてしまうことになるだろうし、根暗な奴に話しかけられて大変だろうなあと周りに気遣われる大空翔子のことを考えると、校内で彼女に話しかけるような愚行はやめておいた方がいいのは明確なことである。
例によって、ある程度の部員が帰ってしまうまで僕はグラウンドの片隅で待っていた。大空翔子は三日後に控えた大会のため、今日も残って練習する様子だ。彼女とよく話している部員が先に帰ったため、おそらくはそうなるだろう。
大空翔子を除く部員が彼女に別れの挨拶をしたころを見計らい、僕は物陰から姿を現し、スタンド席へと腰を落ち着かせた。
彼女は今日もせっせと、ひたすらに幅跳びをやっている。改めて見ていても、やっていて何が面白いのか、見ていて何が面白いのかも、わからない。
よくやるよなあと思う。
真っ黒になってまで、よくやるよなあと思う。もちろん日焼けのことじゃない。
前回、僕がここに来た翌日に多少薄らいでいた彼女の『黒』は、大会三日前を迎えて以前よりもさらに濃さを増していた。
気味が悪い。
僕から見ると、人の形をした闇が走り回っているようにしか見えない。その闇に影がついているのだから、それこそ気味が悪くて、気色悪かった。
しばらく練習風景を眺めていると、彼女は僕の存在に気が付いたようで、助走位置から手を振ってきた。
いつ僕と彼女は手を振り合うような仲になったのだろうと疑問に思いながらも、僕はそれに振り返すことはなく、頬杖をついたままその様子を眺めていた。
僕のような人間によくある勘違いとして、僕の後ろに誰かいるのではと思ったけれど、その時は振り返って確認するようなことはせず、彼女が助走をとった辺りで振り返って背後を確認した。誰もいなかった。間違いなく僕に向かって手を振っていた。
それはそれで安心したような気持ちになったけれども、やはり僕と彼女は手を振り合う間柄ではなかったので、跳躍を終えた彼女が再び手を振ってきたときにも手を振り返さなかった。しつこく手を振っていたので仕方がないと思いつつ手を上げたところで「マグロー!」と呼ばれたので無視した。
そのことに痺れを切らしたのか、彼女は練習途中でありながらも僕に向かってきた。歩き方から察するにどうやらご立腹のようだった。彼女の表情がわからないので、そんなところから判断するしか、僕と彼女の間ではできなかったのだ。
「ちょっと、応援する気があるのかないのかどっちなのよ」
開口一番、彼女はそう言ってきた。その台詞に対して、僕はもちろん、
「僕は別にキミの応援なんてしてないよ」
そう答えたのだ。
彼女は腰に手を当て、くたびれた様子で溜息をついた。
「じゃあどうしてそこにいるの。手を振っても無視しちゃうしさ」
「もしかして僕に向けて手を振ってたの? ああごめん、準備運動かと思ってた」
「名前呼んでたでしょ」
「呼ばれてないね。僕の名前は真黒だ」
「マグロ」
「…………」
くつくつと笑う声が聞こえる。僕は無言で彼女を睨み付けた。
「気にしてるんだ? 気にしてるんだよねやっぱり! いいじゃない、サザエさんファミリーに入れるよ、きっと」
僕は永遠に昭和の時代を生きていたくない。どんな時代だったのかは知らないけれど。
「キミは、名前負けしないように必死みたいだね」
「別にあたしは空を飛ぼうなんて思ってないし。地面を這いずり回るくらいが精一杯って自覚してるんだから」
「謙遜しなくても。いつも良い成績残してるみたいじゃないか」
「誰に聞いたの? 友達いないんじゃなかった? あ、ごめんね」
口では謝りながらも、その口調からは申し訳なさなど微塵も感じられなかった。
「友達がいなくても、職員室に飾ってある表彰状を見れば誰だってわかるよ」
「ふふっ、大変だね、ひとりって」
「お気遣いどうも。ひとりっていうのも気楽でいいさ。それで誰に迷惑かけてるわけでもないしね。気を遣うことはないし、誰にも気を遣わせない」
「羨ましい限りだわぁ。あたしってほら、人気者だからそのへん大変なの」
「人気者なんだ。想像できないね」
前言撤回してやろうか。謙遜しろ。
「なにそれ。マグロに言われたくない。マグロにだけは言われたくない」
二回も言うな。マグロって二回も言うな。いくら僕でも怒るぞ。
「そういう意味じゃないんだ。人気者の自分なんて想像できないって言ったんだ」
「あはっ。それはあたしも想像できない」
彼女は笑い声をあげながらスタンド席を飛び回り僕の周りをぐるぐると廻る。子供がはしゃぐように。子供が楽しそうにはしゃぐように。今だって子供かもしれないが。発展途上の、子供かもしれないけれど。
「キミは、僕を馬鹿にして楽しいかい?」
「うんっ。楽しいなあ」
まあ、楽しいのだろう。楽しい。楽なのだろう。楽しいに草かんむりをつけると薬になる。病は気からとはよく言ったものである。
大空翔子の抱える『黒』はもはや病気だ。
「そりゃよかった。僕みたいな人間でも人様の役に立てるものなんだなあ」
「あはっ。マグロって変な奴だよね」
「僕は食卓に並ぶマグロを変だと思ったことはない」
「その顔がちょーいい感じっ」
当たり前だ。僕は今本気でちょっと怒っているんだぞ。本気でちょっととは微妙なニュアンスだけど、とにかく怒っているんだから。もう相手してやらんぞ。えらそうだ。もちろん僕が。
「おい、はっきり言っておくけど僕のことをマグロと呼ぶんじゃない。そのことでいじめられて実際に一時期マグロが嫌いになったんだからな。おいしいのに。おいしいのに食べられなかった僕の気持ちがわかるか。またマグロって呼んだらもう口利いてやらないからな」
「えっ、別に口利いてもらわなくてもいいけど」
「え」
ああ、うん、そうだよね。調子に乗ってすいませんでした。
「っていうかあなたのクラスのあたしの友達にマグロって知ってるって聞いたら知ってるって言われたし。あなたのあだ名は学内共通みたいだよ」
なんたることだ。僕の呼び名がマグロで統一されているだと……。いや、面と向かって呼ばれない限りなんてことはない。だいいち僕の話題があがることなんてそうそうないはずだし、この問題はどうでもいいことだ。修学旅行でマグロが出たら共食いなんて馬鹿にされるくらいだろう。いや、そんな会話すら起こらないか。
「むしろ全国共通かもね」
「それなら諦める」
「ところでさぁ」
大空翔子は僕の目の前までやってきてほくそ笑む。今日もまた、僕を馬鹿にしてくださって彼女の『黒』は薄らいでいた。良い薬になっているようで何よりだった。
「真黒くんってさあ、もしかしてあたしにいじめられるためにここに来てるの? 生粋のMとか?」
「なんだ、やっぱり僕と話したいんじゃないか」
「そ、そんなこと言ったらもういじめてあげないんだからね!」
「微妙なツンデレだなあそれ」
もちろん彼女の冗談である。言ってやったみたいな顔をしている。満足げに鼻息を荒くしていた。きっとテンプレ的なツンデレ台詞を言ってみたかったのだろう。中身は全然違うけれども。もしもツンデレ気分なら僕のことをいじめたくてウズウズしているに違いない。
「僕はMじゃないよ。断言できる」
なぜならば僕は人が困っている様を見て楽しんでいるからだ。人の悩みを覗き込んで楽しんでいるからだ。人の弱みを見て楽しんでいるからだ。
「うーん、そうなんだよねえ。まぐ……真黒くんのことを違う呼び方したら怒るしさ。喜んでいるようにはちっとも見えないし」
言い直したな。人が本気で嫌がることはしないのか、やはり抑制がかっているのか、根は良い奴なのかはわからないけれど。僕と話したいという線も残されている、かも。
まあ大空翔子にとって僕のような、他人とほとんど関わり合いのない人間がかっこうの的なだけなのかもしれないけれど。そういう意味では、僕のことを手放したくはないはずだ。
「大会、今度の日曜みたいだね」
「なあんだ、やっぱり応援しに来てくれてたんだ」
「だから、応援しにきたわけじゃないよ。キミが必死に練習するさまをただ眺めに来たんだ」
「それどう意味が違うわけ?」
「僕はキミが大会でどんな成績を残すのかなんて興味ないし。むしろキミみたいに必死で頑張ってる奴が本番で失敗しました、みたいなことを期待して見に来ているんだ。あんなに頑張ってたのに、可哀想だなあって他人の不幸を楽しむために来たんだ。そのためにはほら、その過程を知っておかないとね」
一瞬、言い過ぎたかもしれないと心配したけれども、意外にも大空翔子は小さく微笑んだ。
「うわあ、病んでる病んでる。そりゃあ友達いないわけだよ」
「キミほどじゃないよ」
「はあ? あたしは友達いるし」
「うん、そうだったね。友達百人だったっけ?」
「そう。実際はねー……ああ、うん、いいや。っていうかあたしが病んでるとか言いたいわけ?」
「いや、僕みたいな人間からすればキミみたいに汗水流して頑張るっていうのは、何かに憑りつかれているようにも思えてさ」
「ふうん。真黒くんって言い方がさあ、なんかさあ。歪んでるよねー」
「それは否定しないよ。僕って歪んでる人間だからね」
「……あのさあ、真黒くん」
彼女はそこで一旦言葉を区切って、少しの考える素振りを見せて、小さく息を吐いて言った。
「あんまりさ、自分のことをそんなふうに言うもんじゃないよ? そんなこと思ってたらさ、本当に歪んでいっちゃうっていうかさ、よくないと思うんだ」
……失敗した。
彼女に気を遣わせてしまったみたいだ。これでは何も変わらない。彼女の周りの人間となんら変わりがない。
「冗談だよ。キミがいじめやすいように言っただけなのに。ははっ。キミって実は良い奴だったりするのかい?」
「あたしが悪い奴に見えたっていうのかー!」
「そりゃあね」
「まあ、良い人間じゃないけどさ」
「良い人間なんていないよ。それに良い人間になんてなるもんじゃないよ。良い人間の方がより苦労するように世の中できてるんだから」
「うわあ、高校生でそれ言っちゃう?」
「周りの人を見ていればわかるよ」
僕にはそう思えるのだ。そう見えてしまうのだから。
大空翔子は良い人間なのだろう。彼女の友人らはみんな口を揃えてそう証言するはずだ。
元々が聖人君子のような人間ならば、それはそれはどんな苦労をしたとしても苦労とすら思わず、世界には愛が溢れているものだと思うのかもしれない。僕にあh決して想像だにすることができない頭の中だけれど。
大空翔子の抱えている『黒』がどんな感情なのかはわからない。憎悪か、あるいは悲哀か。しかしながら人間の感情では負に位置する感情を腹いっぱい、体いっぱいに抱えているのだ。腹の底から、体の芯から、どす黒い感情が湧き出ているはずなのだ。
それゆえに彼女は大した人間だと思う。体を覆い尽くすほどの『黒』を抱えながらも知人の前では何事もないように振る舞えるのだから。だからこそ、今があるわけだけれども。見るに堪えない、『黒』が在るわけだけれども。
「あなたって、不思議な人だね」
不意に、彼女は呟いた。口元を少しだけ緩ませていたような気がする。
「不気味じゃなくて?」
「おしいね。不気味なところもあるけれど、不思議っていう方が正しいかな」
得体の知れないという意味では同意語だろう。
「何を考えてるのかちっともわかんない。でもなんとなく、なんでもわかっていそうな気がするの。そんなはずないのにね」
「キミのこと? 少しはわかってるつもりだよ。弱い者いじめをする悪党ってことをさ」
「いじめてないよ。いじめてあげてるんだよ」
「僕はそんなこと望んでない」
彼女は声をあげてけらけらと笑った。何がそんなにおかしいのか僕にはわからなかった。
「あーあ、真黒くんのおかげでもう体冷えちゃった。責任取ってよね。もう練習できないじゃない」
「僕が暖めてあげようか?」
ってこれもテンプレ台詞のひとつだな。
「体の温もりが欲しいわけじゃないんですけど。いきなり欲情しないでよね変態マグロ」
「どんなマグロだ」
「ユニフォームを着た女子の汗に欲情する変態のことよ」
汗は引いたんだろう。そもそも練習途中に話しかけてきたのはそっちじゃないか。
「じゃあ邪魔しちゃ悪いだろうから、僕は帰るよ。キミの邪魔ができてよかった。今度の大会、期待しているよ」
そうして腰を上げたところで、彼女に引き留められた。
「あっ、待ちなさいよ。あたしはまだ片付けがあるんだから」
だからどうした。
「大変だね。頑張って」
彼女は頬をぷっくりと膨らませた。今更ながら表情豊かな彼女である。
「今度の大会、ここであるの」
頬を膨らませたまま、彼女は言った。
「だから? ホームだから負けないとでも?」
「たしかにそれもあるけど、邪魔した責任っていうの、ちゃんと果たしてもらうから」
なんだ、まさか見に来いとでも言うわけじゃあるまいな。
「応援しに来なさいよ」
想像よりも要求がひとつ上だった。見に来るだけでは済まさずに応援もしろと。まっぴらごめんだった。
「いやだ。僕は人が多いところは苦手なんだ」
「そうだろうね。でもあたしが失敗するところ見たいんでしょ? だったら見に来てよ」
「そんなのあとで結果を知るだけで十分だよ。それに応援なら友達がたくさん来てくれるさ」
「あっちはあっちでこっちはこっち。とにかく、来てよ」
「とにかく、行かない」
「あっ、むうぅぅ……」
しつこく食い下がってくるものかと思っていたけれど、今日の大空翔子は諦めが良かった。微かに「それならそれでこっちにも……」なんてぶつぶつ呟いていたけれど、もう僕がここに来ることはないだろうから気にはしなかった。
大会が終わってから、大空翔子に『黒』がどうなるのか少し楽しみだった。薄らぐことは間違いないだろうけれど、それがどの程度なのかに僕の興味はある。
正直、彼女の抱えているストレスの原因であろう陸上大会のことなんてどうでもいいのだ。その大会のストレス、プレッシャーが彼女の『黒』をどの程度占めているのか。それが明らかになるのが大会が終了してからになる。まあすぐにその結果が顕著に表れるものかはわからないけれど、僕はその時を待ち遠しく思っていた。
ただ、僕には誤算があった。
僕は甘かったのだ。
何が甘かったのか。
全て甘かったのだ。